旅行・写真・無線

2023年11月 3日 (金)

震災遺構大川小学校

6日かけて、この10月中旬「みちのく」ひとり旅。
自家用車を使い、往復の走行距離 1900㎞ あまり。
それにしても2ペダルMTの車は、高速道路も山坂道も愛馬のごとくよく走ってくれた。

芭蕉さんの足跡を巡りながら山形県、宮城県そして岩手県まで足を伸ばしたが、目的のひとつに震災遺構の見学もあった。
とくに市町村単位では最も多くの犠牲者を出した石巻市(死者3187人、行方不明者415人)はどうしても訪れたかった。
女川港や震災遺構門脇小学校にも立ち寄ったが、ここでは石巻市震災遺構大川小学校を訪ねた時の印象だけを記す。

学校沿革やメッセージの記されたパネルはどれも心を打つ。
爽やかな秋空のこの日、遺構のなかをたくさんの赤とんぼが飛び回り、錆びた鉄筋や説明板に羽根を休め、あたかもガイド役のように「これを見て考えて欲しい」と訪問者たちに問いかけているかのようだった。
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行方不明者捜索の際に壊された教室の腰壁部分に残る鉄筋
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訪問した日の午前、遺構にいたひとは50名ぐらいであったかと思う。誰もが静かに遺構を巡っておられた。音といえば、10名ほどのグループに「語り部」のひとがゆっくり丁寧に話す声だけだった。
校庭に立ったとき、地震発生時から50分あまり学校に待機していた児童・教職員と避難してきた住民の方たちの姿や、やがて河川津波が襲ってくる方角にある三角地帯に向かって動き出した子どもたちの後ろ姿が、しぜんに目に浮かんできたのである。
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かつて同じような職場に身を置き、地域も校種も違うけれども、そしてすでにリタイアした身ではあるが、この場に立ってまず心のなかに湧き上がってきたのは、これまでに感じたことのない「悔恨」であり「憤り」であり、そして幾つもの「疑問」だった。
疑問のうち、現場を見なければわからなかったことの大半はこの日納得したけれども、最も大きな難しい問いは、やはり現場に立ったところで答えが出るはずもなかった。
「あの時もし自分がこの場にいたら、どう判断し行動しただろうか?」

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津波は校舎2階の天井に達していたことが確認されている。
すでに12年半の年月が経過し、遺構の劣化も懸念されるなか、ボランティアなどのひとたちによる保存・維持の努力が続けられているという。
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校舎南側にある裏山と擁壁。左奥に登り口がある。
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校舎南側の、その日もそしてその後も「議論」され続けた小高い裏山の、コンクリート擁壁の上に立ち、見学を終える直前にあらためて学校と付近の全景を眺めてみた。写真奥(北側)には河川津波が遡上してきた富士川・北上川が流れている。川と学校の間、そして写真右(東側)には住宅地などのひとびとの生活の場があったが、現在はハウス栽培施設になったり更地になっている。
この大川地区で亡くなった方は418名とのこと。
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津波到達箇所は、人の立っている擁壁の下にある矢印の掲示板あたり。Rrdsc01061_20231103025401

この裏山には、襲ってくる津波からかろうじて逃げることのできた児童4名・教職員1名、その他に住民・河北総合支所職員10数名が避難した。
この児童4名のうち2名について『大川小学校事故検証報告書』は次のように記す(87頁)。

校庭からの三次避難中、児童2名は、津波を目撃して来た道を戻り、正面にあたる山の斜面を登ろうとした。うち1名は、斜面を数メートル登ったところで振り返り、水が押し寄せてくるのを見てさらに登るべく再び斜面側を向いたところで、後ろから押し倒されるように津波にのまれて気を失った状態で半分ほど土に埋まった。もう1名は、津波に巻き込まれながらも水面に出ることができ、ちょうど流されて来た冷蔵庫に舟に乗るようにして入った。冷蔵庫が波に流されて山の斜面にたどりつき、斜面に降り立ったところ、付近に半分ほど土に埋まった状態の児童がいたため、負傷していたにもかかわらず、土を掘って助け出した。助けられる側の児童も、自力で土を押しのけて起き上がった。」

当時の全校児童数は108名、欠席や保護者に引き取られた児童を除いた77~78名が校庭にいたといわれる。
この事件は学校管理下で起きたこれまでの最大の犠牲者数を出した。犠牲となった児童は死亡70名、行方不明4名(2023年7月現在)、犠牲になった教職員数は校庭にいた11名中10名とされている(小さな命の意味を考える会/大川伝承の会編集発行の冊子「小さな命の意味を考える」第2集等による)。

答えの出ないあの難しい問いは今も胸のなかにあるし、これからもあり続けるだろうと思う。けれどもここへ来てあらためて肝に銘じたことは、危険に直面したとき躊躇せず素早く命を守る行動をせよ、というあまりにも当然すぎる命題だった。

遺構をあとにしながら駐車場へ向かうとき、むかし父の取ったある行動を思い出した。
小学生のころ、夏休みに母の実家にいたとき、昼間大きな地震があり、縁側で隣に座って涼んでいた父が、揺れと同時に間髪をいれずわたしの上に覆い被さってきたときの、まったく信じられないような素早い動きのことを。

★参照した主な資料

裁判→参照・ダウンロード先
 ★平成26年(ワ)301 国家賠償等請求事件
  平成28年10月26日 仙台地方裁判所
 ★平成28年(ネ)381 国家賠償請求控訴事件
  平成30年4月26日  仙台高等裁判所 仙台地方裁判所

〇大川小学校事故検証報告書 平成26年2月
 (→参照・ダウンロード先

〇「小さな命の意味を考える」 
  第2集 宮城県石巻市立大川小学校から未来へ
  2023年8月20日第6版(→参照・ダウンロード先

〇その他(下記の遺構の展示説明等)
 ・石巻市震災遺構門脇小学校
   震災遺構(本校舎)、展示館(特別教室)
   展示館(屋内運動場)
 ・石巻市震災遺構大川小学校と大川震災伝承館

 *石巻市震災遺構HP(→参照)  

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2023年9月 1日 (金)

那谷寺(なたでら)

空を見上げると、すでに高層にはねばりのない秋雲が流れている。夕刻日陰に入ると、肌に当たる風にもやや秋の涼しさを感じる。

『おくのほそ道』の芭蕉が金沢に着いたのはちょうど今頃、旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)であった。そして金沢から小松にいたるまでに「秋の風」をテーマとして四句掲げている。その三句目、四句目。

あかあかと日はつれなくも秋の風

しをらしき名や小松吹く萩薄

その小松を訪れたあと芭蕉は山中温泉にしばらく逗留するが(ここで曽良と別れる)、請われて再び小松へ戻っている。その戻り道で「那谷寺」に立ち寄ったのである。しかし『おくのほそ道』の記述は、小松から山中温泉への途上に「那谷寺」へ参拝したことになっている。

石山の石より白し秋の風  

那谷寺の開創は8世紀であり、元は「岩屋寺」といわれた。その後「那谷寺」と呼ばれるようになった経緯と寺内の奇石について芭蕉はこう記す。

花山の法皇、三十三所の巡礼遂げさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとや。那智・谷汲の二字を分かちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

芭蕉も見た奇岩霊石は今「奇石遊仙境」と名付けられている。
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境内にある芭蕉の句碑(左:1843年建立)と翁塚(右)。
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芭蕉が「萱葺きの小堂」と記した本殿(大悲閣)。16世紀に寺は荒廃したが、本堂は1642(寛永19)年に再建され、さらに1949年に解体修理されている。本尊は十一面千手観世音菩薩で、芭蕉の説明とは異なり花山法皇の時代以前から納められている。この階段左側が奇石に接している。
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名勝の書院庭園・琉美園よりも、むしろ本堂へ続く参道沿いの杉並木と苔が今も印象に残る。暑い日ではあったが、苔の絨毯に差し込み揺れる木漏れ日と樹影の織りなす景象に、当日の参拝者で立ち止まらないひとは誰もいなかった。
できることなら季節ごとに訪れてみたいと思ったのである。
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〇写真:8月5日撮影
〇新版『おくのほそ道』潁原退蔵・尾形仂 訳注 角川ソフィア文庫

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2023年8月27日 (日)

再びの「雪の科学館」

今月初めに北陸の芭蕉ゆかりの地を巡ったことは先日記事にしたが、加賀市に立ち寄ったときどうしても再訪したいところがあった。それはこのブログをはじめたころに記した(→★)中谷宇吉郎の「雪の科学館」である。そのときの記事(2017年)は彼の『雪雑記』にあった体験と自分の幼少期に体験した雪の思い出を重ね合わせて書いたものだった。

はじめて「雪の科学館」を訪れてから約17年の歳月が過ぎた。2006年に写した携帯電話の写真をもういちど見てみる。
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そして下が今回同じような位置から撮ったもの。
手前にある大きく生長した樹木が年月の移り行きを語っている。
風景を眺めながら17年前の自分を振り返り、この間何事も無くこの木がここにあること、科学館が変わらない姿であることに安堵もし、そういえば、館の設計に携わった建築家磯崎新が昨年末に旅立ったことも思い起こしたのである。Lllkkkdsc00538
 「中谷宇吉郎 雪の科学館」20230806 石川県加賀市

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2023年8月11日 (金)

鶴仙渓

絶え絶えに温泉の古道や苔の花  大島蓼太  *温泉(ゆ)

先週のこと、『おくのほそ道』を辿ろうと思って小松市、加賀市、福井市を巡った。この春には新潟へも足を運んでいるので、ひとまず北陸の芭蕉の足跡は金沢市内を除いてほぼ辿ったことになる。
もちろん今回も気楽なひとり旅。
まずは山中温泉の「鶴仙渓」を歩いた印象記。

『おくのほそ道』の芭蕉は、金沢を経て小松に赴き、その後「山中の温泉(いでゆ)」に向った。「曾良随行日記」によれば七月廿七日から八月五日まで、芭蕉は山中温泉に九泊十日も滞在している(その後もう一度小松へ戻っている)。
杖を置いたのは「泉屋久米助」方。今は泉屋のあったことを示す碑(↓)があるだけだが、すぐ前には古くからの湯元である「菊の湯」が見える。むかしはここが総湯(共同浴場)であり、内湯はなかったとのこと。
「菊の湯」の名は芭蕉のこの句によるものらしく、芭蕉さんの力にあらためて感服するのみ。

山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ 

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この温泉地の東を流れる大聖寺川の渓流を芭蕉が散策したことは曽良の日記にも記されている。
温泉街の北の「黒谷橋」から河原に降り、遊歩道を南へ下がって「こおろぎ橋」まで歩いた。約1.3㎞。実は着いた日の夕方と翌日の早朝も散策したのだった。
渓流なので少しは涼しいだろうとの期待は見事に裏切られた。台風接近で北陸はここしばらく猛暑続き(昨日10日は小松が40℃を記録)。ただし苔マニアのひとにとっては、一日中歩いても飽きないだろうとは思った。素人ながら、苔の種類が豊富なのにはちょっと感動。もちろん青森の北入瀬や北八ヶ岳白駒池周辺の苔の森のような風景には及ばないけれども、温泉街から気軽に立ち寄ることができるし、その渓流美は変化に富んで趣があり好ましい。春や秋はひとでいっぱいかもしれない。

〇黒谷橋(大切な誰かと待ち合わせをしたい気分にさせる・・・(*'-')
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〇遊歩道の始まり
 中央を登ると東山神社。右の芭蕉堂へ進むと渓流沿いの遊歩道。
 左に見えるランプはレトロカフェ「東山ボヌール」。
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〇東山ボヌールさんで頂いた鶴仙渓の案内パンフ。
 左が「モジャモジャマップ」(苔など植物の情報マップ)
 右は「鶴仙渓ワンダーフォーゲル」(ガイドマップ)
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〇東山ボヌール →★HP
 レトロカフェ。元は旅館だったとか。
 この日は散策前に予約。「森のケーキ」でカフェ。2階席でよかった。
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〇芭蕉堂(明治末の建立)
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〇遊歩道
  苔、シダの種類が豊富で、こうした場所は珍しいとか。
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〇ゆるやかな流れや淵もあれば、急な瀬もあって変化を楽しめる。
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〇あやとり橋(鉄橋)
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〇川床が見える。
 山中温泉町出身の道場六三郎氏監修のロールケーキが出るとか。
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〇遊歩道から見上げた「こおろぎ橋」
 大昔、同名のTBSドラマでも有名になった。
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〇こおろぎ橋(何度も付け替えられている総檜の美しい橋)
 でもわたくしとしましては、
 やはり黒谷橋の渋さに軍配を上げます\(^^ )
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忘れていたが、資料館「芭蕉の館」のことや句碑のことはまたいずれ。次回は「那谷寺」か。

 

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2023年6月14日 (水)

一茶の里

名月や乳房くはへて指さして    織本花嬌

名月をとつてくれろと泣子哉   小林一茶

この四月に上越(市振、親不知、上越市)、北信濃(信濃町、高山村、坂城町、上田市など)を訪れました。やはりひとり旅でしたが、前回記事五月の上越(出雲崎など)と違い、自家用車で広範囲を回りました。

今回はとくに一茶ゆかりの高山村を訪問した印象を記します。

先日藤井聡太さんが名人のタイトルをとった「藤井荘」(山田温泉)のある高山村は、実は小林一茶が北信濃の俳諧活動で重要な拠点にした所でした。その高山村に「一茶ゆかりの里 一茶館」があります。訪問した四月十二日はあいにくの空模様でしたが、入り口前にある満開のしだれ桜が風に揺れながら「どうぞどうぞ」と招き入れてくれました。
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一茶館(長野県上高井郡高山村高井) 20230412

もちろん一茶の故郷柏原(信濃町)には「一茶記念館」があり、遺蹟や多数の句碑もあって、前日に何か所か立ち寄りました。でもそれらよりこの高山村の「一茶館」は、今もなぜか強く心に残っているのです。
地元のひとたちが大切に受け継いできた一茶の遺墨や『父の終焉記』をはじめとする資料の数々、金林喜多呂の愛らしい木目込人形による一茶生涯の展示、現代に至るまでの一茶研究の流れなど、質の高い、それでいてわかりやすく親しみを感じる記念館でした。

家族や親族のことで何かと不運、苦労の多かった柏原の一茶でしたが、頻繁に通ったここ高山村では伸び伸びと俳諧活動に専念できたようにみえます。村の門人久保田春耕の援助もあり、彼の父の離れ屋を提供され活動の拠点にしたそうです。その茅葺きの離れ屋は本館近くに解体・修繕・移築されており、建築物としても見応えがあるものでした。居心地がよくて一茶館ではずいぶん長い時間を過ごしました。
予定時間を大幅にこえてしまったため次の訪問地は翌日に回すことになりました。

ところで一茶が自身の俳圏拡大につとめたのは信州だけではありません。実は40歳を過ぎたあたりから本所深川に住みながら、江戸川・利根川周辺(流山、守谷、取手、成田、銚子など)や内房(富津、木更津など)へ巡回指導を行っています。
機会があれば、流山の「一茶双樹記念館」(秋元双樹屋敷)、冒頭句の織本花嬌(一茶憧れの女性俳人)が眠る富津の大乗寺などへも行ってみたいと思いました。


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離れ屋(一茶館) 奥の小部屋の丸窓が印象的 20230412

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信濃富士(黒姫山) 信濃町柏原「一茶記念館」前にて 20230411

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2023年6月 4日 (日)

良寛の里

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 出雲崎:良寛堂(生家橘屋跡地)の良寛像 20230510

五月中旬三泊四日で良寛や貞心尼ゆかりの地をひとりで巡りました。
道の駅や史料館などに車を置き、歩きながら、ときには車載の折り畳みミニベロで動き回り、柏崎、出雲崎、寺泊、分水(国上山・五合庵)、与板そして遷化の地の和島など、良寛や貞心尼の足跡を辿りました。
事前にわかってはいましたが、寺社、公園などに良寛の詩碑や彼の像がとても多いことにあらためて驚きました。さらに良寛の遺墨を展示する記念館(史料館・美術館)が何か所もあり、まさに良寛の里と呼ぶにふさわしいところばかりでした。

以下、旅したなかで印象的だったことを幾つか。

四日間とも晴天に恵まれたことは幸いでした。現地に行ってはじめてわかったのは、出雲崎、与板、和島では各所を巡るのに自転車がとても役立ったことでした。道を尋ねることが何度もあったのですが、歩きよりなぜか自転車だと気軽にひとに声をかけることができて移動の手段としては最善だったと思います。
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 良寛堂:良寛像はこの堂の向こう側にある。

あるお寺さんで碑の写真を撮っていると、清掃中にもかかわらずお庫裏さんが良寛詩碑の解説資料をわざわざ探して持ってきていただいたり、今年は雪が少なかったのに春先の重い雪で裏山の桜の木が倒壊した話など、お寺を維持する苦労話なども聞くことができました。道中でお話しできたどの方もやさしい目をしておられたのが印象的で、ひょっとしたら良寛が接していた当時のひとびとの末裔の方もおられたのではないかとさえ思いました。また分水良寛史料館では館長さんから遺墨について直接貴重なお話を聞くことができ、よき思い出となりました。

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「鄕本空庵跡」近くの海岸から佐渡島遠望 20230512

海をゆっくり眺めるのはほんとうに何年ぶりかのことでした。でも晴れていても佐渡島はいつも見えるわけではありませんでした。ようやく旅の三日目に寺泊や近くの「鄕本空庵跡」に立ち寄ったときに初めて佐渡島の全貌を遠望できたのですが、山には名残の雪も見えていました。良寛もときおり母が生まれたこの島を眺めていたのでしょう。
その他に海や町並みを眺望できる心に残った場所は、出雲崎の石井神社と良寛記念館側の公園、寺泊の照明寺などでした。けれどもこの海や土地のこと、いや良寛のことをさらに知るためには、実は冬こそ訪れるべき季節かもしれない、そんな思いが頭を過りました。

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守門岳:与板の「楽山苑」から遠望 20230512

訪れたどの所からも北に弥彦山、東に残雪の守門岳が遠望できました。ほとんどの田はすでに田植えが済んでおり、米どころならではの広々とした田園風景が広がっていました。今回の旅の拠点(泊地)は長岡市でしたので、北越戊辰戦争の舞台となった場所に開設された「北越戊辰戦争伝承館」も訪れたのですが、戦禍に巻き込まれた村の様子、戦闘の全貌がわかりやすく展示されており、史料等を館に提供された地元の方の熱意も伝わってきました。

調べてみると良寛の遷化は1831年のことであり、明治維新までそう遠くない時代に彼は生きていたのです。ずいぶん昔の人だと思っていた良寛が急に自分の傍らに座っている気がしてきました。しかも晩年の良寛と深い交わりのあった貞心尼が亡くなったのは明治5年のことでした。Ggdsc08165
 閻魔堂(貞心尼草庵):長岡市福島町  20230509
 ブロンズ像は昨年(2022年)4月に建立されたという。

 

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2023年5月23日 (火)

旅心に誘われて

ひとり旅。四年ぶりの遠出。

先月は二泊三日で越後と北信濃へ、
さらに今月は三泊四日で再び越後の旅に出た。
自家用車で行くが、ミニベロを積み、小さな町も自由気ままに走る。
次は羽前、陸中へ。
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※上信越道から早朝の越後富士(妙高山 20230509)
雪解けがかなりすすんで、あの雪形の「跳ね馬」が・・・
跳ねるネコちゃん、いや耳の小さいウサちゃんかも(゚o゚;



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2022年11月11日 (金)

#スワイチ

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*岡谷市湊町の遊歩道から八ヶ岳方面を遠望。2022/11/10

きのうひとりでミニベロに乗り諏訪湖を一周してみました。約16㎞。諏訪湖にはこれまで何度も来たことがありますが、自転車で一周するのは初めて。起伏がないので自分のような老いた身でも一気に2周ぐらいはできそうでした。
朝6時に自宅を出て中央道を約2時間半。おもえばこんなに遠出するなんて3年ぶり。深夜長野県には濃霧注意報が出ていて、伊那谷から諏訪湖までほとんど霧の中のドライブでした。
「石彫公園」に着いたのは9時頃、霧もようやく晴れて気温は4℃。でも風がなくて清々しい。園内には多くの彫刻があってしばし散策。左は最初わからなかったけれどリンゴですね。
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9時半出発。反時計回りで一周することにしました。
サイクリングロードはかなり充実していましたが、現在も整備中のところがあって何箇所か工事中でした。
「#スワイチ」認定証をもらうためには指定3箇所に立ち寄り写真撮影をする必要があります。自転車だけでなく歩いても走っても可です。
左は最初の指定地「諏訪湖間欠泉センター(諏訪市・湖畔公園)」。間欠泉は今年になってから出なくなっているようですが、今日は湯気が立ちのぼっていました。右は2番目の「富士山と諏訪湖の眺望ポイント(下諏訪町・みずべ公園)」。逆光でしかもまだ霧の影響もあって南西方面は霞んではいましたが、その輪郭はなんとか。このあたりのロードは整備中でした。
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日帰り予定なので立ち寄るとすれば公園だけと決めていました。
湖畔北側の「赤砂崎公園(下諏訪町)」の「丘の輪」では、数日に分けて歩いて諏訪湖一周をチャレンジしている旅行中の年配の方々と楽しいおしゃべりができました。

#ビワイチ3番目の指定箇所は「寒の土用丑の日」発祥の地記念碑(岡谷市・岡谷湖畔公園)。探すのにすこし苦労しましたが、天竜川起点の釜口水門すぐ近くにありました。ウナギは冬こそ旬だとか。
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水門からの眺望。風が弱く、湖面が秋空を映して美しい。
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釜口水門を離れ、湖の西側湖畔(岡谷市湊町)を走ります。ちょうど太陽の方角の関係で東側の山々が日に映えて美しい眺めが続き、枯れ葉舞うなかを歩いたり(冒頭写真)、満天星(ドウダンツツジ)が植えてある辺りではしばしば立ち止まりました。
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午後2時前には出発点の石彫公園に帰り、すぐJR上諏訪駅の観光案内所へ立ち寄って認定証と缶バッジをもらいました。
次はハマイチかビワイチ。ビワイチは一周約200㎞もあるので2年計画になるかも。

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2021年5月 7日 (金)

ミルククラウン

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このところ、外へ出て風景を撮る機会が減ってきた。そこでたまには室内でと思い、手はじめに「ミルククラウン」に挑戦してみた。

初めて撮るので難しい。やはり肝心のミルククラウンは連写した数十枚のうち1枚程度しか姿を見せてくれない。けれども撮ったどのコマも液体の不思議な動きを見せてくれるので、さらにあれこれ工夫してみたくなる。
しばらくはタイトルバナーの写真もミルクばかりになりそう。

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2021年4月11日 (日)

両親の修学旅行

前回父の旅行のことにふれた。
そのことに少し書き足しておく。

尋常小学校6年次の修学旅行で父は「伊勢」に行ったと書いている。
ところが父のメモをよく見ると「←→」と印をつけて高等小学校の1年次「福井・敦賀」と入れ替えている。記憶が揺らいだのだろう。

高小1年次の「福井・敦賀」は、たぶん夏の臨海学校(夏季休暇聚落=キャンプ)ではないかと思う。若狭湾のどこかで水泳などもしたかもしれない。けれども岐阜市からなら知多半島方面へ行く学校も当時あったようだから、遠く日本海側まで行ったことは意外だった。何か特別な事情でもあったのだろうか。
そして高小2年次の修学旅行は「京都と奈良」(昭和11年、父14歳)。

母も尋常小学校6年次に修学旅行で「伊勢と二見」に行っている。
昭和15年のことで、この時初めて鉄道列車に乗ったらしい。岐阜の山奥が実家なので鉄道に乗る機会はそれまでなかったのだ。
そのとき聞いた蒸気機関車の汽笛のことを、晩年になっても懐かしんでよく話してくれた。「あれは涙が出るくらい切ない響きやったよ」と。
ところが高小2年次に修学旅行があったのかどうかは遂に聞くことはできなかった。昭和17年のことだから戦時下でもあり、そろそろ修学旅行どころではなかったのかもしれない。


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