旅行・写真・無線

2022年11月11日 (金)

#スワイチ

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*岡谷市湊町の遊歩道から八ヶ岳方面を遠望。2022/11/10

きのうひとりでミニベロに乗り諏訪湖を一周してみました。約16㎞。諏訪湖にはこれまで何度も来たことがありますが、自転車で一周するのは初めて。起伏がないので自分のような老いた身でも一気に2周ぐらいはできそうでした。
朝6時に自宅を出て中央道を約2時間半。おもえばこんなに遠出するなんて3年ぶり。深夜長野県には濃霧注意報が出ていて、伊那谷から諏訪湖までほとんど霧の中のドライブでした。
「石彫公園」に着いたのは9時頃、霧もようやく晴れて気温は4℃。でも風がなくて清々しい。園内には多くの彫刻があってしばし散策。左は最初わからなかったけれどリンゴですね。
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9時半出発。反時計回りで一周することにしました。
サイクリングロードはかなり充実していましたが、現在も整備中のところがあって何箇所か工事中でした。
「#スワイチ」認定証をもらうためには指定3箇所に立ち寄り写真撮影をする必要があります。自転車だけでなく歩いても走っても可です。
左は最初の指定地「諏訪湖間欠泉センター(諏訪市・湖畔公園)」。間欠泉は今年になってから出なくなっているようですが、今日は湯気が立ちのぼっていました。右は2番目の「富士山と諏訪湖の眺望ポイント(下諏訪町・みずべ公園)」。逆光でしかもまだ霧の影響もあって南西方面は霞んではいましたが、その輪郭はなんとか。このあたりのロードは整備中でした。
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日帰り予定なので立ち寄るとすれば公園だけと決めていました。
湖畔北側の「赤砂崎公園(下諏訪町)」の「丘の輪」では、数日に分けて歩いて諏訪湖一周をチャレンジしている旅行中の年配の方々と楽しいおしゃべりができました。

#ビワイチ3番目の指定箇所は「寒の土用丑の日」発祥の地記念碑(岡谷市・岡谷湖畔公園)。探すのにすこし苦労しましたが、天竜川起点の釜口水門すぐ近くにありました。ウナギは冬こそ旬だとか。
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水門からの眺望。風が弱く、湖面が秋空を映して美しい。
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釜口水門を離れ、湖の西側湖畔(岡谷市湊町)を走ります。ちょうど太陽の方角の関係で東側の山々が日に映えて美しい眺めが続き、枯れ葉舞うなかを歩いたり(冒頭写真)、満天星(ドウダンツツジ)が植えてある辺りではしばしば立ち止まりました。
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午後2時前には出発点の石彫公園に帰り、すぐJR上諏訪駅の観光案内所へ立ち寄って認定証と缶バッジをもらいました。
次はハマイチかビワイチ。ビワイチは一周約200㎞もあるので2年計画になるかも。

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2021年5月 7日 (金)

ミルククラウン

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このところ、外へ出て風景を撮る機会が減ってきた。そこでたまには室内でと思い、手はじめに「ミルククラウン」に挑戦してみた。

初めて撮るので難しい。やはり肝心のミルククラウンは連写した数十枚のうち1枚程度しか姿を見せてくれない。けれども撮ったどのコマも液体の不思議な動きを見せてくれるので、さらにあれこれ工夫してみたくなる。
しばらくはタイトルバナーの写真もミルクばかりになりそう。

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2021年4月11日 (日)

両親の修学旅行

前回父の旅行のことにふれた。
そのことに少し書き足しておく。

尋常小学校6年次の修学旅行で父は「伊勢」に行ったと書いている。
ところが父のメモをよく見ると「←→」と印をつけて高等小学校の1年次「福井・敦賀」と入れ替えている。記憶が揺らいだのだろう。

高小1年次の「福井・敦賀」は、たぶん夏の臨海学校(夏季休暇聚落=キャンプ)ではないかと思う。若狭湾のどこかで水泳などもしたかもしれない。けれども岐阜市からなら知多半島方面へ行く学校も当時あったようだから、遠く日本海側まで行ったことは意外だった。何か特別な事情でもあったのだろうか。
そして高小2年次の修学旅行は「京都と奈良」(昭和11年、父14歳)。

母も尋常小学校6年次に修学旅行で「伊勢と二見」に行っている。
昭和15年のことで、この時初めて鉄道列車に乗ったらしい。岐阜の山奥が実家なので鉄道に乗る機会はそれまでなかったのだ。
そのとき聞いた蒸気機関車の汽笛のことを、晩年になっても懐かしんでよく話してくれた。「あれは涙が出るくらい切ない響きやったよ」と。
ところが高小2年次に修学旅行があったのかどうかは遂に聞くことはできなかった。昭和17年のことだから戦時下でもあり、そろそろ修学旅行どころではなかったのかもしれない。


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2018年11月17日 (土)

紅葉鳥

転生を信ずるなれば鹿などよし  斎藤空華 『空華句集』

歳時記の「鹿」の項をみると、
すずか すがる かのしし 紅葉鳥 妻恋う鹿 などとある。

 

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                     鷺池(浮見堂)の朝 Nov./2018

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2018年11月11日 (日)

入江泰吉旧居

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            入江泰吉旧居・応接間からの西の眺め(2018年撮影)

前回の記事で、来年のカレンダーの表紙「親子鹿」のことにふれたが、あらためて「奈良市写真美術館」のHPで確認したところ、撮影は1975年5月の興福寺境内との説明があった。カレンダー記載の年は出版された写真集の刊行年だったので記事も訂正した。

訂正の作業をしながら「親子鹿」という言葉にひっかかり、そういえば入江夫妻には子がなかったことを思い出した。そんなこともあって、氏は弟子を我が子のように大切にし、多くの文人墨客とさかんに交流したのだろう。
入江の旧居は、東大寺戒壇院から南にほんの少し歩いた水門町にあり、修繕されて3年前から一般に公開されている。上掲写真の応接間では、夫妻が四季折々の風景を眺めながらいつも朝食を共にしていたらしい。

ところでこの「親子鹿」は、かつてポスターなどにもよく用いられており、入江の代表作のひとつに数えられているけれど、自分としてはそうしたカラー作品にも増して、モノクロ写真のほうにひかれる。最初に手に入れた写真集も、氏が亡くなってからのものであるが、『回想の大和路』(集英社 1994年)だった。


※入江泰吉の旧居についてはHP もしくは、
  『月刊大和路ならら』2016年3月号
の特集が詳しい。

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2018年8月19日 (日)

気分はロータスロード

きのう日帰りで唐招提寺へ。大陸の高気圧が張り出し、日差しは強いものの秋の遠足気分。南大門を入って左側の楓。まだ晩夏というには早いけれども、どことなく秋の準備に入っているようにみえる。
今回は写真を中心に。
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経蔵側の楓も、幾つかは秋色に染まっている。
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まず挨拶すべきは鑑真和上御廟。この苔庭を前にすると、何度も乗り越えようと試みて失敗し、盲目となりながらも日本へ渡ろうとした大海原がいつも目に浮かぶ。この日ひとり御廟の前で深々と礼をされる方があり、話を聞くと日本で中国語を教えておられるとのことだった。
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梅雨明けに訪れて蓮も見ようと思っていたが、あまりの猛暑で今日になってしまった。8月も下旬になり蓮への期待はなかったけれど、それでも幾つか咲いていた。
「戒壇」東側の「はす池」は残念ながら咲いていたのはひとつだけ。
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「滄海池」は白蓮がふたつ。
晴天下の白蓮を撮るのは特に難しい。思いっきりレンズを絞るが三脚は使えないので、さらに難しい。何度試しても思いどおりにならない。
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「戒壇」南側の薬草栽培地も鉢は多いが、これだけになっている。
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売店東側の鉢には蕾がふたつとこれ。
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実は唐招提寺のあと喜光寺にも短時間寄ってみた。ここも見頃は8月初めまでだったとのこと。それにしても空はすっかり秋めいていた。
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喜光寺に来ていた若い女性ふたり。「気分だけはロータスロードやね」と楽しそうにシャッターを切っていた。

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2018年7月 7日 (土)

女人髙野「室生寺」

P5280287_2ここ1週間、西日本を中心に記録的な大雨が降り続いている。
実家の様子も気になったので、きのう掃除がてら行った。母が家に残している小物を見ていたら、花台として使っていた小さな木片を見つけた(左)。写真はその左端にある焼印の部分だけを写したもので、「女人髙野 室生寺」とある。
奈良県宇陀市の室生寺は、今からちょうど20年前に台風7号で大きな被害を受けた。1998(平成10)年秋のことだった。強い風のために高さ60㍍の杉の巨木が五重塔に倒れかかり、檜皮葺の屋根五層とも無残に壊れてしまい、相輪の尖端も折れた。
また春日大社でも、倒れた大杉で東回廊の屋根の一部が破損しており、そのほかの奈良の文化財が各所で甚大な被害を受けた。

室生寺を初めて訪れたのは1980年代に入ってからだと思う。高さ16㍍ほどの小さな五重塔を母がとりわけ気に入っており、季節毎に家族で数回通った。それだけに台風被害のニュースには母も心を痛めていた。
幸いにも塔の本体は損傷を免れていたため、五重塔の修復は短期間で終わり、2000年夏には元の姿に戻った。その修復過程で再確認されたことは、従来言われていたように法隆寺五重塔に次ぐ日本で最も古い8世紀末前後の五重塔だったことだ。もちろん過去に修復は何度も行われているが、基本となる古材は当時のものが残っていたことから確認されたのであろう。
修復が終わった直後に訪れたときだと思うが、木片が勧進のために頒布されており、それが今手許にある花台だった。それは再建に利用できなかった塔の廃材なのか、それとも倒れた杉の木のものかはわからないけれども、母は再建をずいぶん喜び、これを大切に手許に置き使っていたのである。
母はもう訪れることができないが、代わりに梅雨が明けたら唐招提寺へ行く途中にでも久し振りに立ち寄ってみたいと思ったのである。

(修復に関する記録はNHKのアーカイブで今も見ることができる。→ここ

Photo                 室生寺:五重塔(2002年4月の撮影か?)

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2017年2月12日 (日)

暁のオリオン

※鈴木壽壽子さんに関する「冊子PDF」(四日市人権センター)のリンク先を新しいものに入れ替えました(2022年2月22日)

あのとき「暁(あけ)のサソリ」を撮ろう思ったのは、「暁のオリオン」のことが頭をよぎったからではないか、最近そう思い始めました。

まだ20代のはじめだった1975年ごろ、鈴木壽壽子さんの『星のふるさと』を読んだとき、そのなかにオリオンを詠んだ草田男の句を題材にした随想がありました。
 
 火の島は夏オリオンを暁の星

彼女は、草田男が旅行中の伊豆大島で見た風景を詠んだものだといいます。以来この句は、私にとっても忘れられないものになりました。おそらく1930年代後半の句でしょうか。同じ句集には、「戦記なれば殺の字多き冬日向」があります。すでに大陸では宣戦布告なき「戦争」が拡大していたころです。
南の海で洗われた真珠のように、夏の暁(あけ)の空に、冬のオリオンの星々が昇ってきます。彼女が暁のオリオンを見たいと思っても、しかし彼女の住む当時の四日市では、フレアスタックと汚れた大気が星々を隠していました。

≪陽が昇れば、すぐクマゼミがかきたてる暑さを、少しでもしのぎよいものにと、真冬の星の生まれる姿を、神様はそっと、夜明けの空に溶かしておいてくださった。≫
≪夏の夜明けのオリオンが、私も見たい。火の島でなくとも、見なれた屋根の上にでも。≫
 『星のふるさと』 「火の島」1971.8 (76-77頁) 鈴木壽壽子 誠文堂新光社 1975

 

火星大接近のあった1971年、鈴木さんは、家事の合間に火星表面を小さな望遠鏡で精密なスケッチをしたことで注目されたた方です。「星のふるさと」には海から昇る暁のオリオンと思われる写真が掲載されています。なお、彼女と天体観測への関わりについては、四日市の人権センターのサイトでも紹介され、冊子(PDF)も見ることができます。

暁のオリオンを見る機会は、残念ながら今まで一度もありませんでした。
いつか「比較明合成」とかいう機能を使って、海の見える場所で夏のオリオン出を撮ってみたい、いやいや、撮影なぞできなくてもいいので、夜明けのオリオンに出会うことさえできれば、きっと満足。

 

*『星のふるさと』は絶版。ところどころ残念な誤植があり、改訂・復刻が待たれます。

 

 

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2017年2月11日 (土)

暁のサソリ

  

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            「暁のサソリ」 click the picture to enlarge

 今日からブログを始めます。よろしくお願いします。

 タイトルバナー上の写真は、今から20年以上前に撮影したもの。上に全景を載せます。懐かしい銀塩写真。最近デジタル化したのですが、解像度は良くありません。今なら「比較明合成」とかで恐ろしく美しい星景写真を「創る」ことができますが・・・。
撮影データは残っておらず、たぶん1990年代中頃、日時は1月下旬の薄明時。レンズは左の樹木の歪み具合からすると28㍉?。Nikon FE を使った記憶があります。拡大すると多少は星々が見えると思います。平凡な写真ですが、忘れられない想い出があります。
 
 この日(多分土曜日)、東海・甲信越は月も無く晴天でした。夕飯後、中央道に入って諏訪湖方面に向かいました。途中、岡谷JCT手前で和田峠か八ヶ岳方面か迷っているうちに諏訪湖PAに来てしまいました。そのとき急に「暁のサソリ」だ、と思いつき、仮眠のあと小淵沢ICから八ヶ岳高原道路へ向かい、県道の山道を登りました。
  当時は重い機材(ε-160/EM-200など)を積んで「天体写真」に夢中でした。でも、仕事が忙しく、次第に手軽な「星景写真」に関心が移り、2001年獅子座流星群の圧倒的な光景を見てからは、写真を撮るためだけに遠征することはしなくなりました。肉眼ではとらえられない天体の姿を写すことは、たしかに楽しいことでしたが、むしろ肉眼で見る星々や風景に心引かれるようになりました。本当のことを言えば、趣味に費やすお金も、写真のセンスもなかったということでしょう。
 深夜にもかかわらず撮影場所に人がやってきました。その方は清里に住む方で、夜明けまでの1時間ばかり長話をした記憶があります。彼も以前は天体写真に夢中だったようですが、今は止めたとのこと。退職後は都内から清里に移り住み、ときどきこのあたりに来て、星や富士を眺めているとのことでした。時間のある今より、「仕事が忙しいときほど、趣味に熱中できた」、と言っていたことが今も印象に残っています。
あれこれ話していたために撮影に集中できず、構図やレンズ選びなどはいいかげんなものになりました。ただ、冬場なのでレンズに灰式懐炉を付けることだけは習慣として忘れていなかったようです。

 ところで、あのときなぜ「暁(あけ)のサソリ」だと思ったのか、最近そのことについて考えるようになりました(次回へ)。

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