鈴木寂翁と先聖寺
石釣てつぼみたる梅折しけり 玄察 『阿羅野』
2018年1月に丈草関連で「先聖寺」の記事(→①、→②)を書いたが、約4年あまりを経ての、ある意味その補足のつもりで継ぎ足す。したがって前記事①や②で記したことは繰り返さない。
先聖寺について調べたとき、江戸期に書かれたものや市橋鐸さんの著作以外に『犬山市史 別巻』(民俗 文化財)も見てはいたが、あらためて先日図書館で読み直してみた。
その第二章には、寂翁のほかに鈴木家に関わる人物は鐸さんを含め6人が掲載されている。これからしばらくは彼らの掃苔の記事を書いてみたいと思う。この別巻が成ったのは昭和60年であるから、以来すでに37年の時間が過ぎており(昨年から新しい市史編纂の動きも始まっているみたいだが)、事実にそぐわない記述もあり、訂正すべき事項もあるように思う(とくに墓の異動等については次回以降に記す)。
この別巻の第二章「人物」に「鈴木寂翁」(297~298頁)の記述がある。彼が開いた天神庵のあった所に現在の「先聖寺」が移ってきたことは前にも触れたが、もともとこの寺は魚屋町の「熊野神社」の東あたりにあったのである。
鈴木寂翁は犬山城主成瀬家の侍医第一世である(鈴木家としては第三世、以後代々「玄察」や「玄道」と名乗る)。いうまでもなく彼は鈴木鐸麿(市橋鐸)さんの遠い先祖にあたる人物である。『市史』には彼の忠僕についての興味深い逸話が記してある。
この春に久しぶりに先聖寺へ行ってみた。前回の記事では写真を省略した「天満宮」(元は天神庵)が本堂の北側にある。
天満宮の西側に墓地がある。下の写真は「開基塔」(珪化木?)だが、寂翁や丈草が慕った開基の玉堂和尚の墓ということになるのだろうか。
鈴木寂翁の墓は、歴代住持のものと並んで建っている(碑銘が読み取りにくいのでモノクロにしてある)。
碑銘は「天神庵開基寂翁為和尚塔」、没年は元禄9(1696)年2月13日。訪れたのは5月下旬だったが、まだ竹の秋が続いているのか墓地全体が竹落葉で覆われ、葉がさらに風に乗って次々と降り注ぐ午後のことであった。
市橋さんは寂翁(玄察)が、『阿羅野』(芭蕉七部集)にその名「玄察」として句が掲載されている人物のことだろうと述べており、『市史』にもそのことを記し、三句が紹介されている。ちなみに『貞門談林俳人大観』や『元禄時代俳人大観』などで調べてみると、「玄察」の名がある俳書は『阿羅野』以外にも数点あるようだが、それが寂翁と同一人物なのかどうか勿論俄にはわからない。
先聖寺を出た後、そのまま本町通りに入り、さらに北へ進んで城方面に向かった。たしか鈴木家の宅址があったはずだ。(次回へ)
参考:
『犬山市史 別巻』(民俗 文化財) 昭和60年
『人間丈艸』(既出)
『犬山市資料 2』(既出)
『元禄時代俳人大観』
雲英末雄 編 八木書店 1~3巻 2011~12年
『貞門談林俳人大観』
今栄蔵 編 中央大学出版部 平成元年
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