呑水(3)
(承前)
再び『犬山市史 通史編 上』にあった例の一文のことに戻る。
「釈呑水」を説明する文章の最後は次のように締めくくられていた。
「・・・享保一四年(1729)没。追悼集に『蓮の実』がある。自筆原稿が早稲田大学図書館にあり、俳句結社『自在』によって活字化された。」
文末の青文字部分は(1)でも述べたように、中途半端に付記された一文としか思えないのであるが、しかし言葉足らずの走り書きのようなものになったのには、何か訳があるにちがいないとも感じたのである。呑水の自筆原稿の存在や俳句結社「自在」のことについて、今どうしてもこの場を借りて記しておきたかった経緯、あるいはこれを記したときの筆者の心裡を知りたくなったのである。
そこでまず、筆者のいう早大図書館にある呑水の自筆原稿とはそもそも何なのかを確認した。
大学古典籍データベースを検索してみると、「艸ほこ 霊江斎呑水 稿」という名の文献が見つかった。印記は「小寺玉晁旧蔵」とある(小寺玉晃 1800-1878 は尾張藩の陪臣であったが、好事家、随筆家としても知られたひとであり、貴重な文献を蒐集したことでも知られる)。
ちなみに愛知県西尾市の「岩瀬文庫」に小寺の「愛知古今俳人百家撰」(1878)があり、呑水について以下のような記述がある(古典籍データベースの書誌情報を参照しただけで、この典籍を実見していない)。
「(霊江斎呑水)源頂山情妙寺六世遠光院日陽和尚也翁門人ニテ翁没後宝永庚寅十月十二日十七周忌義仲寺ニ至リ追福ヲナシ荘厳ノ花ヲ咲ス其集ヲ不断桜ト号初犬山妙感寺ノ住職也元禄十七年ヨリ情妙寺江入院予呑水自筆ノ所々江紀行之記アリ艸ほこと云…」
以上のことから、『市史』の筆者がいう呑水の「自筆原稿」とは、早大図書館にある小寺玉晃旧蔵の「艸ほこ」にまちがいない。
次に『市史』の「釈呑水」の執筆者のことである。
犬山市史『通史編 上』に呑水の項目があるのは、第二章第四節「城下町犬山の文芸」である。巻末に執筆者の分担が記してあり、第四節の執筆者は「林輝夫」とあった。彼は旧制小牧中学校時代の市橋鐸の教え子であり、市橋が学んだ同じ大学を卒業し愛知県の教員となったが郷土史家としても活躍した。ふたりは長く師弟としての交流があり、市橋の遺稿も彼が引き継いだという(その辺りの事情は前にも挙げた「文献」→★を参照)。
さて次に俳句結社『自在』について調べてみた。
『自在』は岐阜県美濃加茂市の俳句結社であり、林が「『自在』で活字化された」と書いているのだから、この俳誌に呑水の「自筆原稿」の翻刻を見つけることができるはずだ。そこで俳誌が揃えてある美濃加茂市の図書館へ行き、翻刻の記事を探すことにした。
あの一文が書かれたのは『市史通史編 上』の出版年である平成9(1997)年より後ではないはずだが、いつ「活字化」されたのかはわからないので、ひとまず1993年からの各号を順番に紐解いていった。見ていくと、その「自在」という名の俳誌に林輝夫は頻繁に文章を寄稿していたことがわかった。俳誌の代表者である西田兼三(侑三)のこと、あるいはそもそも犬山の林輝夫がなぜ美濃加茂市の俳誌に寄稿していたのかも興味深いが、そうしたことは次回また触れることにする。
調べてゆくと「自在」平成8(1996)年の5月号と6月号に二回に分けて以下の翻刻が掲載されていた。
蜂屋紀行 犬山住 呑水稿 林輝夫翻刻
これでようやく「市史」の謎のような一文の意味を読み取ることができた。つまり林は、市史執筆と同時期に見つけた呑水の「艸ほこ」を翻刻したのだが、そのことをどうしても市史のなかに書き添えておきたかったのである。おそらく師であった市橋鐸も知らなかった呑水の文書を見出し翻刻できたことの喜びのようなものを、あの遠慮がちな一文は表しているような気がするのである。
次回は、そもそもこの翻刻が「自在」に掲載されることになった経緯を辿ってみたい。
平和公園「情妙寺墓地」(名古屋市東区平和公園1丁目)
写真の最も奥に歴代住持に並んで呑水の墓もある(2022/06/04撮影)。
参考:
『艸ほこ』 霊江斎呑水 稿
早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」参照
『愛知古今俳人百家撰』
愛知県西尾市岩瀬文庫「古典籍データベース」書誌情報参照
『自在』
岐阜県美濃加茂市俳句結社「自在」俳誌 1993年以降参照
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