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2022年8月31日 (水)

鈴木東蒙(1)

(承前)
さて、先聖寺を出て本町通りに入り「鈴木玄道宅跡」へ行く予定だったが、その前に寂翁の子孫たちの墓を見ておくことにした。

鈴木家代々の墓はほとんどが枝町の「本光寺」にあるのだが、実は鈴木家は、たぶん19世紀前半に分家ができて、その子孫が「妙感寺」に墓をもっているのである。ところが調べてみたところ、実はこれら両方の寺にそれぞれ墓をもっている鈴木家本家のひとがいるのである。それは8代玄道、侍医6世の鈴木博高即ち東蒙である。[ただしそもそも鈴木家の分家が立ったのは、博高の2代後のことであって、博高の代にはまだ妙感寺に分家の墓はなかったと考えられる。]

鈴木博高(東蒙)は『市史』によれば侍医のかたわら松平君山(儒者、尾張藩士・書物奉行等)門下の詩人でもあったという。
博高の友人・門人たちが発起して建てたと思われる墓が「妙感寺」にある。碑銘は「東蒙先生之墓」(↓)とあり、碑の表以外の三面には岡田新川(儒者、尾張藩士)の記した長文の銘が刻され、その前半は前回見た侍医1世だった寂翁以後の鈴木家の系譜が記されている。建立年月は、博高の没した天明4年4月14日から半年後の10月と刻されており、建立者は鈴木恒久(9代玄道)と鈴木維馨(後の10代玄道)連名となっている(なお、『市史』には博高の没した日が4月15日とある)。

この墓は、「先生之墓」とされているから、別に本来の墓(親族が建てた墓)があるはずである。
『市史』には博高の「墓地は犬山丸山の妙感寺。なぜか妻女の墓は枝町の本光寺にある」と書かれている。つまりこの記述によれば、本来の墓も妙感寺にある、とも読めるのだが、どこを探しても博高のもうひとつの墓は妙感寺にはないのである。さらにこの「東蒙先生之墓」の銘にも「葬犬山城東妙感寺後山」と書かれていることからして、この「葬」られた墓が本来の墓のことを記しているとすれば、その墓は現在どこかへ移ってしまったと考えるしかないであろう。
そんなわけで、『市史』に「なぜか妻女の墓」があると記された本光寺へ行ってみることにしたのである。
(2)へ
8_20220526003302
8代(侍医6世)鈴木博高(鈴木東蒙)の墓  2022/5/23
銘は「東蒙先生之墓」。なお墓の正面は犬山城の方角を向く
ように建っている。碑銘の没年月日は天明四年四月十四日。
妙感寺には、この墓の隣に鈴木家の分家の墓が幾つかある。

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