編集記:「海の陸兵」

2023年8月15日 (火)

岐阜空襲のB29搭乗員

※この記事はもうひとつのブログ「海の陸兵」にも掲載しています。

岐阜空襲のことは、毎年とくにこの時期地元のメディアを中心によく記事にされている。

今年の幾つかの記事のなかで注目したのは、6年前の2017年に自分のブログ「海の陸兵」で記したことのあるB29搭乗員の手記を取り上げたものだった。
その記事は、8月8日の中日新聞朝刊のほかにWeb上でも見ることができる。
  〇東京新聞Web 2023年8月4日配信 無料記事 
  〇中日新聞Web    同年8月8日配信 

6年前このブログで記したのは、岐阜空襲などに従事した二人のB29搭乗員だったが、ひとりは今回の記事にもなった航法士 Rowland E. Ball氏であり、もうひとりは別のB29の機長であった Raymond B. Smisek氏 である。
 →カテゴリー「岐阜空襲」の特に(1)~(5)、坂下の空襲 参照

ボール氏やスミセク氏のことを知ったのは8年前の2015年のことであった。そのころ岐阜空襲に参加したB29搭乗員が何か書いていないかどうかを調べるため、退役米軍人の「戦友会」のサイトを片っ端から探していたのだが、ある日 B29の航法士だったボール氏の岐阜空襲体験手記を見つけたのである(※ 39th Bomb Group )。さらに岐阜空襲に参加したスミセク機長については、その子息がサイトを作っておられ、岐阜空襲から帰還後の写真なども見ることができた(→ 330th Bomb Group)。

とくにボール氏のことを調べてみると、実は以前から日本でもよく知られていた人物だったのである。

たとえば、甲府空襲の体験者であった元日本航空機長の諸星廣夫氏が空襲の実相をパイロットの視点で調べるなかで、甲府空襲にも従事したボール氏と交流しておられ、そのNHK番組でボール氏はインタビューにも応じている。諸星氏の体験は甲府市の「山梨平和ミュージアム」にも展示などがあり、甲府空襲についての著作もある。
また、ボール氏をインタビューしたビデオが「国立第二次世界大戦ミュージアム」(→The National WWII Museum New Orleans)のデジタルコレクションにあり、視聴することができる。この一時間にわたるインタビュービデオの終わりの方では、岐阜空襲時の体験も詳しく語られている(55:45~)
さらに当時偶然個人的に知った岐阜市在住のアメリカ人も、ボール氏とのあいだで日本への空襲について何度もメールで議論をしていたこともわかった。

今回の新聞記事では、ボール氏の遺族が新聞社に手記を提供(公開)したと記されているが、このブログでも取り上げたように同じ内容の彼の「岐阜空襲体験記」は上記の米軍退役軍人の戦友会サイトでずいぶん前にボール氏が記したものである(おそらく2001年にはサイトに公開されていたと思われる)。

また彼の手記は、今は記されていないが「岐阜空襲」の日本版Wikipediaにはボール氏の体験記のサイト名が参照元として一時期照会されていたようだし、英語版 Wikipedia の岐阜空襲についてのサイト(Bombing of Gifu in World War II)の末尾には、今現在も彼の手記は以下のような参照項目として掲載されている。
※Noteの3
Crew 3's Account of Gifu Mission. 39th Bomb Group Association. Accessed July 13, 2007. (in Japanese)

日本を空襲したB29などのパイロット自身が、当時の体験を語ったり文字にした例は少ないと思う。ボール氏とともにこのブログで取り上げたスミセク機長は戦争によって心に傷を受け、戦後は戦時のことをほとんど話さなかったし、戦友とも会わなかったと子息は書いている。
公刊された著作物について調べたことはないが、しかし退役軍人の戦友会サイトなどにはまだそうしたB29搭乗員の体験記が幾つもあるかもしれない。

それにしてもまだ調べてみたいことがある。
ボール氏のB29がトラブルのために岐阜上空で落としきれなかった焼夷弾はどこに落とされたかである。ブログにも記した[→坂下の空襲および岐阜空襲(4)]が、日本側の記録(坂下町史など)をもとに推理すると、現在の岐阜県中津川市坂下に落とされた焼夷弾(死者2名)の可能性があるものの、確証は得られていない。
岐阜上空から帰還するB29は恵那山の北側で南下する航程をとったはずだから・・・。

そしてもうひとつ。岐阜空襲時に迎撃を行った日本機の所属部隊のことである。陸軍飛行第五戦隊機だったのだろうか・・・。


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2020年8月23日 (日)

涙の図書館(3)

承前

筆者の援護局職員は、おそらく南方で従軍していた軍関係者であったかもしれないし、少なくとも南方抑留者の実態を何らかのかたちで知っていたひとにちがいない。

抑留されたひとたちの収容所と労働の状況は、たとえば父の所属した連隊の戦友会誌に多くの体験話が回顧されている。泥水で渇きを癒やし、動くものなら何でも口にしたかったという父の話を聞いたことがあるが、それはむしろ戦争が終わって抑留生活が始まったころのことであった。また、いわゆる詔勅のあった8月15日は、父の連隊が属した南方軍の「戦闘」が終わった日ではなかった。その武力行使の停止は8月25日零時(大陸命第1388号)であり、父の連隊が武装解除となったのは9月28日である。8月15日のその日、父の連隊では一度に11名のひとが戦死し、さらに父も関わった辛い出来事は8月下旬になってからである。

おもえば、父の足跡を本格的に調べ始めるきっかけが、この「局史」との出会いであり、今もなお父の回想記と向き合い続けているのも、「宿舎」の文章があったからだろう。もし「宿舎」を読まなかったら、「局史」は単なる史料のひとつでしかなかったし、あの時代を生きていた父をさらに理解しようとおもうこともなかったにちがいない。
戦争や歴史認識などの問題を、かつては大上段に構えてひとと議論したことは度々あったが、かりに父と真正面から論ずるようなことがあったとすれば(それはついになかったが)、おそらく互いの考え方がかみ合うことなどなかったかもしれない。戦争や歴史の問題の考え方には、父と自分とのあいだにまちがいなく大きな溝があるし、これからもあり続けるだろう。

そうではあるが、「宿舎」を読んだとき、宇品に生還した24歳の父の姿が瞼に浮かび、自分もまた「萬感交々胸に逼るもの」が去来したからこそ、どうしても涙を抑えることができなかったのである。やはりその「萬感」や父が終生忘れなかった「広島・宇品」を抜きにして、あの時代に向き合うことは今の自分にはできないのである。


〇父の帰還船:英軍病院船「オックスフォードシャー号」
 その詳細は「海の陸兵」→ HMHS Oxfordshire 参照

© IWM (FL 17221)
http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//19/media-19704/large.jpg 
This is photograph FL 17221 from the collections of the Imperial War Museums. 
File:Hmhs Oxfordshire FL17221.jpgHmhs Oxfordshire At a quay.
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2020年8月16日 (日)

涙の図書館(2)

131649      1946年6月27日宇品引揚援護局に入るシンガポールからの帰還兵
資料元:Australian War Memorial
ID number 131649
1946-06-27. JAPANESE REPATRIATES MARCHING THROUGH THE GATEWAY OF THE REPATRIATION DEPOT AFTER THEIR ARRIVAL FROM SINGAPORE. SIGNS ON EITHER SIGN OF GATEWAY READ, (LEFT) LET'S DO OUR BEST; (RIGHT) UJINA REPATRIATION CENTRE.Public Domain Mark

(承前)

閲覧していた『局史』の幾つかの頁を複写した。
複写漏れがないかどうか見直しのために頁を繰っていたとき、父の回想記に書かれていた或ることを思い出したのである。

《 
援護局宿舎の部屋は、戦時中(昭和18年4月)に中支から船舶練習部へ派遣されたとき使った部屋と同じであり、その偶然に驚いたのである。

実は複写するまで、「局史」の本文をあまりみていなかったので、「宿舎」について記されている箇所を探して読んでみると、その施設概要に続けて、部屋に残された或る落書のことに触れていた。だがそれはもはや公的な役所の文章とは思えなかった。

復員引揚げの人の落書と思はれるのにこんなのがあった。『引揚げし今宵の宿よ此の月よ』。五年も七年も南方作戦に従事し、戦ひ終ってからは彼の地の復旧工事に使役される身とはなった人々が、祖國の安否を心配して、殆んど全部と云って可い程神経衰弱症に陥り、甚しきは狂気した人さへあった。而して一日でも早く故国の土を踏みたい、いや、それが六ケ敷しいなど、自分が帰れる予定の日でも知りたいと朝な夕な念願したのであった。 そんな人達が出陣の際は歓呼の嵐を浴びて乗船出発したのであったが、今日の復員引揚げは一人寂しいことであろう。過ぎ来し事どもを追憶すれば実に萬感交々胸に逼るものがある。(中略) 上水道の水で存分に躰を洗ひ、美味の水を腹一杯飲んでから、割当られた室に入ってゴロリと横になってみれば、忘れてゐた畳の懐かしさが一気に感傷的になる。」
『海外引揚関係史料集成(国内篇)』
第6巻 宇品引揚援護局史 43頁

ここに描かれた帰還者の姿は、あたかも、いやまちがいなく父であった。文字を追いながら24歳の父がしぜんに瞼に浮かび、やがてその姿は滲みはじめた。いい年になって、しかも図書館で我を失うとはなんて情けない奴なんだ、と自嘲しつつもやがて溢れてくるものを抑えることができなくなり、閲覧室の机に伏して袖を濡らしてしまった。
そのとき、机の隣にいた女性が声をかけてくださったが、体調が悪いのではないかと心配されたのだろう。(ほんとうに申し訳ないことでした。)

                      →「涙の図書館」(3)へ


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2020年8月15日 (土)

涙の図書館(1)

出 陣 や 櫻 見 な が ら 宇 品 ま で  正岡子規

今の時世、多くの図書館ではその本来の機能が失われているようにみえる。やむを得ないこととはいえ、本に囲まれる閲覧室でゆっくり頁を開いたり、背表紙を眺めるだけでわくわくするような時間を過ごすことができないのは、本当に残念なことだ。大学図書館では学外のひとたちの利用を制限しているところもあって、このところ図書館通いは控えるようになってしまった。はやく以前のようなオープンな図書館に戻ることを祈るしかない。

そんなわけで、或る事について書きたくなった。
だがその前に少し父のことを記さねばならない。

広島・宇品は7年の軍務を終えて父が復員した港であり、戦時中も2か月ほど訓練で派遣されている。宇品港は子規の俳句にもあるように、日清戦争以来軍港となり、戦争のたびに幾多の将兵を送り出したところだった。
父がシンガポールから復員したのは昭和22年1月だが、復員列車に乗るために宇品から広島駅へ行く途上で見た市街の光景は、全く言葉にならなかったという。たしかに復興の槌音は聞こえつつあったとはいえ、被爆の惨状を晒す市街を目の前にして、自分がいた戦場よりも内地こそ本当の戦場だったのではないか、というのが父の実感であった。
戦後も度々広島・宇品へ足を運んでいたのは、自分の体験を決して忘れないよう何度も自分に言い聞かせていたからだろうと思う。
(父のことは別ブログ「海の陸兵」、とくに Ⅷ 復員を参照してください。)

今から7年前、広島の宇品、比治山などを訪れた。広島を訪れるのは何回目かではあったが、父が書き遺した回想記を当時編集していたころで、父が帰還した宇品についてもっと知りたいと思っていた。
その帰りに「広島県立図書館」に立ち寄ったのは、どうしても調べてみたい史料があったからだ。
もちろんこの図書館でなくても閲覧することはできるが、やはり広島の地で、そして父にとって大切な場所「宇品」に来た日に手に取ってみたかったのである。
それは復刻本「宇品引揚援護局史」(『海外引揚関係史料集成』第6巻 ゆまに書房 2001年)。わずか2年余りのこの援護局の活動を当事者が公的に記録したものである。
もしかしたら父の帰還船だった英軍病院船「Oxfordshire号」のことが記されているかもしれないとの期待もあった。

文章の原本はすべて手書きの謄写版である。誠実に、丁寧に、あたかも石に刻まれたように記された文字一つひとつからは、援護局関係者の活動と苦労が偲ばれるとともに、戦地や旧植民地から帰還したひとたち、あるいは解放された新天地へと送出されるひとたちの動向が記録されていた。ある意味で全国の引揚援護局は、敗戦で崩壊した大日本帝国の葬送の地であったのかもしれない。

さいわい英軍病院船 Oxfordshire号 が宇品に寄港した記録もあり、当時の援護局施設の様子も詳しく図示されていた。今まで父の回想記のなかでしか知らなかったことが史料・史実として確認できたことはとても嬉しいことだった。

だがこの本はそれだけではなく、自分にとってさらに特別な意味を与えてくれたのではないかと考えるようになった。


                  → 涙の図書館(2)へ


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2017年12月 8日 (金)

あれから77年

今日は米英への宣戦布告から76年目になる。
そもそも当時すでに中国大陸が戦場となっていたのであり、76年前のこの日に突然「戦争」が始まったのではない。12月8日はたしかに意味のある日ではあるものの、1945年の敗戦に至る長い戦争の過程を考えるとき、9月18日、7月7日などを見過ごすことは、事の本質を見誤ることになる。

奇しくも真珠湾攻撃のちょうど1年前、1940(昭和15)年12月8日、18歳の父が志願兵として大陸へ出征した日は、父や私にとって忘れられない日である。
手許にあるその1週間前の12月1日の入営時集合写真には、父を含む新兵35名と彼らを北支の大同から受取りに来た尉官・下士官らが写っている。
この時点では父も他の新兵も、しばらくの間軍役をつとめ上げれば、晴れて除隊となって新しい生活が待っていることを夢見ていたであろう。まさか1年後に「中国」だけでなく米英とも戦争になるなどとは考えてもいなかったのである。
人より早めに軍務を終え、できるだけ若いうちに落ち着いた生活を始められるようにと、父はあえて志願兵となったらしい。「親不孝の極道者」と親に叱責され、反対されたにもかかわらず。
あの日もきっと今日のように寒い日だったかもしれない。豊橋を出発して名古屋・熱田神宮に参拝後、名古屋港から夕刻大陸へ向かったが、それから6年余り極寒炎暑の外地を戦場としながら父の軍隊生活は続くことになったのである。
母親は熱田神宮で、父親は名古屋港で出征する父を見送った。幸い両親とも息子を見送ることはできたが、両親が異なった場所で息子を見送る計画を立てたのは、せめて二人のうちどちらかでも、これが最後となるかもしれない子の姿を見ることができるよう必死だったからだろう。子の行く末を案じる親心が痛いほど伝わってくる。だが父がやがて病死する母親の姿を見たのはその日が最後だったのである。

この写真に写っている新兵35名、尉官・下士官10名のうち、生きて故国に還ってきたひとはいったいどれだけいたのだろうか。父は帰還出来たことを、「不思議なことに」と語るのみで、決して「運が良かった」とは言わなかった。戦争における人の生死は、父にとっては決して運不運などということばで語ることのできないこと、語ってはならないことであったのだろう。無事生還出来たよろこびは、家族のなかでしか語ることができなかったのである。

夕方の散歩の途上、ふと見上げた冬空には、戦後も抱え続けた父の苦悩を染めたかのような鉛色の大きな雲が流れていた。

(父の戦争体験については、小生の別ブログ「海の陸兵 」をお読みください。左の「リスト」からも入れます。)

 

12
                1940(昭和15)年12月1日豊橋にて
               (工兵第26連隊留守部隊入営の日に)

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