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2022年7月

2022年7月14日 (木)

呑水(4補)

(承前)
前回紹介した美濃加茂市深田の「深田スポット公園」。
そこから上流に向けて、堤防沿いに「諷詠への径」と名付けられ、石版に刻まれた多くの句が並んでいるが、そのなかに呑水の句もある。この句は調べてみると、もともとは兼松嘨風編の『袋角集』にあり(字体もそこから取っている)、「ナゴヤ呑水」と記されていることから、彼が名古屋の情妙寺に移ってからの句と思われる。

白鷺の脛をかくさし涼み川  呑水 『袋角』

しかしよく見ると、下に添えられた読みを示すプレートに誤りがあった。
×脛をかくして 〇脛をかくさし(じ)

呑水のためにも、いつか訂正されることを願います。
撮影:2022/06/22
554p1030251

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2022年7月13日 (水)

呑水(4)

(承前)
林輝夫が美濃加茂市の俳誌「自在」に呑水の紀行文を翻刻掲載することになった経緯は、林の記したところによると概略以下の如くである。


林は平成6(1994)年秋に「艸ほこ」の存在を知り、翌平成7(1995)年1月に早大図書館に問い合わせたところ在庫していることを確認した。
貴重なしかも未発表の資料であることを関係者に話すが、関心を示すひとはいなかった
すでに交流のあった美濃加茂市の俳誌『自在』主宰の西田兼三氏を訪ねた際に話をすると、強い興味を示され、翻刻を手がけてほしいと言われ、同年4月14日に大学から西田主宰に送られてきたコピーを林が受け取り翻刻作業に入った。
しかしその2週間後の28日に残念ながら西田主宰は急逝したのである。

以上の経緯は「自在」の平成8(1996)年5月号に記されている。そこに林は、西田主宰の「生前の御厚意に感謝し取り敢えず一部だけを、謹んで一周忌の霊前に捧げます」と記した。『艸ほこ』に収められている幾つかの題名のある文章のうち「蜂屋(へ)紀行」についてのみ、その5月号と6月号に2回に分けて、原文のコピーとともに翻刻文章が掲載されたのであった。
以上のような経緯は、林が『犬山市史』(通史編 上)に呑水に関する原稿を執筆していたまさにその時期と重なっており、この経緯はどうしても、たとえ短い文であっても『市史』の原稿に加えておきたかったのである。それは西田への感謝であり、手向けでもあったと思う。

林輝夫と西田兼三との出会いと交流については西田の追悼句集(「自在」1995年6月号)に林が「先生とのおついきあい」と題する文章を書いている。
これによると、出会いのきっかけは兼松嘨風(元禄期の俳人:今の美濃加茂市深田在)のことであった。西田は地元の俳句結社「自在」を主宰するとともに、郷土(東美濃)のとりわけ元禄期俳人の嘨風、今の美濃加茂市蜂屋在の魯九らを研究していた。他方、丈草研究の一環で昭和初期からすでに元禄期の東美濃の俳人を調べていた市橋鐸のことを知っていた西田は、市橋の遺稿を弟子の林輝夫が受け継いでいることを聞かされ、ふたりの交流がさらに深まったという。

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美濃加茂市深田の木曽川堤防にある「深田スポット公園」には、平成5(1993)年に兼松嘨風の句碑などが建立されたが、西田はその事業の中心的存在であった。下の写真は美濃加茂市深田の木曽川右岸につくられた「深田スポット公園」。
ここに「兼松嘨風」を記念する句碑と顕彰碑が設けられた(1993年)。
嘨風の句碑は「山間の 雪の中ゆく 筏かな」
*なお関連する記事として★参照
Ooop1030259
句碑のあるスポット公園から川沿いに上流方向に句が並ぶ「諷詠への径」。
芭蕉、丈草、嘨風、魯九、呑水などの句が石版に刻されている。
688p1030264
写真:撮影 2022/06/21

参考:
『郷土蕉門の元禄俳人の足跡 兼松嘯風編』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1994年
『東美濃蕉門俳句の鑑賞』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1995年

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2022年7月 7日 (木)

呑水(3)

(承前)
再び『犬山市史 通史編 上』にあった例の一文のことに戻る。

「釈呑水」を説明する文章の最後は次のように締めくくられていた。

「・・・享保一四年(1729)没。追悼集に『蓮の実』がある。自筆原稿が早稲田大学図書館にあり、俳句結社『自在』によって活字化された。

文末の青文字部分は(1)でも述べたように、中途半端に付記された一文としか思えないのであるが、しかし言葉足らずの走り書きのようなものになったのには、何か訳があるにちがいないとも感じたのである。呑水の自筆原稿の存在や俳句結社「自在」のことについて、今どうしてもこの場を借りて記しておきたかった経緯、あるいはこれを記したときの筆者の心裡を知りたくなったのである。

そこでまず、筆者のいう早大図書館にある呑水の自筆原稿とはそもそも何なのかを確認した。
大学古典籍データベースを検索してみると、「艸ほこ 霊江斎呑水 稿」という名の文献が見つかった。印記は「小寺玉晁旧蔵」とある(小寺玉晃 1800-1878 は尾張藩の陪臣であったが、好事家、随筆家としても知られたひとであり、貴重な文献を蒐集したことでも知られる)。
ちなみに愛知県西尾市の「岩瀬文庫」に小寺の「愛知古今俳人百家撰」(1878)があり、呑水について以下のような記述がある(古典籍データベースの書誌情報を参照しただけで、この典籍を実見していない)。

(霊江斎呑水)源頂山情妙寺六世遠光院日陽和尚也翁門人ニテ翁没後宝永庚寅十月十二日十七周忌義仲寺ニ至リ追福ヲナシ荘厳ノ花ヲ咲ス其集ヲ不断桜ト号初犬山妙感寺ノ住職也元禄十七年ヨリ情妙寺江入院予呑水自筆ノ所々江紀行之記アリ艸ほこと云…

以上のことから、『市史』の筆者がいう呑水の「自筆原稿」とは、早大図書館にある小寺玉晃旧蔵の「艸ほこ」にまちがいない。

次に『市史』の「釈呑水」の執筆者のことである。
犬山市史『通史編 上』に呑水の項目があるのは、第二章第四節「城下町犬山の文芸」である。巻末に執筆者の分担が記してあり、第四節の執筆者は「林輝夫」とあった。彼は旧制小牧中学校時代の市橋鐸の教え子であり、市橋が学んだ同じ大学を卒業し愛知県の教員となったが郷土史家としても活躍した。ふたりは長く師弟としての交流があり、市橋の遺稿も彼が引き継いだという(その辺りの事情は前にも挙げた「文献」→★を参照)。

さて次に俳句結社『自在』について調べてみた。
『自在』は岐阜県美濃加茂市の俳句結社であり、林が「『自在』で活字化された」と書いているのだから、この俳誌に呑水の「自筆原稿」の翻刻を見つけることができるはずだ。そこで俳誌が揃えてある美濃加茂市の図書館へ行き、翻刻の記事を探すことにした。
あの一文が書かれたのは『市史通史編 上』の出版年である平成9(1997)年より後ではないはずだが、いつ「活字化」されたのかはわからないので、ひとまず1993年からの各号を順番に紐解いていった。見ていくと、その「自在」という名の俳誌に林輝夫は頻繁に文章を寄稿していたことがわかった。俳誌の代表者である西田兼三(侑三)のこと、あるいはそもそも犬山の林輝夫がなぜ美濃加茂市の俳誌に寄稿していたのかも興味深いが、そうしたことは次回また触れることにする。

調べてゆくと「自在」平成8(1996)年の5月号と6月号に二回に分けて以下の翻刻が掲載されていた。

 蜂屋紀行 犬山住 呑水稿  林輝夫翻刻

これでようやく「市史」の謎のような一文の意味を読み取ることができた。つまり林は、市史執筆と同時期に見つけた呑水の「艸ほこ」を翻刻したのだが、そのことをどうしても市史のなかに書き添えておきたかったのである。おそらく師であった市橋鐸も知らなかった呑水の文書を見出し翻刻できたことの喜びのようなものを、あの遠慮がちな一文は表しているような気がするのである。

次回は、そもそもこの翻刻が「自在」に掲載されることになった経緯を辿ってみたい。

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平和公園「情妙寺墓地」(名古屋市東区平和公園1丁目)
写真の最も奥に歴代住持に並んで呑水の墓もある(2022/06/04撮影)。

参考:
『艸ほこ』 霊江斎呑水 稿  
  早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」参照
『愛知古今俳人百家撰』 
  愛知県西尾市岩瀬文庫「古典籍データベース」書誌情報参照
『自在』 
  岐阜県美濃加茂市俳句結社「自在」俳誌 1993年以降参照



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2022年7月 1日 (金)

呑水(2)

(承前)
『市史』の一文を謎解きするのは次回にして、肝心の「呑水」についてひとまず簡単にメモし、彼の墓碑や句碑が現在どうなっているかを写真記録として載せておく(参考文献は下記)。

寛文元(1661)年犬山の生まれ。露川門の俳僧。俳名呑水。
丈草の竹馬の友といわれる所以は、丈草の追悼集『幻の庵』に寄せた呑水の句の前書きに「竹馬の戯れのみ思ひて」あるいは「故郷の親友の志に」とあるからで、丈草自身が呑水を幼馴染みと記した文献は無いという。
11歳で仏門に入り、のち犬山の一翁山妙感寺四世となり13年在住。
さらに名古屋の源頂山情妙寺六世として16年在住。
享保14(1729)年十月四日入寂。
僧名は「日陽」、諡号は「遠光院日陽上人(聖人)」
平和公園情妙寺の墓碑左面に「霊江斎(齋?)呑水墓」とある。

辞世句「蓮の実の十方に飛んで遊びけり」(平和公園 情妙寺墓碑背面)
句 碑「手のひらに雨としる夜の水雞哉」(名古屋市東区 情妙寺)

下は墓碑や句碑の写真(拡大可)
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左:墓碑(平和公園内の情妙寺墓所 2022年6月4日撮影)
  正面「六世遠光院日陽聖人」
  左面「霊江斎(齋?)呑水墓」、右面に没年月日
  背面「蓮の実の・・・」の句があるが風化で一部分しか読めない。
右:句碑(名古屋市東区筒井町 源頂山 情妙寺 2022年6月1日撮影)
  「手のひらに雨としる夜の水雞哉 霊江斎(齋?)呑水」

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歯塚:『市史』では「歯塚」と記すが、その正確な意味は知らない。
(犬山市犬山山寺 一翁山 妙感寺 2022年5月29日、6月21日撮影)
左:正面「師範 遠光院日陽聖人」
  その右に「一翁山四世」左に「源頂山六世」 
右:背面「誹名 号 呑水」及び没年月日

参考(発行元などは省略):
『犬山市史』別巻「文化財 民俗」昭和60年
『犬山市史』通史編上 平成9年
『犬山市資料』第二集 昭和60年
『俳人丈艸』市橋鐸 昭和5年
『丈艸伝記考説』市橋鐸  昭和39年
『中京俳人考説』文化財叢書第71号 昭和52年
 *なおこの叢書の呑水没年(享保15年)は誤記か。
『尾張俳壇攷』服部直子 2006年

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