内藤丈草一族の墓碑(5)
昭和初期から市橋鐸さんが踏査した内藤丈草一族の墓碑の所在について、それらは今どうなっているかを調べてきた。今回はこれまで紹介できなかった墓碑を下に記し、まとめとする。
丈草の書簡でしか目にすることのなかった彼の親族たちについて、一族ひとりひとりの名がこうして墓碑や位牌に刻まれているのを眺めていると、短い生涯ではあったが丈草の生きた日々が鮮やかに甦ってくるようである。その一方、江戸期に丈草の墓碑が犬山の瑞泉寺に存在したことは『犬山視聞図絵』に記されているが、今回の調べでもその手がかりすら全く得られなかった。確かなことは、丈草が膳所の「龍ケ丘俳人墓地」に幾多の蕉門の人々とともに眠っていることだけである。
昨年来幾度も墓地通いをして、そのたびに思い起こしたのは芥川龍之介の『点鬼簿』であった。その末尾に丈草の句が添えられている。肉親の墓を前にした芥川とは少し異なるであろうが、この丈草の「心もち」は、やはり「押し迫って来る」のである。
かげろふや塚より外に住むばかり
まとめ
⑴ 少なくとも昭和期まで瑞泉寺の墓苑にあった一族の墓碑25基は、1基(義弟の第八)が瑞泉寺に残されているだけであり、丈草の父母のものを含め残りの24基は市内の別院に移されて無縁仏となっている。ただし24基のうち3基は地蔵であったと市橋さんは述べているが、今回の調査ではその3基は確認出来なかった。
⑵ 個人情報保護が厳しくなった現今、その道の研究者や縁者でないかぎり寺の過去帳や墓碑の詳細を調べることは敷居が高くなっている。今回の調査も、墓碑の移動先やあらたにわかった事が二、三あった程度で、単に市橋さんの踏査結果をなぞったにすぎない。生前市橋さんは内藤家子孫の何人かと交流があったようだが(どの方も当時は犬山市以外に在住)、今現在そうした方々の消息もわからない。
⑶ これまで紹介できなかった墓碑
10(第八の子)以外の縁者の詳細は不明であるが、丈草の義弟である次男(新家)及び四男(本家)など兄弟の子孫と思われる。
1 「蓬山丹丘信士」 内藤丹丘尉藤原守宣 1738(元文3)年
2 「心源定水義士」 内藤源十郎藤原本平 1761(宝暦11)年
3 「仁峯玄量居士」 内藤源左衛門(恒右衛門の子か)1766(明和3)年
「梅溪春雪大姉」 寛政9年
4 「雪巖宗白居士」 内藤源四「郎?」 1776(安永5)年
5 「雪道淨白居士」 内藤彦右衛門本尚 1806(文化3)年
6 「大圓守鏡居士」 内藤源左衛門本武 1806(文化3)年
7 「見道智性居士」 内藤元信 1860(万延元)年
8 「法室祖輪大姉」 「内藤氏 」とのみ刻されている。歿年不明
「幼胎童女」
9 「紫雲紹光居士」 「内藤氏」とも読めるが不明 歿年不明
「實峯智孝大姉」
10 「梅林祖的居士霊位」 内藤左膳濟民(第八の子)1739(元文4)年
*1~10とも撮影年月は2019年6月。場所は瑞泉寺別院。
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