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2021年1月

2021年1月30日 (土)

Wolf Moon

 

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2021年1月22日 (金)

沼狸

晴れたので自宅近くの新郷瀬川沿いを散歩。
マガモ(たぶん夫婦)、カルガモ(やっぱり雌・雄がどうしてもわかりません!)、アオサギ、ダイサギも。
百舌鳥(餌取りを披露)、さらにジョウビタキ、ツグミの群れ・・・
長閑、平穏な昼下がり。
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で、何気なく向こう岸に目をやると、いじけたような、ふて腐れたような、それでいて哀愁漂う後ろ姿。
お、カ、カピ・・?! じゃなくて、
久しぶりに目にする沼狸であった。
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彼ら一族、戦時中はパイロットの飛行帽などの防寒用裏地に使われたりとかで、ずいぶん輸入・養殖されてたのだろうけれど、このヌートリア、今は指定外来生物として害獣になってしまった。陽の高いときに姿を見せるのはめずらしいが、小腹が空いて短いお八つの時間だったのか、ほとんど後ろ姿しか見せてくれず、すぐ水際の茂みに隠れてしまった。

家に帰って、「環境省」の指定外来生物のパンフを眺めていた。
なかに「アライグマ」の解説も。例の人気テレビアニメの影響も書いてはあるが、むしろそれ以前のこととして、初めて知る「或る事実」が。
アライグマの野生化が国内で最初に報告されたのは1962(昭和37年)、愛知県犬山市の事例であるとされています。同市にある動物飼育施設で飼育されていたアライグマ12頭が柵から脱走したものです。手先が器用で力も強く、木登りも巧みなアライグマは、安易な飼育体制ではすぐ脱走してしまいます。しかし、当時はそうした認識も十分ではなかったのでしょう。
 「分布を拡大する外来哺乳類 アライグマ ハクビシン ヌートリア」
             環境省自然環境局生物多様性センター 発行

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2021年1月16日 (土)

丈草の座禅石

犬山市の「西蓮寺」に丈草の日用品ともいうべき座禅石がある。

この写真は数年前のもの。
最近訪れたときには丈草の座禅石であることを示す小さなプレートが添えてあった。

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この座禅石の由来について、市橋さんはこう述べていた。

   これは後年犬山藩士小林某の手に入ったのを同寺に納めたの
   だといふ。そのとき「この石はきつと下へ置いてくれるな」
   と傳言があつたとの
ことである。  『俳人丈艸』35頁

しかしこれだけでは少々意がつかめない。
調べると、赤木邦之助氏が次のように詳しい経緯を書いている。

   この石はもと内藤家の井戸端にあった。其後この宅を現在の
   木全氏の祖先が買つてここに移り住んだので随つてこの石も
   木全氏のものとなった。ところが其後幾星霜を經て同地寺内
   町の士族小林氏の手に移った。この小林氏は茶人で、今から
   三代前の西蓮寺の住職と茶友であったので、この石を同寺へ
   納めたのである。
   小林氏から西蓮寺へ引渡しの時に小林氏は「この石は必ず下
   に置いて呉れるな」と言つたので寺では石を積んだ上に置い
   てゐたが、今の住職は築山をこしらへてその上に据ゑてゐる。
     「大聖𠀋草」(『犬山市資料第二集』 32~33頁)
         *元は雑誌『智仁勇』大正9年~10年の連載
  
写真左側に句碑(例の「精霊に戻り合わせつ」の句)がある。座禅石は、真ん中がすこし窪んだ右側の石だという。
いわば丈草の使い慣れた日用品ともいうべきものを眺めていると、いまさっきまで座っていた椅子の、クッションに残った窪みを見ているような、その温もりさえ伝わってくるような気がして、なにやら生々しい空気が石の周りに漂い、詩、句、書翰などからはとうてい窺い知れない丈草の生身がこの石の上に立ち現れてくる。それは、以前も見た丈草の詩の結句の、琴梅を詠じつつ座禅する若侍の姿である。

空 門 深 築 小 蓬 莱   空門深く築く小蓬莱
終 日 詩 仙 乗 興 来   終日詩仙、興に乗りて来る
人 境 都 廬 倶 不 奪    人境都廬、倶に奪はず
座 禅 臺 畔 詠 琴 梅   座禅す臺畔、琴梅を詠ず 

       『犬山視聞図会』 「神護山先聖寺」の条より

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2021年1月10日 (日)

シロカニペ ランラン(2)

(承前)

  「銀のしずく 降れ降れ まわりに
   金のしずく 降れ降れ まわりに」
  「シロカニペ ランラン ピシカン
   コンカニペ ランラン ピシカン」

『ユーカラ鑑賞』と出会った鈴木さんは、冒頭の「フクロウ神の謡」で繰り返される「おりかえし」を何度も口ずさんだそのたびに何となく「私のまわりにキラキラと明るく、こぼれ散るものがあるような」気がしたという。
このリフレインは、やがて「銀河の泡を思わせる」ペルセウス座の二重星団の印象へとつながってゆく。彼女が二重星団を双眼鏡で見たときはまだ霞んでいたものが、ある日見た天文雑誌の表紙を飾るその星団の大写しを見たとき、はっきりと像を結んだ。
二つかみの宝石がキラキラ播かれてくるような美しさが、双眼鏡で見たときの印象に重なった。

 シロカニペ ランラン ピシカン 
 コンカニペ ランラン ピシカン

文章の最後を彼女はこう結んでいる。

人間たちの住む国に、しあわせを呼び、降らせる歌が、暗い空からこぼれていた。」

1927(昭2)年岡山で生まれた彼女は結婚後四日市に住むことになった。幼いころから星が好きで、学校の図書室の本などから星座図を敷き写し、それを挿絵にして星の思い出や観望記を書き添えていた。それらは嫁いだときに持ってきたが、伊勢湾台風(昭和34年)で失われてしまった。
やがて地元四日市では大気汚染の問題が深刻化し、裁判も始まっていた。育った岡山で親しんだ星空は思い出になってしまったが、火星などの惑星はここでもかろうじて観望できる。鈴木さんが火星大接近を前にして、口径6センチの望遠鏡で火星の原色スケッチを始めたのが1971(昭和46)年の夏であった。しかしそのころ、最小年38歳の原告だった主婦が喘息のために亡くなっている。

失われた青空と星空が戻ることを念じながら、それまでの星の観望から観測へとすすみ、のちには流星塵観測も始めた。
1973(昭和48)7月原告全面勝訴の判決に喜びつつも、「結びにかえて」のなかで「なぜかもっと大きくむずかしい何かがはじまったような気が」したと記した。
あれから半世紀近く経つが、鈴木さんのいう「むずかしい何か」は今も私たちのなかにありつづけている。とくに今その感は強い。ひたすら望遠鏡をとおして火星を見つめていたとき、実はほんとうに彼女が見つめていたものが何であったか、別の文章で次のように書いていた。
直径六センチの小さなレンズが、力一ぱい私の心に投影していたのは、銀色の月をつれて、真暗な真空に浮かんで自転する地球の、小さな星である姿と、かけがえのないすばらしさではなかったのだろうか。視野の火星が遠く小さくなってゆくにつれて、青と白とに輝いた地球の姿が、次第に大きく心の中に浮かび上がってくる。息づくように渦巻いている雲を透して、日本の島々が、私たちの街が・・・。」 (「ほんとうの大きさ」)

鈴木さんは1985(昭和60)年8月、58歳のとき亡くなられた。


自分にとって、いつも「二重星団」とこの「ユーカラ」が結びつくようになったのは鈴木さんの文章を読んでからだった。
1997(平成9)年の冬1月、ちょうど今時分の深夜、天頂へ双眼鏡や写真鏡を向けたとき、淡く滲んだふたつの星団は、たしかに銀や金のしずくにちがいなかった。冬の銀河の片隅から煌めき降り注ぐ光のしずくを、あの夜いつまでもいつまでも見つめていたことを思い出す。
その夜フィルムに写り込んだ星団の写真[前記事(1)]は、すぐに『アイヌ神謡集』の栞になった。


(このブログのタイトルの「フクロウ」は、このユーカラに因む。)

参考

星のふるさと』 鈴木壽壽子 誠文堂新光社 1975年
『星のふるさとのこころ 四日市1971~73年 夜空の記録』
         四日市人権センター 冊子PDF(→★
『鈴木壽壽子さんのこと』 西山洋 
     東亜天文学会 会報『天界』2009年4月~5月号
                 上記再編集記事(→★

『アイヌ神謡集』 知里幸惠 岩波文庫 1978年

『ユーカラ鑑賞』 知里真志保・小田邦雄 潮文社新書 昭和43年
            [元は1956(昭和31)年 元々社刊行]
『北の人』 金田一京助 角川文庫 初版昭和27年

なお、1998年に小林隆男氏が発見した小惑星には彼女の名がつけられた。
以下のサイトには、簡にして要を得た彼女の業績が記されている。
JPL Small-Body Database Browser(→★)に掲載の一文
8741 Suzukisuzuko
Discovered 1998 Jan. 25 by T. Kobayashi at Oizumi.
In 1975 Suzuko Suzuki (1927-1985) published a collection of poetic essays on her love for the beauty and wonders of the starry night sky. She made many accurate and beautiful color sketches of Mars with a small refractor in 1971 and 1973 and continued counting micrometeorites from 1972 to 1978.

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