サイクリング途上で
きのう、犬山市から一宮市まで「木曽川沿川サイクリングロード」を往復。木曽川犬山緑地に車を置き出発。往路で138タワーパーク、復路でフラワーパーク江南に立ち寄った。距離はあまりないので、スピード重視。
次は更に南下して稲沢・祖父江方面まで行ってみよう。
★138タワーパーク(ツインアーチ138)
ハロウィン関連の展示中。
★フラワーパーク江南
(ハロウィン花のオブジェ展開催中)
定番の足長オジさんになってみました。
きのう、犬山市から一宮市まで「木曽川沿川サイクリングロード」を往復。木曽川犬山緑地に車を置き出発。往路で138タワーパーク、復路でフラワーパーク江南に立ち寄った。距離はあまりないので、スピード重視。
次は更に南下して稲沢・祖父江方面まで行ってみよう。
★138タワーパーク(ツインアーチ138)
ハロウィン関連の展示中。
★フラワーパーク江南
(ハロウィン花のオブジェ展開催中)
定番の足長オジさんになってみました。
後ろは「金沢監獄中央看守所」
きのう明治村住民登録(年パス)更新のため入村。
遠足の中学生集団があちらこちらに散開していたが、その光景は久しぶりに「日常」を思い出させてくれる。
北口から入ると5丁目。この辺りはキンモクセイが多い。ただ一部を除いてもう花は終わっているようにみえる。
それにしても暑い。雲がまだ夏の顔をしている。南下して1丁目の「近衛局本部付属舎」で登録更新したときは汗だくだく。再び5丁目に戻って帰ろうとしたが、いつものように「住民登録地」の帝国ホテル中央玄関(5丁目67番地)で長い休憩をしてしまった。
ここにあるどの意匠も或る懐かしさを誘う。
その懐かしさが、薄れゆく記憶をまた蘇らせてくれる。
徳山氏陣屋跡(史跡旗本徳山氏更木陣屋跡:各務原市)
24/Sep./2021
5代徳山五兵衛秀栄(ひでいえ)については「享保九(1724)年三月八日より本所の火事場見廻をつとめ、延享三(1746)年七月二十一日より仰せをうけて盗賊を追補す」(『寛政重修諸家譜』)とある。この盗賊を追補する役職は火付盗賊改方であり、当時幕府を悩ました盗賊団首領日本左衛門の捕縛(最後は自首)に関わったことなどが記録に残っている。なお秀栄の父である4代徳山重俊も元禄15(1702)年に同じ職に就いたことがあった。赤穂浪士吉良邸討入の年である。
秀栄は時代小説の主人公としてもよく知られている(『おとこの秘図』池波正太郎 )。日本左衛門のことや史実を巧みに織り込みながら物語にしているらしいが、その雑誌連載が1970年代末のことなので、ひょっとしたら父はこの小説を読んでいたかもしれない。それに父が遺した資料のなかには、徳山氏関連とは別に「火付盗賊改方」について詳しく調べたものがあり、たぶん自分の仕事のこともあってその役職に興味をもっていたのだろうと思う。
ここまで父のことにも触れながら、旗本徳山氏のことをメモしてきた。今まで自分が知らなかったことを中心に書いてみただけだが、あらためて気になったのは、徳山氏の本領徳山郷のことであり、今は消えてしまった旧徳山村のことである。父が昭和29年の徳山大火を見たのは、サイドカーの試運転を兼ねての巡回中に、村を一望できる峠道に差し掛かったときだったという。それはどこだったのだろう。
やっぱり徳山ダムに行ってみることにするか・・・
余談:
父のノートのなかに、火付盗賊改方の役に就いていた何名かについて簡単な履歴のメモもある。
たとえば徳山秀栄、長谷川宣以(平蔵)、矢部定謙、池田長発などである。
このうち平蔵はあまりにも有名だが、幕末に外国奉行として欧州にも派遣され活躍した池田長発(ながおき)は、数年前のTV番組で紹介された肖像写真(→★)のこともあって、ずいぶん話題になっていた。
3代徳山五兵衛重政が本所に宅地を授かり屋敷をつくった場所は石原町だった。今の墨田区石原町1丁目あたりである。
『江戸切絵図』(*)の「深川絵図」をみると、屋敷は現在の「横網町公園」北東側の区画にあたり、屋敷の南側の道が今の蔵前橋通りになっているようにみえる。
現在の地図では「徳山五兵衛屋敷跡」の名称があり、徳山氏の宅地内にあった屋敷神を祀る「徳之山稲荷神社」が、かろうじてそこに屋敷があったことを示すよすがとなっている。さらにいつごろ作られたかは不明だが、「日本左衛門首洗い井戸跡」もあるらしい。ただしここを訪れたことがないので詳細はわからない。
次回は重政の孫にあたる5代徳山五兵衛秀栄(ひでいえ)をみる。(次回へ)
(GoogleマップのHTMLをコピーして埋め込んだもの:スクロール可)
参考
(*)『江戸切絵図 本所絵図 嘉永新鐫』
国会図書館デジタルコレクション
尾張屋清七, 嘉永2-文久2(1849-1862)刊参照
さらに「古地図 with MapFan」の地図サイトも参考にした。→★
陣屋跡から東へ500㍍ほど離れた村社の神明神社に着いた。
重政が寄進した石灯籠(市指定有形文化財)は、姿形をなぞるように丁寧に鉄枠で倒壊防止が施されている。灯籠側面の銘には、「奉寄進石灯籠 武運長久諸願成就祈所」の願文があり、「寛文五年(1665)」「武蔵国江戸作之」「敬白 徳山五兵衛家中」とある(重政の筆になるものか)。
ちょうどそのころ重政は「本所築地奉行」として本所や深川の開発を手がけていたときである。たぶんその事業が順調にすすむよう遠く美濃にある知行地の神にも願いをかけたのであろう。それにしても江戸からここまで灯籠を運ぶのは、船が使われたにせよずいぶん難儀なことであったにちがいない。
すでに奉納から350年以上経ているにもかかわらず、その年月の経過を感じさせない趣のある灯籠である。灯籠造り自体は職人の仕事だとしても、どういうわけか重政の人柄とか性格のようなものまで姿形に現れている気がしてくる。灯籠を職人に注文するとき、重政自身があれこれ細かく指示したのではないかとさえ想像してしまう。
重政は、もちろん仕事の面では才智ある有能な幕臣だったのだろうが、誰よりもあつい信仰心をもった人格者であったに違いない。
灯籠を眺めれば眺めるほど彼の立ち姿が目に浮かんでくるのである。
(次回へ)
父が残したメモのなかに旗本徳山氏の簡単な系図があり、3代目の重政と5代目の秀栄に鉛筆で丸印がしてあったがその意味はわからなかった。今回訪れた陣屋跡の説明板にも、3代重政はその役職名しか記されていなかった。
そこで、家に帰ってからまず重政のことを調べ直してみた。
重政は、本所や深川の町づくりを指揮した初代「本所築地奉行」だった。明暦の大火(1657年)後、都市計画の推進役として万治3年(1660)からその任にあたり、「本所の邸宅をわかちさだめ、あるひは道路をひらき、堀橋をつくることを奉行す。このとき亀戸天神を草創し、深川にをいて長慶寺を建立す」との記録がある(*)。防火・防災のために大名・旗本らの武家屋敷、町屋、寺社などを本所などへ移転させたり、掘り割り、埋め立て、架橋などをすすめて隅田川東部の土地開発や道路網の整備を取り仕切った。しかし1680年の台風・高潮の被害は甚大で、事業を断念するなど困難に直面したらしいが、その後事業は再開されて1688年からは武家屋敷の移転も始まっている。
ただしこの程度の調べでは、本所築地奉行としての重政の功績など詳しいことはよくわからなかった。けれども未曽有の事業に先鞭を付けたことは確かで、その苦労を思うばかりである。
重政は寛文10年(1670)に御勘定頭となっており、5将軍綱吉への代替わりの翌年天和元年(1681)に勤めをゆるされ、貞享3年(1686)には引退した。彼は森下の長慶寺の中興者とされており、寺は徳山氏の菩提寺ともなっている。そして現在の墨田区石原町に屋敷(あとで触れる)を拝領したのも重政の代であったという。
さて、陣屋跡の説明板に次のようなことが書いてあった。「重政は、幕府勤めの傍ら、石灯籠を江戸で造らせて西市場の神明神社へ奉納した人物として知られています。」
近くなので早速神社へ自転車を走らせることにした。(次回へ)
参考
*『寛政諸家重修家譜』第三百八巻 (修→脩)
⇒国会図書館デジタルコレクションの活字版を参照した。