谷汲街道池野追分②
(承前)
その追分に行ってみた。
上の写真が前回載せた約70年前の写真とほぼ同じ場所から写した現在の「池野追分」である。櫓は無くなっているが、今は民間のものとなった元派出所の建物の形状がそっくり残っている。たぶんもしこの建物が残っていなければ、父が撮った写真が池野追分であることに気がつくこともなかったかもしれない。電柱や右端の郵便ポストの位置もほぼ同じだ。そして新道沿いには今も多くの店が並んでいる。ちなみに自分の生家があった場所(今は駐車場)はこの追分を右(旧道)に進むと徒歩1分もかからないところにあった。
70年ぶりにこの地を訪ね、生家跡の駐車場を眺めながら、父が書き残してくれていた自分の誕生の日の様子を思い出していた。逆子であることに気づいた産婆さんが医者の立ち会いを求め、父が必死で自転車を駆って病院へ走ったこと、ひどい難産だったことなど。それは梅雨も終わりに近い7月初旬の日曜日夕刻のことだった。
ところで少しつけ足す。
西国三十三所巡りについて調べていたとき、『街道を歩く 西国三十三所』(加藤淳子著 創元社 2003年)を読み、谷汲街道のことに触れた箇所で、明治44年に柳田国男が揖斐の「池野」を通ったことが記されていた。そこに紹介された柳田の文はほぼ要約に近いものだったし、出典も記されていなかったので、最近調べてみたところ、それは『美濃越前往復 -明治四十四年-』だとがわかった。引用する。
「引きかへして根尾川の末を渡り、谷汲寺に詣づ。揖斐の町長及び署長に迎へられ、揖斐の町に行きて休息す。」
と記したあとさらにこう続けている。
「池野の珍しい町を過ぐ。二十年とか前までは原野の道の辻なりしが、追々に家增加して繁華の地となる。もと入會なりし為に、家々の標札軒竝に村を異にすること、越前吉崎よりも甚だし。卽ち家主の出た村に屬することになる也。」
追分の右の道が本来の谷汲街道(旧道)であり、左は新道であるが、明治中頃に新道周辺の開発が進んで多くの商人や人々が各地から集まり、この地域は急激に栄えていったのである。そのことを柳田は短い文章ではあるが的確に記述している。
なお元派出所前の今は無くなった櫓の土台側には、「左いび (ならびに)谷汲新道」の道標(明治27年)が綺麗な姿で立っていた。
参考:
※池野市場の開発の様子ついては、以下の史料(文献と絵図)をネット上で見ることができる(岐阜県歴史資料館)。
〇「揖斐郡池田村大字池野市街成立書」(翻刻)→★
(追分にあった元派出所の設立事情も記載)
〇絵図「市場開設前の池野村」→★
〇絵図「市場開設後の池野村」→★
※その他
〇『街道を歩く 西国三十三所』
加藤淳子著 創元社 2003年
〇『定本柳田国男集 第3巻』
筑摩書房 1963年
〇『揖斐郡志(全)』昭和61年復刻版
〇『池田町史(通史編)』昭和53年
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