« 呑水(4補) | トップページ | 犬山の空襲(2) »

2022年8月 2日 (火)

犬山の空襲(1)

呑水の記事はしばらく中断。秋頃に再開。

毎年のことだが8月が近づくと、もうひとつのブログへのアクセス数が急に増え、コメントも幾つかいただくことがある。その大半は私の父の世代の孫にあたる方からであるが、戦地へ赴いた「祖父」について情報を探しておられる方が大半である。
また、幼い頃に祖父母から聞いた記憶のある空襲について記してくださる方も多い。私の父の実家を焼いた岐阜空襲(1945年7月9日)についても、以前記事にしたのでコメントも幾つかいただいたことがある。

ところで「空襲」に関していえば、名古屋、岐阜のように大規模なものは犬山にはなかったため、これまでほとんど関心はなかったが、最近になって少し調べてみようと思い立った。

まず『犬山市史』の通史編下を紐解いてみると、第1章の項目に「本土空襲」があり、1頁余りの記述の中に犬山への空襲(機銃掃射)について触れられていた。しかしその記述は『楽田村史』からの引用が大半であった(楽田村は現在の犬山市南部地域)。
そこで『楽田村史』を見ると、空襲に関する「日誌」(?)が20頁ほどあった。「Ⅴ 大東亜戦争米軍機空襲状況」の題目で、昭和17年7月4日から昭和20年9月2日までの空襲や出来事が日付入りで短く綴られている。〈しかしこの記録は誰(あるいは何か公的機関)が記録したものなのか出典がない。〉
この「空襲状況」のなかで犬山地域への空襲が初めて記録されたのは昭和20年6月9日のことであり、上記『犬山市史』の犬山への空襲もこの記録から引用されている。その6月9日の記述を下に引用する。

一、同年(昭和20年)6月9日午前11時半空襲警報あり 12時半頃より米機30名古屋へ侵入 熱田工場地帯爆弾投下消失 死者千余人あり 午後1時空襲警報あり2時小型機50機来襲犬山方面より東へ転向す 此時小型機各務原飛行場、犬山、五郎丸、羽黒等を機銃掃射す 内久保、久保一色等低空飛行スレスレ射撃内久保2戸、小林竹松、小島照一の2戸4棟をも炎焼、負傷者もあり『楽田村史』44頁

記述のとおり、この日はよく知られた名古屋の「熱田空襲」のあった日だった。このB-29による爆撃と関連するのかどうかは不明だが、小型戦闘機による機銃攻撃が犬山などにあったのである。文中下線部が現在の犬山市に含まれる地域であり、犬山市の南にある久保一色(現在の小牧市)への攻撃についても記されている。内久保地域への機銃掃射では建物が燃え、負傷者もあったことがわかる。

実は上記史資料のほかに犬山市への空襲について記された文献がある。
「学校史」以外のものでいえば、たとえば
〇犬山市役所総務部企画課発行
「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて」1995年
〇犬山市役所総務部企画課発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」平成9年
などであるが、これらのうち、「平和を願って」の中に、上記引用の6月9日の空襲について記したものがある。内容は上記引用の内容とほぼ同じであるが、それ以外に、五郎丸地区にあった陸軍被服廠軍靴製造工場が米軍機の機銃掃射を受け、その工場に学徒動員中の犬山高等女学校(現犬山高等学校)生徒78名が危うく難を逃れた話が載っている。

さて、以上の日本側諸資料に記された1945年6月9日の犬山地域などへの空襲(米軍小型機による機銃掃射等)について考えてみると、はたして米軍側は闇雲に、いわば無計画に犬山市への攻撃を行ったのだろうかという疑問がわいたのである。
軍事的要衝攻撃の帰りついでに米軍機は偶々犬山に立ち寄った・・・その程度の攻撃だったのだろうか?

そんなことを考えながら、米軍側の資料を探してみることにしたのである。
すると、今住んでいる自宅からわずか1㎞離れた或る「施設」(それは今も稼働している)が米軍にとって重要な攻撃目標のひとつであり、実際に少なくとも4回の攻撃を受けており、あの6月9日はその最初の日だった・・・。
時折散歩するとき視野に入る見慣れたあの施設なのだ。(2)へ
55dsc04439


|

« 呑水(4補) | トップページ | 犬山の空襲(2) »

歴史・郷土史・戦記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 呑水(4補) | トップページ | 犬山の空襲(2) »