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2020年9月26日 (土)

内藤丈草一族の墓碑(3)

今回は丈草のふたりの母について。

(1)でも記したが、江戸時代の内藤家の菩提寺は犬山の瑞泉寺塔頭「南方庵(菴)」であった。だが南方庵は明治になって廃寺となり今はない。昭和初期に市橋鐸氏が墓地踏査したときに、全部で内藤家25基の墓碑が墓苑の一区画にまとまってあったことは確認されており、それらはつい10数年前まで墓苑内にあったようだ。
しかしそれから現在までの間に墓地整理などがあり、これらの墓石の大半は市内の別の場所に移され、瑞泉寺本堂に隣接する現在の墓苑には、八男の内藤第八夫婦の墓石1基だけが残されている(この「第八」については次回に)。

丈草の生母は「妙順」らしいというのが市橋さんの推理である。内藤恒右衛門(次男)の末裔の方から、「寛文4年8月14日 妙順」の位牌がある旨市橋さんが聞いている。だがかつての内藤家の墓地にその墓は確認できなかった。しかし没年などから推理し、この妙順こそ丈草の生母にちがいないというのが市橋さんの結論であった。その没年は丈草三歳のころであることから、丈草にとって生母の面影もおぼろげなものであっただろう。
丈草は39歳の元禄13年3月下旬に犬山へ帰郷し、さらに美濃(関、加治田、蜂屋、深田など)、名古屋、大垣などに立ち寄っている。帰郷の主な目的は、母の37回忌の墓参のためであったと考えられ、その年に犬山で詠んだとされる句がある。もちろん精霊はすべての先祖を含めるが、この句では生母の霊とみるほかない。

精霊にもどり合わせつ十とせぶり 丈草 『そこの花』

生母「妙順」の没後数年してから父源左衛門は後妻をむかえた。名は「祖庸」。丈草が父母に孝を尽くしたことは、前回見た手紙でもわかるし、もちろん亡き生母への恩愛は上の句で痛いほどわかる。

継母「祖庸」の墓碑は現在見ることができる。
碑銘は「歸元中巖祖庸大妹」で享保三年に亡くなっている。それは父(夫)源左衛門の没後11年、丈草の没後14年目のことであった。市橋さんは「祖庸」の位牌を瑞泉寺本堂で確認したと記しているが、自分も一度それを見たいと思っていたところ、最近瑞泉寺を訪れたとき位牌を拝見する機会があった。

市橋さんは内藤家の位牌が瑞泉寺には父母のもの一つしかなかったと書いているが、探してみると内藤家の位牌は実は2つあった。
一つの位牌は父と母「祖庸」のものである。家紋は「下り藤」。
 表:體然好本信士 (好本は隠居名)
   中嚴祖庸大姉
 裏:宝永四丁亥年九月八日 俗名内藤源左衛門本守
   享保三戊戌年六月六日 祖庸
もう一つの位牌は丈草の甥(八男第八の子)内藤此面樹恆(恒)のもの。
 表:義山道智居士 元文四巳未年五月五日
 裏:俗名内藤此面藤原樹恒 
この樹恒の墓碑も現存している。

次回からも、これまで紹介できなかった墓碑をさらにみる。
 Photo_202007152148011f
   継母「祖庸」の墓碑       甥「内藤此面樹恒」の墓碑
  「歸元中巖祖庸大妹」       「義山道智居士霊位」
   1772(享保5)年没        1739(元文4)年没
        どちらも 2019/6/19撮影(犬山市内)   

 

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