読書日記・図書館

2021年12月21日 (火)

おんな紋

白々と女沈める柚子湯かな 日野草城

柚子湯といえば冬至。
いつのまにか残り十日ほどで新年。そこで、ことし読んだ本(小説、新書以外)のなかで特に印象に残ったものを二冊挙げておきます(ただし「おんな紋」のことは、東日本の人たちにはわかりにくい話かも知れませんね)。

おんな紋 -血縁のフォークロア-
 近藤雅樹 河出書房新社 1995年

ことしの春先、図書館で借りて読んだ。
むかしから気になっていたことがあったのだ。それは母の紋付が《五三の桐》だったのだが、母の実家は《下り藤》、父の実家では《井桁に岐阜根笹》が家紋だった。十代の終わりごろ母から「婆ちゃんも五三の桐やった」という話を聞いたことがあって、不思議に思ったことがあった。この本を読んで少し謎が解けたような気がしたが、わからないことはまだまだ沢山ある。
母の五三の桐は本当の意味で「おんな紋」であったかどうかはわからない(曾祖母のことが不明なので)が、母親から受け継いだ「形見分け」であったことは間違いないだろう。それがたとえ懇意の呉服屋の勧めであったとしても、である。
おんな紋は、ひょっとすると男が踏み込んではならない女の領分の象徴かもしれないと考えるようになった。それが本書のいちばん心に残った読後感だった。


暁の宇品 -陸軍船舶司令官たちのヒロシマ-
 堀川惠子 講談社 2021年

船舶工兵だった父のことにも関わる内容であったし、父の青春を翻弄した時代について考えさせられる。以前から堀川さんの文章に惹かれていたので、今回も出版された夏にすぐ手に取ったという次第。ことしの大佛次郎賞が与えられたことが、つい先日発表されていた。

| | コメント (0)

2021年1月10日 (日)

シロカニペ ランラン(2)

(承前)

  「銀のしずく 降れ降れ まわりに
   金のしずく 降れ降れ まわりに」
  「シロカニペ ランラン ピシカン
   コンカニペ ランラン ピシカン」

『ユーカラ鑑賞』と出会った鈴木さんは、冒頭の「フクロウ神の謡」で繰り返される「おりかえし」を何度も口ずさんだそのたびに何となく「私のまわりにキラキラと明るく、こぼれ散るものがあるような」気がしたという。
このリフレインは、やがて「銀河の泡を思わせる」ペルセウス座の二重星団の印象へとつながってゆく。彼女が二重星団を双眼鏡で見たときはまだ霞んでいたものが、ある日見た天文雑誌の表紙を飾るその星団の大写しを見たとき、はっきりと像を結んだ。
二つかみの宝石がキラキラ播かれてくるような美しさが、双眼鏡で見たときの印象に重なった。

 シロカニペ ランラン ピシカン 
 コンカニペ ランラン ピシカン

文章の最後を彼女はこう結んでいる。

人間たちの住む国に、しあわせを呼び、降らせる歌が、暗い空からこぼれていた。」

1927(昭2)年岡山で生まれた彼女は結婚後四日市に住むことになった。幼いころから星が好きで、学校の図書室の本などから星座図を敷き写し、それを挿絵にして星の思い出や観望記を書き添えていた。それらは嫁いだときに持ってきたが、伊勢湾台風(昭和34年)で失われてしまった。
やがて地元四日市では大気汚染の問題が深刻化し、裁判も始まっていた。育った岡山で親しんだ星空は思い出になってしまったが、火星などの惑星はここでもかろうじて観望できる。鈴木さんが火星大接近を前にして、口径6センチの望遠鏡で火星の原色スケッチを始めたのが1971(昭和46)年の夏であった。しかしそのころ、最小年38歳の原告だった主婦が喘息のために亡くなっている。

失われた青空と星空が戻ることを念じながら、それまでの星の観望から観測へとすすみ、のちには流星塵観測も始めた。
1973(昭和48)7月原告全面勝訴の判決に喜びつつも、「結びにかえて」のなかで「なぜかもっと大きくむずかしい何かがはじまったような気が」したと記した。
あれから半世紀近く経つが、鈴木さんのいう「むずかしい何か」は今も私たちのなかにありつづけている。とくに今その感は強い。ひたすら望遠鏡をとおして火星を見つめていたとき、実はほんとうに彼女が見つめていたものが何であったか、別の文章で次のように書いていた。
直径六センチの小さなレンズが、力一ぱい私の心に投影していたのは、銀色の月をつれて、真暗な真空に浮かんで自転する地球の、小さな星である姿と、かけがえのないすばらしさではなかったのだろうか。視野の火星が遠く小さくなってゆくにつれて、青と白とに輝いた地球の姿が、次第に大きく心の中に浮かび上がってくる。息づくように渦巻いている雲を透して、日本の島々が、私たちの街が・・・。」 (「ほんとうの大きさ」)

鈴木さんは1985(昭和60)年8月、58歳のとき亡くなられた。


自分にとって、いつも「二重星団」とこの「ユーカラ」が結びつくようになったのは鈴木さんの文章を読んでからだった。
1997(平成9)年の冬1月、ちょうど今時分の深夜、天頂へ双眼鏡や写真鏡を向けたとき、淡く滲んだふたつの星団は、たしかに銀や金のしずくにちがいなかった。冬の銀河の片隅から煌めき降り注ぐ光のしずくを、あの夜いつまでもいつまでも見つめていたことを思い出す。
その夜フィルムに写り込んだ星団の写真[前記事(1)]は、すぐに『アイヌ神謡集』の栞になった。


(このブログのタイトルの「フクロウ」は、このユーカラに因む。)

参考

星のふるさと』 鈴木壽壽子 誠文堂新光社 1975年
『星のふるさとのこころ 四日市1971~73年 夜空の記録』
         四日市人権センター 冊子PDF(→★
『鈴木壽壽子さんのこと』 西山洋 
     東亜天文学会 会報『天界』2009年4月~5月号
                 上記再編集記事(→★

『アイヌ神謡集』 知里幸惠 岩波文庫 1978年

『ユーカラ鑑賞』 知里真志保・小田邦雄 潮文社新書 昭和43年
            [元は1956(昭和31)年 元々社刊行]
『北の人』 金田一京助 角川文庫 初版昭和27年

なお、1998年に小林隆男氏が発見した小惑星には彼女の名がつけられた。
以下のサイトには、簡にして要を得た彼女の業績が記されている。
JPL Small-Body Database Browser(→★)に掲載の一文
8741 Suzukisuzuko
Discovered 1998 Jan. 25 by T. Kobayashi at Oizumi.
In 1975 Suzuko Suzuki (1927-1985) published a collection of poetic essays on her love for the beauty and wonders of the starry night sky. She made many accurate and beautiful color sketches of Mars with a small refractor in 1971 and 1973 and continued counting micrometeorites from 1972 to 1978.

| | コメント (0)

2020年12月29日 (火)

シロカニペ ランラン(1)

Scan0021
      ペルセウス座 二重星団( h+χ )拡大可
       プリント写真をスキャナーで取り込んだもの
      撮影:1997年1月11日 撮影場所:岐阜県東白川村
      赤道儀:EM-200、カメラ:Nikon FE
           フィルム:Fujicolor G-400 、レンズ/露出時間等不明 

きのう本の整理をしていたとき、或る文庫本のなかほどに1枚の写真が挿んであった。写真の裏に、「1997年1月 東白川村にて 二重星団(h+χ)」とメモしてある。ときどき写真を栞代わりにすることはあるが、これが本の栞になったのは、それなりのわけがあってのこと。
文庫本は『アイヌ神謡集』(知里幸惠 編訳 岩波文庫 1978年)。

このブログを始めた4年前、鈴木壽壽子さんの随筆集『星のふるさと』(誠文堂新光社 1975年)のことにすこし触れた(→★)。[鈴木さんについては、こちら→★を]
この本との出会いは20歳代のはじめだった。半年ほどして本は知人に貸したのだが、不思議なことにそのひととともに行く方知れずになってしまった。ところがそんなことも忘れかけていたちょうど5年前、この本がたまたま地元の大学図書館にあることを「発見」し借りることができて、まるで宝物を運ぶようにして家に持ち帰ったのだった(今もこの本は絶版のままで、古書店にも見当たらない)。

『星のふるさと』に「銀のしずく 金のしずく」と題された一文がある。
もしも、国語の教科書に『北の人』(金田一京助著)から抜粋された小篇が載っていなかったら、ユーカラの世界のすばらしさを、知らずにすごしたことだろう」と書き出している。
教科書では物足りない彼女は、『北の人』の文庫本を手にいれ、『アイヌ神謡集』の編訳者知里幸惠さんを知り、弟の真志保さんのことも「まだ少年の姿に読んだ」。
そして四半世紀を経たある日、書店の棚の上に『ユーカラ鑑賞』の著者知里真志保博士の名を見る。「なつかしい『北の人』のお形見に思え」た彼女は「使い帰りの持ち合わせをその本にかえて帰った」のだった。

          (続きは年明けに。皆様よいお年を)


| | コメント (0)

2020年12月 4日 (金)

本の中にしかない味

きのう買い物ついでに本屋に立ち寄った。
月の替わり目でもあり、文庫の新刊を眺めていると、『私的読』(堀江敏幸・角田光代 新潮文庫)があった。平成27年版の文庫化で、もともと食べ物雑誌の連載だという。
まずは角田の担当した回の幾つかをベッドのなかで一気に読み通した。題材にされた本のなかでは、たとえば開高健 『最後の晩餐』、檀一雄 『火宅の人』、バーネット 『小公女』、志賀直哉 『小僧の神様』、織田作之助 『夫婦善哉』、中川李枝子/大村百合子 『ぐりとぐら』などが印象に残る。高校時代に読んだり、子どもに贈った本もあって、あらためて再読してみたくなる。
「本の中にしかない味」の意味を考えながら閉じたが、眠りに入る手前で、温め直した「安永餅」(桑名)の姿が瞼に浮かび、無性に食べたくなってしまった。

| | コメント (0)

2020年8月23日 (日)

涙の図書館(3)

承前

筆者の援護局職員は、おそらく南方で従軍していた軍関係者であったかもしれないし、少なくとも南方抑留者の実態を何らかのかたちで知っていたひとにちがいない。

抑留されたひとたちの収容所と労働の状況は、たとえば父の所属した連隊の戦友会誌に多くの体験話が回顧されている。泥水で渇きを癒やし、動くものなら何でも口にしたかったという父の話を聞いたことがあるが、それはむしろ戦争が終わって抑留生活が始まったころのことであった。また、いわゆる詔勅のあった8月15日は、父の連隊が属した南方軍の「戦闘」が終わった日ではなかった。その武力行使の停止は8月25日零時(大陸命第1388号)であり、父の連隊が武装解除となったのは9月28日である。8月15日のその日、父の連隊では一度に11名のひとが戦死し、さらに父も関わった辛い出来事は8月下旬になってからである。

おもえば、父の足跡を本格的に調べ始めるきっかけが、この「局史」との出会いであり、今もなお父の回想記と向き合い続けているのも、「宿舎」の文章があったからだろう。もし「宿舎」を読まなかったら、「局史」は単なる史料のひとつでしかなかったし、あの時代を生きていた父をさらに理解しようとおもうこともなかったにちがいない。
戦争や歴史認識などの問題を、かつては大上段に構えてひとと議論したことは度々あったが、かりに父と真正面から論ずるようなことがあったとすれば(それはついになかったが)、おそらく互いの考え方がかみ合うことなどなかったかもしれない。戦争や歴史の問題の考え方には、父と自分とのあいだにまちがいなく大きな溝があるし、これからもあり続けるだろう。

そうではあるが、「宿舎」を読んだとき、宇品に生還した24歳の父の姿が瞼に浮かび、自分もまた「萬感交々胸に逼るもの」が去来したからこそ、どうしても涙を抑えることができなかったのである。やはりその「萬感」や父が終生忘れなかった「広島・宇品」を抜きにして、あの時代に向き合うことは今の自分にはできないのである。


〇父の帰還船:英軍病院船「オックスフォードシャー号」
 その詳細は「海の陸兵」→ HMHS Oxfordshire 参照

© IWM (FL 17221)
http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//19/media-19704/large.jpg 
This is photograph FL 17221 from the collections of the Imperial War Museums. 
File:Hmhs Oxfordshire FL17221.jpgHmhs Oxfordshire At a quay.
Large_000000

| | コメント (0)

2020年8月16日 (日)

涙の図書館(2)

131649      1946年6月27日宇品引揚援護局に入るシンガポールからの帰還兵
資料元:Australian War Memorial
ID number 131649
1946-06-27. JAPANESE REPATRIATES MARCHING THROUGH THE GATEWAY OF THE REPATRIATION DEPOT AFTER THEIR ARRIVAL FROM SINGAPORE. SIGNS ON EITHER SIGN OF GATEWAY READ, (LEFT) LET'S DO OUR BEST; (RIGHT) UJINA REPATRIATION CENTRE.Public Domain Mark

(承前)

閲覧していた『局史』の幾つかの頁を複写した。
複写漏れがないかどうか見直しのために頁を繰っていたとき、父の回想記に書かれていた或ることを思い出したのである。

《 
援護局宿舎の部屋は、戦時中(昭和18年4月)に中支から船舶練習部へ派遣されたとき使った部屋と同じであり、その偶然に驚いたのである。

実は複写するまで、「局史」の本文をあまりみていなかったので、「宿舎」について記されている箇所を探して読んでみると、その施設概要に続けて、部屋に残された或る落書のことに触れていた。だがそれはもはや公的な役所の文章とは思えなかった。

復員引揚げの人の落書と思はれるのにこんなのがあった。『引揚げし今宵の宿よ此の月よ』。五年も七年も南方作戦に従事し、戦ひ終ってからは彼の地の復旧工事に使役される身とはなった人々が、祖國の安否を心配して、殆んど全部と云って可い程神経衰弱症に陥り、甚しきは狂気した人さへあった。而して一日でも早く故国の土を踏みたい、いや、それが六ケ敷しいなど、自分が帰れる予定の日でも知りたいと朝な夕な念願したのであった。 そんな人達が出陣の際は歓呼の嵐を浴びて乗船出発したのであったが、今日の復員引揚げは一人寂しいことであろう。過ぎ来し事どもを追憶すれば実に萬感交々胸に逼るものがある。(中略) 上水道の水で存分に躰を洗ひ、美味の水を腹一杯飲んでから、割当られた室に入ってゴロリと横になってみれば、忘れてゐた畳の懐かしさが一気に感傷的になる。」
『海外引揚関係史料集成(国内篇)』
第6巻 宇品引揚援護局史 43頁

ここに描かれた帰還者の姿は、あたかも、いやまちがいなく父であった。文字を追いながら24歳の父がしぜんに瞼に浮かび、やがてその姿は滲みはじめた。いい年になって、しかも図書館で我を失うとはなんて情けない奴なんだ、と自嘲しつつもやがて溢れてくるものを抑えることができなくなり、閲覧室の机に伏して袖を濡らしてしまった。
そのとき、机の隣にいた女性が声をかけてくださったが、体調が悪いのではないかと心配されたのだろう。(ほんとうに申し訳ないことでした。)

                      →「涙の図書館」(3)へ


| | コメント (0)

2020年8月15日 (土)

涙の図書館(1)

出 陣 や 櫻 見 な が ら 宇 品 ま で  正岡子規

今の時世、多くの図書館ではその本来の機能が失われているようにみえる。やむを得ないこととはいえ、本に囲まれる閲覧室でゆっくり頁を開いたり、背表紙を眺めるだけでわくわくするような時間を過ごすことができないのは、本当に残念なことだ。大学図書館では学外のひとたちの利用を制限しているところもあって、このところ図書館通いは控えるようになってしまった。はやく以前のようなオープンな図書館に戻ることを祈るしかない。

そんなわけで、或る事について書きたくなった。
だがその前に少し父のことを記さねばならない。

広島・宇品は7年の軍務を終えて父が復員した港であり、戦時中も2か月ほど訓練で派遣されている。宇品港は子規の俳句にもあるように、日清戦争以来軍港となり、戦争のたびに幾多の将兵を送り出したところだった。
父がシンガポールから復員したのは昭和22年1月だが、復員列車に乗るために宇品から広島駅へ行く途上で見た市街の光景は、全く言葉にならなかったという。たしかに復興の槌音は聞こえつつあったとはいえ、被爆の惨状を晒す市街を目の前にして、自分がいた戦場よりも内地こそ本当の戦場だったのではないか、というのが父の実感であった。
戦後も度々広島・宇品へ足を運んでいたのは、自分の体験を決して忘れないよう何度も自分に言い聞かせていたからだろうと思う。
(父のことは別ブログ「海の陸兵」、とくに Ⅷ 復員を参照してください。)

今から7年前、広島の宇品、比治山などを訪れた。広島を訪れるのは何回目かではあったが、父が書き遺した回想記を当時編集していたころで、父が帰還した宇品についてもっと知りたいと思っていた。
その帰りに「広島県立図書館」に立ち寄ったのは、どうしても調べてみたい史料があったからだ。
もちろんこの図書館でなくても閲覧することはできるが、やはり広島の地で、そして父にとって大切な場所「宇品」に来た日に手に取ってみたかったのである。
それは復刻本「宇品引揚援護局史」(『海外引揚関係史料集成』第6巻 ゆまに書房 2001年)。わずか2年余りのこの援護局の活動を当事者が公的に記録したものである。
もしかしたら父の帰還船だった英軍病院船「Oxfordshire号」のことが記されているかもしれないとの期待もあった。

文章の原本はすべて手書きの謄写版である。誠実に、丁寧に、あたかも石に刻まれたように記された文字一つひとつからは、援護局関係者の活動と苦労が偲ばれるとともに、戦地や旧植民地から帰還したひとたち、あるいは解放された新天地へと送出されるひとたちの動向が記録されていた。ある意味で全国の引揚援護局は、敗戦で崩壊した大日本帝国の葬送の地であったのかもしれない。

さいわい英軍病院船 Oxfordshire号 が宇品に寄港した記録もあり、当時の援護局施設の様子も詳しく図示されていた。今まで父の回想記のなかでしか知らなかったことが史料・史実として確認できたことはとても嬉しいことだった。

だがこの本はそれだけではなく、自分にとってさらに特別な意味を与えてくれたのではないかと考えるようになった。


                  → 涙の図書館(2)へ


| | コメント (0)

2020年7月22日 (水)

trois heures

お八つのどら焼きを食べながら、午後三時の句を探してみた。

ひぐらしのこゑのつまづく午後三時   飯田蛇笏

カップにはカップの漣午後三時       佐藤成之

蟻の穴大きく見ゆる午後三時         柿本多映

そういえば若いころ、こんな言葉について考えていたこともあった。

Trois heures, c'est toujours trop tard ou trop tot pour tout ce qu'on veut faire.
Un drole de moment dans l'apres-midi.

                           " La Nausée "(1938)
                          Jean-Paul Charles Aymard Sartre

サルトルの『嘔吐』の一節。
むかしは多くの人に引用されていたが、今はどうなのだろう。

| | コメント (0)

2019年12月 5日 (木)

鯖と雁(参)

Dsc03255gg_20191208144501
                   犬山成田山より(1/12/2019)

引用する。

「こんなところに立って何を見てゐたのだ」と、僕が問うた。
 石原は黙って池の方を指さした。岡田も僕も、灰色に濁った
夕の空氣を透かして、指さす方角を見た。其頃は根津に通ずる
古溝から、今三人の立ってゐる汀まで、一面に葦が茂ってゐた。
其葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎になって、只枯蓮の襤
褸のやうな葉、海綿のやうな房が碁布せられ、葉や房の莖は、
種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を
添へてゐる。このbitume色の莖の間を縫って、黑ずんだ上に鈍
い反射を見せてゐる水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往來
してゐる。中には停止して動かぬのもある。

           264~265頁 『雁』 森林太郎 大正4年 籾山書店

物語進行の途中、不意に現れた景物描写。
あらすじを追う読者の心の動きが一瞬止まる箇所かもしれない。葦の枯葉、枯蓮の襤褸(ぼろ)のような葉、それらの莖が折れて鋭角に聳えている荒涼とした池の夕景。そして雁。
この箇所について、実は荷風が冬枯れの不忍池の叙景として是非読んで欲しいと述べ、随筆『上野』のなかでも引用している。
「敗荷」(枯蓮)
は荷風の戯号でもある。
ひょっとしたら、この小説の顛末などより、鴎外はこの風景をこそ読者に思い描いて欲しかったのではないか。あるいは若き森林太郎自身が見た忘れがたい池の風景であったやもしれない。


あの日、二枚におろした鯖を食べてから、鴎外のこと、そして母方の遠祖が美濃に、父母ともに尾張に深い縁をもつ荷風のことを考えはじめている。

   小西湖上にて
枯蓮にちなむ男の散歩かな  荷風(明治44年詠)
           
*不忍池を当時の漢詩壇が小西湖と表した。
             
参考:
『雁』   森林太郎 大正4年 籾山書店
「上野」  永井荷風 『荷風全集』第16巻 岩波書店
「枯葉の記」 『荷風俳句集』  加藤郁乎編 岩波文庫

| | コメント (0)

2019年12月 4日 (水)

鯖と雁(弐)

Dsc03312w_20191206181401
         犬山成田山より(1/12/2019)    

文庫を読み始めたが、なんとなく物足りない感じがして、古い単行本が閲覧できないかと国会図書館のデジタルコレクションを探してみたら、森林太郎著・大正4年籾山書店の初版本を見つけた。このほうが楽に読めた

読み終わってから気がついたことがある。
ひとつは「お玉」のこと。
この女性の印象はこれまで朧気なままだった。お玉の人物像や生い立ち、そして囲い者としての境遇などについては、高校生の僕はほとんど無関心だったようで、それらを記した物語の前半を斜め読みしていただけだった。今回読み直してみて、お玉という人物に少し近付けたような気がする。
もうひとつは後半の【弐拾弐】。ここで物語が大きく動く。
下宿で鯖の「未醤煮」(焼き鯖だったらよかったらしい)が夕飯に出たために食べることができず、僕は岡田を誘って散歩に出、二人が不忍池(小西湖)で石原と出会い、「雁」を仕留める話へと続く。岡田が投げた石が、そのつもりは無かったのに偶々一羽の雁に中ってしまった。これらの出来事がお玉と岡田の運命を変えてしまう。

気になるのは、僕と岡田が石原と出会ったときの不忍池の描写。
高校生のころから記憶にのこる「bitume色」というフランス語が出てくる。それまで人間臭い話が続いていたのに、不意に冬枯れの風景描写が挿まれている。
鴎外を生涯の師と仰いだ荷風がその描写をとくに好んだ箇所だ。枯れた葦、敗荷ばかりの池の風景。(参へ)

| | コメント (0)