旗本徳山氏のこと②
古い話になるが、戦後復員して3年後にようやく父が定職を得て、最初の赴任地となったのが岐阜県西部の揖斐郡だった。結婚生活が始まり、自分が生まれて2歳までいたところでもある。
仕事で揖斐郡内を巡回していた父は、徳山村にもたびたび足を運んだ。父にとっては忘れがたいところだったようで、とくにその現場を目の当たりにした1954(S29)年5月の「徳山村大火」のことをよく話してくれた。
父は徳山村についての新聞記事や資料の抜き書きをしたり、旗本徳山氏のことも図書館で調べていたようだ。徳山ダム建設に関する資料も残しているのは、徳山村がダムの底に沈んでしまうことをとても悲しんでいたからだろう(ダムのことはまたいつの日か)。
話を戻す。もともと戦国期の徳山氏は織田信長などに仕えていたが、関ヶ原で家康の東軍方につき、江戸幕府を支える約5千石の旗本(初代五兵衛則秀)として重用された。もちろん江戸に屋敷を構えてからは、当主が徳山郷や各務原の陣屋へ来ることは一度もなかったはずである。
やがて3代目の五兵衛重政が幕府の大きな仕事を任されることになる。(次回へ)
旗本初代徳山五兵衛(則秀)の肖像
(各務原市西市場にある陣屋公園説明板の一部分)