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2022年9月

2022年9月25日 (日)

From 1880 to 2021

@NASAVizの映像資料から
とりわけこの約30年間の変化の凄まじさに驚く。

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2022年9月 9日 (金)

竹の春

サイクリング途上で、ふと見上げる「ゆきあひのそら」。
空に秋の気配はあれど、まだまだ残暑の日々。
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夏雲に盛夏の頃のちからはもうなくなっている。

しばらく走って竹林の前で水分補給。
思う、そういえば今日は重陽節供(句)の日。

菊の香にくらがり登る節句かな

元禄七年九月九日、芭蕉は暗峠を越えた。
今の暦でいえば10月27日だという。秋も深まりつつあるころだ。
そのひと月後には帰らぬひととなった。
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竹林:一宮市浅井町(木曽三川公園) サイクリング道にて 
   9/Sept./2022

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2022年9月 6日 (火)

鈴木文拙と鈴木裕三

(承前)
話の流れでいえば、次に市橋鐸麿(鐸)を扱うべきだが、彼についてはいつかまた触れる。
これまで『市史』に紹介されている鈴木家7人(市橋を除き6人)について、現在の墓碑の様子などを見てきたが、ひとまず今回で終わる。

鈴木家の分家について。
江戸時代のおわり、10代玄道(維馨)のあとに鈴木文察が分家を興している。文察も本家同様成瀬家の家医であった。鈴木文拙は文察の嫡男として文政7(1824)年に名古屋で生まれた。名は鐸。
地元での学問修業だけでなく上洛して蘭方や漢学を学んだ。1850年に名古屋に戻って文拙と名乗り家業を継ぎ、維新後は犬山(高見町)に帰って医業だけでなく教育にも力を入れ人々から慕われた。明治30(1898)年に78歳で没したが、その遺徳を偲び記念碑が明治37年に建てられている。

妙感寺にある墓(左写真)。碑銘は「沈蔵坊文拙俟庵醫(医)士」。
針綱神社に建てられた記念碑「鈴木文拙先生紀年之碑」(右写真)。
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文拙の嗣子として明治元(1868)年に名古屋に生まれたのが鈴木裕三である。海軍軍医として活躍し、舞鶴海軍病院長 兼 舞鶴鎮守府軍医長、呉海軍病院長 兼 呉鎮軍医長、さらに軍医総監、海軍軍医学校校長、海軍省医務局長など要職を歴任し、大正14(1925)年8月8日、54歳で没した。海軍軍医中将。
東京多磨霊園墓地に墓があるが、犬山に眠る父文拙の墓の横にも遺骨が葬られている(妙感寺・鈴木家累代之墓)。


鈴木寂翁から今回の鈴木文拙・鈴木裕三までの6回分
で参考にした文献

〇『犬山市史』別巻 文化財 民族 昭和60年
〇『尾張国丹羽郡犬山鈴木家文書解題
 この解題は下記の文書(201~204頁)にある。
  国文学研究資料館 資料目録第92集 
  愛知県下諸家文書目録(その1)平成23年
  *国文学研究資料館データベースのURL→★
〇その他に人名辞典などを参照したが書名は省略する。  

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2022年9月 5日 (月)

鈴木敏也

(承前)
本光寺にある鈴木家本家の墓群に第14代鈴木敏也(1888-1945)の墓がある。戒名は「文香院梛居敏也大居士」。墓石の背面に弟の市橋鐸麿(鐸)が兄のために顕彰の碑文を書いている。

居士は尾張犬山の医家に生れて国文学に志し東京帝大に学び廣島高師同文理科大学教授となり近世文学の探究に生涯を捧ぐ 原爆投下の晩冬学長に就任せしも宿痾のため任地に逝く 主著を近世日本小説史二巻となす 
昭和丁酉之冬 家弟 市橋鐸撰併書

なお文中「学長に就任せしも」とあるが、原爆投下後しばらくの間は大学の機能が事実上停止しており、役職は学長事務取扱であった。
『市史』の敏也の項目には、医師となるべき運命を背負いつつも、教師や級友の力を借りて父親を説得し国文学科へすすんだことが記されている。3代寂翁以来の医家としての鈴木家の系譜は、敏也にも、そして弟の鐸麿にも引き継がれることはなかったのである。

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本光寺の鈴木家墓群にある鈴木敏也の墓。
昭和20年12月9日没。60歳。



 

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2022年9月 3日 (土)

鈴木玄道(豊)

(承前)
さて、このブログに取り上げる『市史』に記された鈴木家の7人は、系図上どこにいるのかを簡単に確認する。
没年による時代(世紀)区分でまとめる。

17世紀 初代一閑→2代一翁3代寂翁(玄察)
18世紀 4代卜仙→5代可節→6代玄道(直)
     →7代玄道(政方)8代玄道(博高/東蒙)
19世紀 9代玄道(恒久)→10代玄道(維馨)
     →11代玄道(凞)12代玄道(豊)
20世紀 13代光雄14代敏也→以下略

14代敏也の弟が丈草研究で知られる鐸麿(市橋鐸)であるが、医家としての鈴木家は3代から13代までであったという。
なお10代玄道(維馨)の子の代に分家した鈴木玄察、子の鈴木文拙、孫の鈴木裕三がいるが、この系譜はあとで詳しくみる。

『市史』に記された鈴木家の3人目は12代玄道(豊)である。
本町通りを城に向かって進むと旧福祉会館跡手前(交差点南西)に鈴木家の邸宅がある。庭(今は駐車場)の一隅には「鈴木玄道宅跡(本町)」と記された小さな立て看板があるが、
看板の説明はやや不親切であり、ここに記された玄道は12代玄道(豊)[没年明治11年]のことである。
若い頃は名古屋、江戸などへ遊学して医学、儒学、蘭学を学び、医業の傍ら村瀬太乙の前任となる敬道館教授も兼任した。明治になってからは一般の町人にも治療を施し、人望を集めたという。
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鈴木玄道宅跡とされている場所にある現在の邸宅。
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玄道(豊)の墓は夫婦墓として本光寺の鈴木家の墓群にある。
碑銘「紀水院韭(韮)郷日豊居士」。明治11年11月12日没55歳。
なお豊は妻に早く死別している。後妻を娶らず娘と二人暮らしであったが、養子を貰って家督を継がせた。
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また犬山城内には七周忌の秋に門下のひとたちによって記念碑が建てられた。この記念碑題字は成瀬家9代正肥(まさみつ)である。碑には彼の経歴や遺詩もあるが、漢文調の文章を解する力は自分にはない。ただし気になったのは文末に記された碑文の作者のことである。
鈴木鐸文拙謹撰 堀野宏良平肅書」とある。「鈴木鐸文拙」とは、分家2代目の鈴木文拙であり、その名はであった。彼のことも『市史』に詳しく紹介されている。
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次回は玄道(豊)の孫である鈴木敏也市橋鐸麿についてみる。


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2022年9月 1日 (木)

鈴木東蒙(2)

(承前)
さて本光寺にやって来たものの、寺は無住となっているようだ。それもかなり長い前からのようにみえる。犬山の、それも中心部にある寺のひとつがこうした状況になっていることに驚き、無常を説く『方丈記』の冒頭の件を思い起こす。ただしこの5月に訪れたときには、全てではないが、墓前の花がまだ新しいものは多かった。

寺の西側にある門から入ると「妙見堂」(成瀬家の家老千葉氏が建てたもの)がある。さらに進むと南面している一群の墓(↓写真)があって、そこに博高(東蒙)らの墓がある(さらに右奥(南側)へ入ってゆくと鈴木家本家の墓群がある)。
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上写真の左から3基目が博高の墓で、碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」(天明4〈1784〉年4月14日没50歳)。その左隣は妻のものと思われる。もし『市史』の記述が正しいとすると、いつのことかは不明だが博高の墓は妙感寺から本光寺へ移されたということになる。鈴木家本家の墓群とは少し離れたところにあるところからすると、そう考えることもできるが、あくまで推測である。とにかく現在のところ彼の墓は妻の墓と同じ「本光寺」にある(2022年現在)。
なお博高の墓の右隣に碑銘「觀解院了菴日奘居士」の墓、その右隣には彼の妻のものと思われる墓がある。この「了菴」とは実は博高の父であり、鈴木家6代の玄道(直)のことである。父親の墓も子の博高と同じく、本家の墓群から離れたところにあるのは不思議である。ひょっとすると父親の墓も本来は妙感寺にあったのかもしれないなどと考えてしまう。『市史』に博高の妻の墓が本光寺にあることが「なぜか」と書いてあるが、たしかに謎は深まるばかりである。
鈴木家に関する『市史』の記述は末裔である市橋鐸さんが書いたものと思われる。自分の祖先の墓の所在についても承知していたはずであるから、博高の墓が妻と同様にもとから本光寺にあったとすれば、それを見逃すはずはないとおもうのだが・・・。
いずれにせよ、8代鈴木博高には、本来の墓(本光寺に現存)、そして友人・弟子が建てた墓(妙感寺の東蒙先生之墓)、このふたつの墓があることだけは確認できた。

ところで博高は父6代玄道「直」の三男であり、本来家督を継ぐ立場にはなかった。しかし8代を継いだ事情について『犬山市史』は次のように記している。

三男に生まれて長男が若死、その嗣子はいまだ生まれず、次兄が他家をおかしているため家を嗣ぎ、そのため年若くして、兄の嗣子に世を譲ったという数奇な運命を背負った。
『犬山市史』(別巻 民俗 文化財)321頁

少々意をつかめない部分もあるが、要約すれば、長男である兄の若死によって急遽鈴木家の跡継ぎになったものの、すぐ兄(長男?)の子に世を譲ることになったということだろう。いわばピンチヒッターとして鈴木家の断絶を救ったわけである。
『市史』には『先人詩抄』に収録されている彼の詩が紹介されているし、あるいは「妙感寺」の墓の碑銘などを見ると、詩人として活躍したことは窺い知れるものの、それ以外の彼の人生の詳細を知る術はない。

次回は『市史』に記された鈴木家7人のうち3人目にあたる第12代「鈴木玄道(豊)」についてみる。

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本光寺の8代玄道[鈴木博高(東蒙)]の墓。
碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」
天明4(1784)年4月14日没 50歳
2022年5月23日撮影

 

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