呑水(4)
(承前)
林輝夫が美濃加茂市の俳誌「自在」に呑水の紀行文を翻刻掲載することになった経緯は、林の記したところによると概略以下の如くである。
林は平成6(1994)年秋に「艸ほこ」の存在を知り、翌平成7(1995)年1月に早大図書館に問い合わせたところ在庫していることを確認した。
貴重なしかも未発表の資料であることを関係者に話すが、関心を示すひとはいなかった。
すでに交流のあった美濃加茂市の俳誌『自在』主宰の西田兼三氏を訪ねた際に話をすると、強い興味を示され、翻刻を手がけてほしいと言われ、同年4月14日に大学から西田主宰に送られてきたコピーを林が受け取り翻刻作業に入った。
しかしその2週間後の28日に残念ながら西田主宰は急逝したのである。
以上の経緯は「自在」の平成8(1996)年5月号に記されている。そこに林は、西田主宰の「生前の御厚意に感謝し取り敢えず一部だけを、謹んで一周忌の霊前に捧げます」と記した。『艸ほこ』に収められている幾つかの題名のある文章のうち「蜂屋(へ)紀行」についてのみ、その5月号と6月号に2回に分けて、原文のコピーとともに翻刻文章が掲載されたのであった。
以上のような経緯は、林が『犬山市史』(通史編 上)に呑水に関する原稿を執筆していたまさにその時期と重なっており、この経緯はどうしても、たとえ短い文であっても『市史』の原稿に加えておきたかったのである。それは西田への感謝であり、手向けでもあったと思う。
林輝夫と西田兼三との出会いと交流については西田の追悼句集(「自在」1995年6月号)に林が「先生とのおついきあい」と題する文章を書いている。
これによると、出会いのきっかけは兼松嘨風(元禄期の俳人:今の美濃加茂市深田在)のことであった。西田は地元の俳句結社「自在」を主宰するとともに、郷土(東美濃)のとりわけ元禄期俳人の嘨風、今の美濃加茂市蜂屋在の魯九らを研究していた。他方、丈草研究の一環で昭和初期からすでに元禄期の東美濃の俳人を調べていた市橋鐸のことを知っていた西田は、市橋の遺稿を弟子の林輝夫が受け継いでいることを聞かされ、ふたりの交流がさらに深まったという。
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美濃加茂市深田の木曽川堤防にある「深田スポット公園」には、平成5(1993)年に兼松嘨風の句碑などが建立されたが、西田はその事業の中心的存在であった。下の写真は美濃加茂市深田の木曽川右岸につくられた「深田スポット公園」。
ここに「兼松嘨風」を記念する句碑と顕彰碑が設けられた(1993年)。
嘨風の句碑は「山間の 雪の中ゆく 筏かな」
*なお関連する記事として★参照
句碑のあるスポット公園から川沿いに上流方向に句が並ぶ「諷詠への径」。
芭蕉、丈草、嘨風、魯九、呑水などの句が石版に刻されている。
写真:撮影 2022/06/21
参考:
『郷土蕉門の元禄俳人の足跡 兼松嘯風編』
西田兼三 郷土元禄俳人顕彰会 1994年
『東美濃蕉門俳句の鑑賞』
西田兼三 郷土元禄俳人顕彰会 1995年
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