(承前)絵の出典は(1)と同じ。

京町の猫通ひけり揚屋町 其角
むかしこの絵を初めて見たとき、部屋のある建物はかなりの高さがあるように感じた。はたして何階建ての家なのだろうかと不思議に思ったのである。眼下の家の見え方からすると、二階屋からの眺めにしては視点が高すぎるし、当時、三・四階建ての家があったと考えることにはやはり無理があるからだ。けれども以来その疑問を思い出すことがなかったのは、この絵に感じる叙情性や物語性の方に心が強く奪われていたからかもしれない。
ところが二年ほど前、新吉原造成のときに尾張(知多)の人々(陰陽師や黒鍬衆)が深く関わったことについて書かれた或る本を知人が貸してくれたのである(※1)。関連する他の書籍など(※2、※3)も合わせてみると、新吉原の土地はもともと微高地であったらしく、それをさらに造成して周囲よりかなり高い場所にしたらしいのである。だから二階屋であっても、おそらく絵のような高みからの眺めはありうるのであり、決して不思議なことではなかったのである。
加えて興味深いことに(※1)によると、知多衆が関係したのは土地造成だけでなく、移転当初の「揚屋」の多くが尾張知多の出身者たちによって運営されていたらしいことなど、地元尾張の人々と新吉原との今まで全く知らなかった深い縁について考えさせられることが多かった。
いややはりそんなことよりも、この絵を見るたびにどうしても頭を過るのは、樋口一葉の『たけくらべ』の話、あの酉の市の日を境に変貌した美登利の姿なのである。
参考:
(※1)『吉原はこうしてつくられた』
西まさる 2018 新葉館出版
(※2)『広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密』
竹村公太郎 2021年 集英社
(※3)「吉原遊郭地業についての基礎研究」
小柳美樹 2021年
淑徳大学人文学部研究論集第6号
(※4)『吉原という異界』
塩見鮮一郎 2015年 河出文庫
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余談:この絵の鑑賞者が見ている絵の中心の方角は、富士の位置からして南西方向である。つまりここは遊郭の西端(正確には南西の端)になるから、この妓楼(あるいは見世)があるのは其角の句にある当時の京町一丁目か二丁目かもしれない。さらに気になるのは、部屋から見下ろした先にある五軒ほどの家のことである。吉原の周囲は田畑だからそれらが百姓屋とみることもできるが、実はそうではなく、この妓楼が京町に在ると仮定するならば、「江戸切絵図」(→★)や「新吉原之図」(→★)にあるとおり、これらの家々の子細を推断することは容易なことのように思える(※4)。もちろんこれが京町からの眺めだという確証があるわけではない。ただ、この絵の幾つかの解説書を見ても、眼下の家々のことに触れたものは皆無であった。