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2020年12月

2020年12月29日 (火)

シロカニペ ランラン(1)

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      ペルセウス座 二重星団( h+χ )拡大可
       プリント写真をスキャナーで取り込んだもの
      撮影:1997年1月11日 撮影場所:岐阜県東白川村
      赤道儀:EM-200、カメラ:Nikon FE
           フィルム:Fujicolor G-400 、レンズ/露出時間等不明 

きのう本の整理をしていたとき、或る文庫本のなかほどに1枚の写真が挿んであった。写真の裏に、「1997年1月 東白川村にて 二重星団(h+χ)」とメモしてある。ときどき写真を栞代わりにすることはあるが、これが本の栞になったのは、それなりのわけがあってのこと。
文庫本は『アイヌ神謡集』(知里幸惠 編訳 岩波文庫 1978年)。

このブログを始めた4年前、鈴木壽壽子さんの随筆集『星のふるさと』(誠文堂新光社 1975年)のことにすこし触れた(→★)。[鈴木さんについては、こちら→★を]
この本との出会いは20歳代のはじめだった。半年ほどして本は知人に貸したのだが、不思議なことにそのひととともに行く方知れずになってしまった。ところがそんなことも忘れかけていたちょうど5年前、この本がたまたま地元の大学図書館にあることを「発見」し借りることができて、まるで宝物を運ぶようにして家に持ち帰ったのだった(今もこの本は絶版のままで、古書店にも見当たらない)。

『星のふるさと』に「銀のしずく 金のしずく」と題された一文がある。
もしも、国語の教科書に『北の人』(金田一京助著)から抜粋された小篇が載っていなかったら、ユーカラの世界のすばらしさを、知らずにすごしたことだろう」と書き出している。
教科書では物足りない彼女は、『北の人』の文庫本を手にいれ、『アイヌ神謡集』の編訳者知里幸惠さんを知り、弟の真志保さんのことも「まだ少年の姿に読んだ」。
そして四半世紀を経たある日、書店の棚の上に『ユーカラ鑑賞』の著者知里真志保博士の名を見る。「なつかしい『北の人』のお形見に思え」た彼女は「使い帰りの持ち合わせをその本にかえて帰った」のだった。

          (続きは年明けに。皆様よいお年を)


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2020年12月13日 (日)

百姓禰宜の先祖


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    戸隠神社(九頭宮:旧郡上郡和良村)の棟札
          和良歴史資料館:2019年8月撮影

以前の記事(→★)の続きになります。
45年ほど前に絶えてしまった母の実家は、代々村の神社の禰宜(棟札には禰宜のほかに神主の文字もみられる)でした。本業は農家であり、村祭りなどの神社行事を補佐するいわゆる「百姓禰宜」であったようです。
上の棟札に書かれた祖先の名を眺めていると、遠つ祖(おや)がいったいなぜこの神社と関わるようになったのか、そのわけをどうしても詳しく知りたくなりますが、その手がかりは全くないわけではありません。

父が舅である祖父から聞いたところでは、江戸時代のいつかはわからないが、その当時この神社を守っていた老婆(神職にあったと思われる)が困窮していたのを見かね、先祖が老婆を援助したことがきっかけとなり、その役目を引き継いだということです。でも事の詳細はそれ以上全くわかりません。
祖父は自分がこの「家」の13代目であることを「名号碑」の碑背に記しています。先祖の名は、幾つかの棟札(18~19世紀)に見えますが、写真左の棟札には「寶(宝)永三年」(1706年)と記されていて、これは先祖の名がある初期のもの(展示以外の棟札は見ていない)なので、それより前、17世紀末の元禄期には祖先がこの神社と関わりをもつようになったのではないかと想像しています。ただし、はたして先祖はもともとこの村に在住していたのか、それとも他の地からやってきたのかはよくわかりません。

この神社について調査したり伝承を分析した書籍類などを見ても、自分の先祖のことが詳しく書いてあるわけでもなく、今はただこうして棟札に墨書された300年前の先祖の名を、懐かしい心持ちで「与左衛門さん」と呼んでみるだけです。
そして子どものころ、母に連れられ毎年秋祭りに実家へ帰ってきたときの風景が次から次へと思い出されるのです。村人の喧噪のなか神社の舞台で演じられる不思議な神楽、派手な立ち回りばかりの田舎芝居、赤ら顔のまま家で装束に着替えて祭礼に向かう、きれいな眼をした、なかなかの男振りであった祖父のことを。
        Lodsc02082
              戸隠神社鳥居(左右の建物は舞台)
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           本殿から見る参道側の風景
      (参道入口右側にあるのは樹齢1000年といわれる一本杉)
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                一本杉 
                        *撮影:2019年盛夏

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2020年12月 8日 (火)

内藤丈草一族の墓碑(5)

昭和初期から市橋鐸さんが踏査した内藤丈草一族の墓碑の所在について、それらは今どうなっているかを調べてきた。今回はこれまで紹介できなかった墓碑を下に記し、まとめとする。
丈草の書簡でしか目にすることのなかった彼の親族たちについて、一族ひとりひとりの名がこうして墓碑や位牌に刻まれているのを眺めていると、短い生涯ではあったが丈草の生きた日々が鮮やかに甦ってくるようである。その一方、江戸期に丈草の墓碑が犬山の瑞泉寺に存在したことは『犬山視聞図絵』に記されているが、今回の調べでもその手がかりすら全く得られなかった。確かなことは、丈草が膳所の「龍ケ丘俳人墓地」に幾多の蕉門の人々とともに眠っていることだけである。
昨年来幾度も墓地通いをして、そのたびに思い起こしたのは芥川龍之介の『点鬼簿』であった。その末尾に丈草の句が添えられている。肉親の墓を前にした芥川とは少し異なるであろうが、この丈草の「心もち」は、やはり「押し迫って来る」のである。

 かげろふや塚より外に住むばかり
 

まとめ
⑴ 少なくとも昭和期まで瑞泉寺の墓苑にあった一族の墓碑25基は、1基(義弟の第八)が瑞泉寺に残されているだけであり、丈草の父母のものを含め残りの24基は市内の別院に移されて無縁仏となっている。ただし24基のうち3基は地蔵であったと市橋さんは述べているが、今回の調査ではその3基は確認出来なかった。

⑵ 個人情報保護が厳しくなった現今、その道の研究者や縁者でないかぎり寺の過去帳や墓碑の詳細を調べることは敷居が高くなっている。今回の調査も、墓碑の移動先やあらたにわかった事が二、三あった程度で、単に市橋さんの踏査結果をなぞったにすぎない。生前市橋さんは内藤家子孫の何人かと交流があったようだが(どの方も当時は犬山市以外に在住)、今現在そうした方々の消息もわからない。

⑶ これまで紹介できなかった墓碑
 10(第八の子)以外の縁者の詳細は不明であるが、丈草の義弟である次男(新家)及び四男(本家)など兄弟の子孫と思われる。

1 「蓬山丹丘信士」 内藤丹丘尉藤原守宣 1738(元文3)年
2 「心源定水義士」 内藤源十郎藤原本平 1761(宝暦11)年
3 「仁峯玄量居士」 内藤源左衛門(恒右衛門の子か)1766(明和3)年
  「梅溪春雪大姉」 寛政9年
4 「雪巖宗白居士」 内藤源四「郎?」 1776(安永5)年 
5 「雪道淨白居士」 内藤彦右衛門本尚 1806(文化3)年
6 「大圓守鏡居士」 内藤源左衛門本武 1806(文化3)年
7 「見道智性居士」 内藤元信 1860(万延元)年
8 「法室祖輪大姉」 「内藤氏 」とのみ刻されている。歿年不明
   「幼胎童女」
9 「紫雲紹光居士」 「内藤氏」とも読めるが不明   歿年不明
   「實峯智孝大姉」
10 「梅林祖的居士霊位内藤左膳濟民(第八の子)1739(元文4)年

*1~10とも撮影年月は2019年6月。場所は瑞泉寺別院。 
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       1              2

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        3             4
 
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        5              6

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        7             8

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       9              10


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2020年12月 5日 (土)

高度400㎞

 

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2020年12月 4日 (金)

本の中にしかない味

きのう買い物ついでに本屋に立ち寄った。
月の替わり目でもあり、文庫の新刊を眺めていると、『私的読』(堀江敏幸・角田光代 新潮文庫)があった。平成27年版の文庫化で、もともと食べ物雑誌の連載だという。
まずは角田の担当した回の幾つかをベッドのなかで一気に読み通した。題材にされた本のなかでは、たとえば開高健 『最後の晩餐』、檀一雄 『火宅の人』、バーネット 『小公女』、志賀直哉 『小僧の神様』、織田作之助 『夫婦善哉』、中川李枝子/大村百合子 『ぐりとぐら』などが印象に残る。高校時代に読んだり、子どもに贈った本もあって、あらためて再読してみたくなる。
「本の中にしかない味」の意味を考えながら閉じたが、眠りに入る手前で、温め直した「安永餅」(桑名)の姿が瞼に浮かび、無性に食べたくなってしまった。

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2020年12月 2日 (水)

内藤丈草一族の墓碑(4)

内藤丈草一族の墓碑をこれまで3回続けてみてきたが、ここであらためて丈草一族についてまとめておく。以前記した系図(→★)などもあるが、それを補足・修正のうえ整理した。
なおこれまでに参考にした文献等をまとめて末尾に記す。
→★は過去の記事に写真がある。

[1]丈草の祖父・伯父・伯母・従兄等

祖父:内藤仁右衛門、先祖は甲斐の出身。越前へ移り、のち尾張へ。
伯父:内藤平兵衛
   子の三太夫(従兄)は丈草書簡にもたびたび出てくる
   他に女子「まつ(了雲院)と「窓月童女」。
伯母:松壽院(墓碑は名古屋の養林寺)→★
         犬山城主成瀬正虎(墓碑は犬山市の臨渓院)の側室。   
         尾張藩重臣寺尾直龍の母。
            直龍の墓は臨渓院の墓苑(犬山市)にある→★

[2]丈草の父母、義弟・義妹。(犬山市内に墓碑のある者は青字)

 内藤源左衛門(隠居名は好本)→★
 妙順
        長男丈草(林右衛門)を産み、3年ほどで死没。
継母祖庸→★
        下記の7人の男子(推定)、3人(4人?)の女子をもうける。
次男内藤恒右衛門(常右衛門とも)→★
        新家をつくり、代々「源左衛門」名乗る。
三男委細不明だが、志村家の養子となった可能性あり(『士林沂洄』)
四男内藤儀左衛門(本好)→★
         内藤本家を継ぐ。代々儀左衛門を名乗る
五男:内藤茂助
六男:正順(近江膳所の光源寺僧侶か?)
七男内藤甚蔵
八男内藤第八
         子は「内藤左膳済民」と「内藤此面樹恒→★」
   
      ふたりとも若くして死没。養子も病のため御暇・家断絶。   
女子:秋夢童女
女子:幻質童女(市橋さんは「童子」と読んだが、やはり童女である。)
女子:つる、委細不明(嫁ぎ先等も)
女子:委細不明。名古屋養林寺に「花月露心信尼」の位牌。

前回(3)でみたように、瑞泉寺本堂には父の源左衛門と継母の祖庸、甥の此面樹恒の位牌がある。また、八男「第八」の墓碑は瑞泉寺の霊苑に、他の墓碑は別院に移されている。
これまで紹介できなかった墓碑のうち、丈草の義弟と義妹、従姉妹のもの4基紹介する。なおこれら以外に丈草との続柄が確認できない内藤家所縁の墓碑は次回にまわす。

       S
          七男 内藤甚蔵の墓碑
             碑銘「智嶽宗勇禪定門」
           没年:1706(宝永3)年


 
       V
          八男 内藤第八夫妻の墓碑
             碑銘「恱源曠怡居士」
               「要道妙玄大妹」
         両者の没年:1756(宝暦6)年
  *第八の墓碑は瑞泉寺墓苑にある。一族の墓碑ではこれのみ
   が墓苑に残された。なお碑の背面には「俗名内藤第八中」
   とある。
                   
       L
         丈草の義妹:「秋夢童女」
         没年:1675(延宝3)年


       J
         丈草の義妹 「幻質童女」
         没年:1678(延宝6)年

       N
       丈草の従姉妹:伯父平兵衛の子「まつ」
         碑銘「了雲院大虚慧明大姉」
         没年:1713(正徳3)年

参考文献(辞典等は省略)
1 県史、市史等
〇『愛知県史』 資料編 21 近世7 領主1 付属CD-ROM
〇『名古屋叢書』 続編 「士林泝洄」
〇『犬山市史』  別巻 文化財・民俗 (昭和60年)
〇『犬山市資料』 第二集(1985年)、第三集(1987年) 
                         犬山市教育委員会等編 
〇『瑞泉寺史』  横山住雄  思文閣出版 平成21年
〇『犬山視聞圖絵』
       ・『犬山市史』史料編4(近世上)所収 昭和62年
       ・国文学研究資料館:館蔵和古書目録データベース
    ・「日本名所風俗図絵 6東海の巻」所収 角川書店 1984年

2 市橋 鐸の論文・著作
〇『俳人丈艸』   白帝書房 昭和5年
〇『丈艸聚影』   第一輯 俳諧史研究會 昭和6年
〇『丈艸伝記考説』 愛知県立女子大学国文学会 昭和39年
〇「丈艸遺跡巡礼」をはじめとする諸論文・紀行文など

3 柴田貞一の論文・著作
〇「内藤丈艸傳新考-犬山成瀬藩家中之者由緒書及犬山古図より-」 
         『郷土文化』(名古屋郷土文化会)
                           昭和26年7月号 所収
〇「内藤丈草とその一族」『日本歴史』(日本歴史学会)  
                           昭和26年11月号 所収
〇「内藤丈草の傳記史料」『日本歴史』(日本歴史学会)  
                          昭和28年10月号 所収
〇「犬山城物語」 『犬山市資料 第三集』所収 昭和62年  

4 その他
〇「享保年御改家中之者由緒書」
  これについては、市橋、柴田両氏の文献等を参考にしており、
  由緒書の原本は実見していない。
〇『蕉門俳人年譜集』 石川真弘 前田書店 1982年
〇『蕉門俳人書簡集』 飯田正一 桜楓社  昭和47年
〇「肖像と伝説 -市橋鐸・林輝夫師弟の内藤丈艸像蒐集から」
           高木史人『口承文芸研究』第36号 2013年

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2020年12月 1日 (火)

♪ミロンガ💃

暖炉灼く夫よタンゴを踊ろうか 三橋鷹女『向日葵』昭和10年

実家からの帰り道、車の中でピアソラの「天使のミロンガ」などを聴いていた。
ミロンガといえばタンゴ、というわけで自宅に帰ってからダンスの映像をあれこれ見ていたところ、1300万回を越える再生回数の動画があった。
ダンスのことは皆目わからないのでうまく言えないが、踊りも演奏もスマート、和風のことばなら「粋」ということになるのだろうか。ともかくリズムというものの奥深さを感じながら、3分弱の幸せな時を過ごした。

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