旅行・写真・無線

2024年5月27日 (月)

碌山美術館

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碌山美術館《碌山館 1958年開館》 安曇野市穂高 2024年5月23日

ときどき、急に荻原守衛(碌山)に会いたくなって車を走らせる。

《碌山館》の彫刻展示の配列は1958年開館以来同じとのこと。
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2008年に開館した《杜江館》(絵画館)の入り口には碌山の言葉。
彼が「最親友」といった片岡當(まさ)宛ての手紙の一節。

 事業の如何にあらず
 心事の高潔なり
 涙の多量なり
 以て満足す可きなり

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2024年5月 5日 (日)

月もたのまじ息吹やま

おりおりに伊吹をみては冬ごもり 芭蕉  [後乃旅集 如行撰]

そのままよ月もたのまじ息吹やま 芭蕉  [   同上   ]


この冬は西国三十三所巡りをする機会が多かった。
1月末に姫路市の二十七番書寫山圓教寺と加西市の二十六番法華山一乗寺へ行ったときは、新幹線で姫路まで行き、そこからレンタカーを使うことにした。日帰り。

朝5時台のまだ暗いなか始発電車に乗って名古屋駅へ。
下り名古屋始発は6時20分のぞみ271号だが、今回は姫路行きなのでこれも名古屋始発の6時36分ひかり351号を使う。座席は進行方向右。夜明け前の澄み切った空が広がっていた。

木曽川を渡るころ、車窓から少し後方を眺めると夜明け前の御嶽山の偉容があった。岐阜羽島駅を出て長良川を渡り、やがて揖斐川にさしかかると御嶽山と金華山・岐阜城がほんの一瞬だが並び立つ。
撮ったときはわからなかったが、よく見ると岐阜県庁、右端に墨俣一夜城(資料館)の姿もある。
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垂井町あたりでもなお御嶽山の姿は車窓にある。さすが三千㍍級。
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名古屋を出れば伊吹山が見えるはずなのだが、進行方向右側の座席からは時々しか視野に入ってこない。
やがて関ヶ原の山間を過ぎ北方向の視界が開けてくると、突然雪景色が広がり、迫力ある伊吹山の山容が車窓に広がってくる。山頂付近は朝日で次第に赤みを帯び始め、姿は刻々と変化する。だがそれはいつも東(濃尾平野側)から眺めている優美な姿ではない。巨大な岩の塊が転がっているようなゴツゴツとした威嚇的ともいえる直線的フォルム。
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芭蕉も愛した東から眺める伊吹山に月の趣などはいらない。
「そのままよ」と讃歎された麗しい姿を懐かしく思い描いていると、あっという間に車窓にはただ近江の冬景色が広がるだけだった。
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    [濃尾平野からみる冬の伊吹山 2022年1月下旬]


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2024年5月 2日 (木)

馬の尿する枕もと②

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旧有路家住宅 屋敷内の厩(馬屋):3頭分設えてある。20231017

この「封人の家」は、庄屋の屋敷として堂々たる構えと風格を備えています。上の写真は母屋の板間の囲炉裏から広い土間を挟んで見た馬屋(厩)ですが、左側にさらに2頭分の馬屋があり、家のどこにいても常に馬の様子がうかがえる間取りになっています。

さて、芭蕉らの泊まった「封人の家」はどこの誰の家だったかについては昔から諸説あったようで、とくに曾良の『随行日記』が再発見・刊行された昭和18年頃からは議論が本格化したようです。曾良が「和泉庄や、新右衛門兄也」と記録している家とはどこなのかなどをめぐり、現在の「封人の家」の他にも宿の候補地はいくつか検討されたようです。議論が落ち着かなかったのは、史料の少なさの他に、当時この地域には国境争いがあったことや芭蕉らの歩いた道の特定が簡単にはできなかった事情もあったのかもしれません。
その後この屋敷の解体復元工事が1971~73年に行われ、家の様式や建築技法が300年以上の歴史を経ていると推定され、芭蕉がこの地域を歩いた頃には既にこの家があったのではないかと考えられるようになりました。さらに屋敷内にあった古文書やわずかに残るその他の地域史料の分析などによって、この旧有路家の屋敷が芭蕉の泊まった家の可能性はかなり高まったようです。
※参照『最上町史編集資料 第11号(堺田・有路家旧蔵文書)』
    1983年  解説の17~22頁

たぶんその後も議論は続いているのでしょう。
ただ所詮ブログなのでこれ以上深くは触れません。

帰宅後あらためてこの句について解説している幾つかの資料を図書館で調べてみましたが、文字だけの解説文ばかりを見て疲れたので、何か絵や図のようなものがないかと探していると、『マンガ日本の古典 奥の細道』(矢口高雄 中公文庫)』に目がいきました。その Part4「よしなき山中に・・・」を読みながら、ハッとするような描写と記述に出会うことになったのです。

その一コマ(136頁)には、馬屋の二階で眠る使用人の姿があり、さらに興味深い解説文(134頁)もありました。一部を引用します。

「大小の差はあれ有路家は苗字を許された肝入り(庄屋)であるから、使用人(作男等)の五、六人は常時かかえていたはずである。しかも当時の庄屋と使用人の関係は厳然たる一線を画するものだった。例えば厩のある家の使用人の寝所は、ハシゴで登った厩の二階だった。そこにワラを敷き、シベ布団(綿のかわりにワラが入った布団)で眠るのが慣例だった。」

そして秋田県の農家の生まれだった矢口さんは、昭和三十年代に「厩の二階で眠る使用人たちの姿」を見たことがあるとも書かれています。

今のところ矢口さんのこうした説明を他の資料で確認することはできていませんが、ありうる話です。
旧有路家の屋敷でいえば、芭蕉たちが寝たのは、厩のある「土間」と「ござしき」を挟んで少し奥にある「なかざしき」ではないかといわれます。それでも馬の小便の音が聞こえるようなこの地域の「人馬同居」の暮らしぶりに芭蕉もおおいに感じるところがあったのだと思います。句の「枕もと」の主人公は、やはり芭蕉と考えるのが順当なのでしょうが、ひょっとすると矢口さんが描いているような厩の二階(上の写真参照)に眠っていた作男の気分になって詠んだとも考えられます。

この句は旅の悲哀や辛さだけを詠んだものというよりも、むしろ人馬同居の生活をするこの地域の風土をふまえ、すこし諧謔味も含ませながら仕立てたものでしょう。何の衒いもなく、気取らず、鄙びた地域でのありのままの体験と実景を詠んだ句のように思えますが、一方で現代人にはあまり馴染みのない古典籍などにも通じていた芭蕉のことですから、自分などにはとうていわからないもっと深い意味も含んでいるかもしれません。

どうしようかとちょっと迷ったのですが(サクラちゃんにはやはり可哀想なこと)、以前たまたま見つけた或る動画を埋め込みます。
調馬索を持つ方との会話を聞いていると、お馬さんへの親愛(≒敬愛)の情は今も昔も変わらないものだと思いました。
(なお、馬の排尿量は体重比でみるとむしろ人間より少ないとか)


※「尿」の読みのこと。
諸説あって、一般的には「しと」でしょうが、【曾良本】あるいは【芭蕉自筆とされる中尾本】などには「ハリ」のルビがふってあり、最近は「ばり」の読みが有力のようです。なお『泊船集』に「蚤虱馬のばりこく枕もと」とあるようなので、芭蕉はやはり「ばり」という読みが当初から念頭にあったのかもしれません。
でもわたくしとしましては「しと」が好みですが。

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2024年4月24日 (水)

馬の尿する枕もと①

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旧有路家住宅(『おくのほそ道』の「封人の家」といわれている)
(山形県最上郡最上町堺田)20231017


昨年秋のみちのく独り旅。
『おくのほそ道』で名の知れた所をいくつか見て回ったなかで、今も印象に残った事柄をすこしメモしておきます。

蚤虱馬の尿する枕もと 
 
この句は、中尊寺を見たあと芭蕉と曾良が仙台領の「尿前(しとまえ)の関」を越えて出羽(山形県)の尾花沢へと向かう途上、「封人の家を見かけて」宿りを求め、「よしなき山中に逗留」したときに詠んだとされています。
本州東側の太平洋と西側の日本海それぞれへ水が別れゆく分水嶺ともいうべきか、『おくのほそ道』の芭蕉の旅は中尊寺を大きな分岐点として、以後文学的に新しい局面へ入ったといわれます。地理的にも現在その封人の家から歩いてすぐの所(陸羽東線堺田駅前)に奥羽山脈の「大分水嶺」があるのです。

『ほそ道』は事実と異なる文学的創作・虚構による記述も多くあり、この句も旅のなかで作句されたものではなく後に挿入されたとする見方がありますが、それはともかく、自分がこれまでもっていたこの句の印象といえば、ふたりが鄙びた山奥の家に泊まることになり、旅の悲哀や辛さを詠んだものだろう、というようなものでしかありませんでした。
ところが建物に入って屋敷の造りを眺め、管理人の方の詳しい説明を聞き、さらに地元の「最上中学校卒業生」が書いた句の説明パネルを読んでいるうちに、これまでの句の印象が変わり始めました。
その説明パネルの一部を引用します。

 質素な中にもここに住む人々は、農作を生活の中心に懸命に生きていました。中でも芭蕉が心動かされたのが「人馬同居」の生活です。『馬の尿する枕もと』、まさにここに暮らす人々は馬をわが子のように大切に育てる。寝ている時も馬の尿が聞こえるほどそばに置いて、大事に育てていたのです。
 最上町はかつて馬の産地でした。どれほど馬が生きていくうえで大切なものだったかが伺えます。江戸の暮らしからは想像もつかない生活。「質素な中でもこのように生活していけるものだ」「このような暮らしもいいものだ」と芭蕉は詠んだのです。

地元に住んでいるひとならではのこの句に寄せる愛着を感じますし、この地域の「人馬同居」の生活を背景にした句だという説明にも納得したのです。やはり現地に来てよかったと思いました(ただしこの現存する封人の家がほんとうに芭蕉が泊まった家なのかどうかについては次回の記事に回します)。

ちなみにこの地域は、江戸時代に「小国駒」といわれる名馬の産地であり、明治になっても軍馬の購買地に指定されるなど山形県内唯一の馬産地だったそうです。ここからさらに北へ足を伸ばすと、古来馬産地としてあまりにも有名な南部藩(青森・岩手)へと連なりますし、これらの地域にある人馬同居の「曲屋」(曲り家)のことも何かの本で読んだことがありました。
さらに思い出すのは柳田國男の『遠野物語』に紹介されている「オシラサマ伝説」です。娘が馬と恋に陥り夫婦になってしまうという異類婚姻譚だったと思いますが、人間と馬が強い絆で結ばれ、家族同様に暮らす地域ならではの話だと思います。

もう少し続けます。②へ

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2023年11月 3日 (金)

震災遺構大川小学校

6日かけて、この10月中旬「みちのく」ひとり旅。
自家用車を使い、往復の走行距離 1900㎞ あまり。
それにしても2ペダルMTの車は、高速道路も山坂道も愛馬のごとくよく走ってくれた。

芭蕉さんの足跡を巡りながら山形県、宮城県そして岩手県まで足を伸ばしたが、目的のひとつに震災遺構の見学もあった。
とくに市町村単位では最も多くの犠牲者を出した石巻市(死者3187人、行方不明者415人)はどうしても訪れたかった。
女川港や震災遺構門脇小学校にも立ち寄ったが、ここでは石巻市震災遺構大川小学校を訪ねた時の印象だけを記す。

学校沿革やメッセージの記されたパネルはどれも心を打つ。
爽やかな秋空のこの日、遺構のなかをたくさんの赤とんぼが飛び回り、錆びた鉄筋や説明板に羽根を休め、あたかもガイド役のように「これを見て考えて欲しい」と訪問者たちに問いかけているかのようだった。
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行方不明者捜索の際に壊された教室の腰壁部分に残る鉄筋
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訪問した日の午前、遺構にいたひとは50名ぐらいであったかと思う。誰もが静かに遺構を巡っておられた。音といえば、10名ほどのグループに「語り部」のひとがゆっくり丁寧に話す声だけだった。
校庭に立ったとき、地震発生時から50分あまり学校に待機していた児童・教職員と避難してきた住民の方たちの姿や、やがて河川津波が襲ってくる方角にある三角地帯に向かって動き出した子どもたちの後ろ姿が、しぜんに目に浮かんできたのである。
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かつて同じような職場に身を置き、地域も校種も違うけれども、そしてすでにリタイアした身ではあるが、この場に立ってまず心のなかに湧き上がってきたのは、これまでに感じたことのない「悔恨」であり「憤り」であり、そして幾つもの「疑問」だった。
疑問のうち、現場を見なければわからなかったことの大半はこの日納得したけれども、最も大きな難しい問いは、やはり現場に立ったところで答えが出るはずもなかった。
「あの時もし自分がこの場にいたら、どう判断し行動しただろうか?」

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津波は校舎2階の天井に達していたことが確認されている。
すでに12年半の年月が経過し、遺構の劣化も懸念されるなか、ボランティアなどのひとたちによる保存・維持の努力が続けられているという。
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校舎南側にある裏山と擁壁。左奥に登り口がある。
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校舎南側の、その日もそしてその後も「議論」され続けた小高い裏山の、コンクリート擁壁の上に立ち、見学を終える直前にあらためて学校と付近の全景を眺めてみた。写真奥(北側)には河川津波が遡上してきた富士川・北上川が流れている。川と学校の間、そして写真右(東側)には住宅地などのひとびとの生活の場があったが、現在はハウス栽培施設になったり更地になっている。
この大川地区で亡くなった方は418名とのこと。
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津波到達箇所は、人の立っている擁壁の下にある矢印の掲示板あたり。Rrdsc01061_20231103025401

この裏山には、襲ってくる津波からかろうじて逃げることのできた児童4名・教職員1名、その他に住民・河北総合支所職員10数名が避難した。
この児童4名のうち2名について『大川小学校事故検証報告書』は次のように記す(87頁)。

校庭からの三次避難中、児童2名は、津波を目撃して来た道を戻り、正面にあたる山の斜面を登ろうとした。うち1名は、斜面を数メートル登ったところで振り返り、水が押し寄せてくるのを見てさらに登るべく再び斜面側を向いたところで、後ろから押し倒されるように津波にのまれて気を失った状態で半分ほど土に埋まった。もう1名は、津波に巻き込まれながらも水面に出ることができ、ちょうど流されて来た冷蔵庫に舟に乗るようにして入った。冷蔵庫が波に流されて山の斜面にたどりつき、斜面に降り立ったところ、付近に半分ほど土に埋まった状態の児童がいたため、負傷していたにもかかわらず、土を掘って助け出した。助けられる側の児童も、自力で土を押しのけて起き上がった。」

当時の全校児童数は108名、欠席や保護者に引き取られた児童を除いた77~78名が校庭にいたといわれる。
この事件は学校管理下で起きたこれまでの最大の犠牲者数を出した。犠牲となった児童は死亡70名、行方不明4名(2023年7月現在)、犠牲になった教職員数は校庭にいた11名中10名とされている(小さな命の意味を考える会/大川伝承の会編集発行の冊子「小さな命の意味を考える」第2集等による)。

答えの出ないあの難しい問いは今も胸のなかにあるし、これからもあり続けるだろうと思う。けれどもここへ来てあらためて肝に銘じたことは、危険に直面したとき躊躇せず素早く命を守る行動をせよ、というあまりにも当然すぎる命題だった。

遺構をあとにしながら駐車場へ向かうとき、むかし父の取ったある行動を思い出した。
小学生のころ、夏休みに母の実家にいたとき、昼間大きな地震があり、縁側で隣に座って涼んでいた父が、揺れと同時に間髪をいれずわたしの上に覆い被さってきたときの、まったく信じられないような素早い動きのことを。

★参照した主な資料

裁判→参照・ダウンロード先
 ★平成26年(ワ)301 国家賠償等請求事件
  平成28年10月26日 仙台地方裁判所
 ★平成28年(ネ)381 国家賠償請求控訴事件
  平成30年4月26日  仙台高等裁判所 仙台地方裁判所

〇大川小学校事故検証報告書 平成26年2月
 (→参照・ダウンロード先

〇「小さな命の意味を考える」 
  第2集 宮城県石巻市立大川小学校から未来へ
  2023年8月20日第6版(→参照・ダウンロード先

〇その他(下記の遺構の展示説明等)
 ・石巻市震災遺構門脇小学校
   震災遺構(本校舎)、展示館(特別教室)
   展示館(屋内運動場)
 ・石巻市震災遺構大川小学校と大川震災伝承館

 *石巻市震災遺構HP(→参照)  

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2023年9月 1日 (金)

那谷寺(なたでら)

空を見上げると、すでに高層にはねばりのない秋雲が流れている。夕刻日陰に入ると、肌に当たる風にもやや秋の涼しさを感じる。

『おくのほそ道』の芭蕉が金沢に着いたのはちょうど今頃、旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)であった。そして金沢から小松にいたるまでに「秋の風」をテーマとして四句掲げている。その三句目、四句目。

あかあかと日はつれなくも秋の風

しをらしき名や小松吹く萩薄

その小松を訪れたあと芭蕉は山中温泉にしばらく逗留するが(ここで曽良と別れる)、請われて再び小松へ戻っている。その戻り道で「那谷寺」に立ち寄ったのである。しかし『おくのほそ道』の記述は、小松から山中温泉への途上に「那谷寺」へ参拝したことになっている。

石山の石より白し秋の風  

那谷寺の開創は8世紀であり、元は「岩屋寺」といわれた。その後「那谷寺」と呼ばれるようになった経緯と寺内の奇石について芭蕉はこう記す。

花山の法皇、三十三所の巡礼遂げさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとや。那智・谷汲の二字を分かちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

芭蕉も見た奇岩霊石は今「奇石遊仙境」と名付けられている。
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境内にある芭蕉の句碑(左:1843年建立)と翁塚(右)。
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芭蕉が「萱葺きの小堂」と記した本殿(大悲閣)。16世紀に寺は荒廃したが、本堂は1642(寛永19)年に再建され、さらに1949年に解体修理されている。本尊は十一面千手観世音菩薩で、芭蕉の説明とは異なり花山法皇の時代以前から納められている。この階段左側が奇石に接している。
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名勝の書院庭園・琉美園よりも、むしろ本堂へ続く参道沿いの杉並木と苔が今も印象に残る。暑い日ではあったが、苔の絨毯に差し込み揺れる木漏れ日と樹影の織りなす景象に、当日の参拝者で立ち止まらないひとは誰もいなかった。
できることなら季節ごとに訪れてみたいと思ったのである。
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〇写真:8月5日撮影
〇新版『おくのほそ道』潁原退蔵・尾形仂 訳注 角川ソフィア文庫

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2023年8月27日 (日)

再びの「雪の科学館」

今月初めに北陸の芭蕉ゆかりの地を巡ったことは先日記事にしたが、加賀市に立ち寄ったときどうしても再訪したいところがあった。それはこのブログをはじめたころに記した(→★)中谷宇吉郎の「雪の科学館」である。そのときの記事(2017年)は彼の『雪雑記』にあった体験と自分の幼少期に体験した雪の思い出を重ね合わせて書いたものだった。

はじめて「雪の科学館」を訪れてから約17年の歳月が過ぎた。2006年に写した携帯電話の写真をもういちど見てみる。
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そして下が今回同じような位置から撮ったもの。
手前にある大きく生長した樹木が年月の移り行きを語っている。
風景を眺めながら17年前の自分を振り返り、この間何事も無くこの木がここにあること、科学館が変わらない姿であることに安堵もし、そういえば、館の設計に携わった建築家磯崎新が昨年末に旅立ったことも思い起こしたのである。Lllkkkdsc00538
 「中谷宇吉郎 雪の科学館」20230806 石川県加賀市

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2023年8月11日 (金)

鶴仙渓

絶え絶えに温泉の古道や苔の花  大島蓼太  *温泉(ゆ)

先週のこと、『おくのほそ道』を辿ろうと思って小松市、加賀市、福井市を巡った。この春には新潟へも足を運んでいるので、ひとまず北陸の芭蕉の足跡は金沢市内を除いてほぼ辿ったことになる。
もちろん今回も気楽なひとり旅。
まずは山中温泉の「鶴仙渓」を歩いた印象記。

『おくのほそ道』の芭蕉は、金沢を経て小松に赴き、その後「山中の温泉(いでゆ)」に向った。「曾良随行日記」によれば七月廿七日から八月五日まで、芭蕉は山中温泉に九泊十日も滞在している(その後もう一度小松へ戻っている)。
杖を置いたのは「泉屋久米助」方。今は泉屋のあったことを示す碑(↓)があるだけだが、すぐ前には古くからの湯元である「菊の湯」が見える。むかしはここが総湯(共同浴場)であり、内湯はなかったとのこと。
「菊の湯」の名は芭蕉のこの句によるものらしく、芭蕉さんの力にあらためて感服するのみ。

山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ 

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この温泉地の東を流れる大聖寺川の渓流を芭蕉が散策したことは曽良の日記にも記されている。
温泉街の北の「黒谷橋」から河原に降り、遊歩道を南へ下がって「こおろぎ橋」まで歩いた。約1.3㎞。実は着いた日の夕方と翌日の早朝も散策したのだった。
渓流なので少しは涼しいだろうとの期待は見事に裏切られた。台風接近で北陸はここしばらく猛暑続き(昨日10日は小松が40℃を記録)。ただし苔マニアのひとにとっては、一日中歩いても飽きないだろうとは思った。素人ながら、苔の種類が豊富なのにはちょっと感動。もちろん青森の北入瀬や北八ヶ岳白駒池周辺の苔の森のような風景には及ばないけれども、温泉街から気軽に立ち寄ることができるし、その渓流美は変化に富んで趣があり好ましい。春や秋はひとでいっぱいかもしれない。

〇黒谷橋(大切な誰かと待ち合わせをしたい気分にさせる・・・(*'-')
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〇遊歩道の始まり
 中央を登ると東山神社。右の芭蕉堂へ進むと渓流沿いの遊歩道。
 左に見えるランプはレトロカフェ「東山ボヌール」。
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〇東山ボヌールさんで頂いた鶴仙渓の案内パンフ。
 左が「モジャモジャマップ」(苔など植物の情報マップ)
 右は「鶴仙渓ワンダーフォーゲル」(ガイドマップ)
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〇東山ボヌール →★HP
 レトロカフェ。元は旅館だったとか。
 この日は散策前に予約。「森のケーキ」でカフェ。2階席でよかった。
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〇芭蕉堂(明治末の建立)
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〇遊歩道
  苔、シダの種類が豊富で、こうした場所は珍しいとか。
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〇ゆるやかな流れや淵もあれば、急な瀬もあって変化を楽しめる。
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〇あやとり橋(鉄橋)
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〇川床が見える。
 山中温泉町出身の道場六三郎氏監修のロールケーキが出るとか。
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〇遊歩道から見上げた「こおろぎ橋」
 大昔、同名のTBSドラマでも有名になった。
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〇こおろぎ橋(何度も付け替えられている総檜の美しい橋)
 でもわたくしとしましては、
 やはり黒谷橋の渋さに軍配を上げます\(^^ )
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忘れていたが、資料館「芭蕉の館」のことや句碑のことはまたいずれ。次回は「那谷寺」か。

 

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2023年6月14日 (水)

一茶の里

名月や乳房くはへて指さして    織本花嬌

名月をとつてくれろと泣子哉   小林一茶

この四月に上越(市振、親不知、上越市)、北信濃(信濃町、高山村、坂城町、上田市など)を訪れました。やはりひとり旅でしたが、前回記事五月の上越(出雲崎など)と違い、自家用車で広範囲を回りました。

今回はとくに一茶ゆかりの高山村を訪問した印象を記します。

先日藤井聡太さんが名人のタイトルをとった「藤井荘」(山田温泉)のある高山村は、実は小林一茶が北信濃の俳諧活動で重要な拠点にした所でした。その高山村に「一茶ゆかりの里 一茶館」があります。訪問した四月十二日はあいにくの空模様でしたが、入り口前にある満開のしだれ桜が風に揺れながら「どうぞどうぞ」と招き入れてくれました。
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一茶館(長野県上高井郡高山村高井) 20230412

もちろん一茶の故郷柏原(信濃町)には「一茶記念館」があり、遺蹟や多数の句碑もあって、前日に何か所か立ち寄りました。でもそれらよりこの高山村の「一茶館」は、今もなぜか強く心に残っているのです。
地元のひとたちが大切に受け継いできた一茶の遺墨や『父の終焉記』をはじめとする資料の数々、金林喜多呂の愛らしい木目込人形による一茶生涯の展示、現代に至るまでの一茶研究の流れなど、質の高い、それでいてわかりやすく親しみを感じる記念館でした。

家族や親族のことで何かと不運、苦労の多かった柏原の一茶でしたが、頻繁に通ったここ高山村では伸び伸びと俳諧活動に専念できたようにみえます。村の門人久保田春耕の援助もあり、彼の父の離れ屋を提供され活動の拠点にしたそうです。その茅葺きの離れ屋は本館近くに解体・修繕・移築されており、建築物としても見応えがあるものでした。居心地がよくて一茶館ではずいぶん長い時間を過ごしました。
予定時間を大幅にこえてしまったため次の訪問地は翌日に回すことになりました。

ところで一茶が自身の俳圏拡大につとめたのは信州だけではありません。実は40歳を過ぎたあたりから本所深川に住みながら、江戸川・利根川周辺(流山、守谷、取手、成田、銚子など)や内房(富津、木更津など)へ巡回指導を行っています。
機会があれば、流山の「一茶双樹記念館」(秋元双樹屋敷)、冒頭句の織本花嬌(一茶憧れの女性俳人)が眠る富津の大乗寺などへも行ってみたいと思いました。


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離れ屋(一茶館) 奥の小部屋の丸窓が印象的 20230412

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信濃富士(黒姫山) 信濃町柏原「一茶記念館」前にて 20230411

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2023年6月 4日 (日)

良寛の里

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 出雲崎:良寛堂(生家橘屋跡地)の良寛像 20230510

五月中旬三泊四日で良寛や貞心尼ゆかりの地をひとりで巡りました。
道の駅や史料館などに車を置き、歩きながら、ときには車載の折り畳みミニベロで動き回り、柏崎、出雲崎、寺泊、分水(国上山・五合庵)、与板そして遷化の地の和島など、良寛や貞心尼の足跡を辿りました。
事前にわかってはいましたが、寺社、公園などに良寛の詩碑や彼の像がとても多いことにあらためて驚きました。さらに良寛の遺墨を展示する記念館(史料館・美術館)が何か所もあり、まさに良寛の里と呼ぶにふさわしいところばかりでした。

以下、旅したなかで印象的だったことを幾つか。

四日間とも晴天に恵まれたことは幸いでした。現地に行ってはじめてわかったのは、出雲崎、与板、和島では各所を巡るのに自転車がとても役立ったことでした。道を尋ねることが何度もあったのですが、歩きよりなぜか自転車だと気軽にひとに声をかけることができて移動の手段としては最善だったと思います。
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 良寛堂:良寛像はこの堂の向こう側にある。

あるお寺さんで碑の写真を撮っていると、清掃中にもかかわらずお庫裏さんが良寛詩碑の解説資料をわざわざ探して持ってきていただいたり、今年は雪が少なかったのに春先の重い雪で裏山の桜の木が倒壊した話など、お寺を維持する苦労話なども聞くことができました。道中でお話しできたどの方もやさしい目をしておられたのが印象的で、ひょっとしたら良寛が接していた当時のひとびとの末裔の方もおられたのではないかとさえ思いました。また分水良寛史料館では館長さんから遺墨について直接貴重なお話を聞くことができ、よき思い出となりました。

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「鄕本空庵跡」近くの海岸から佐渡島遠望 20230512

海をゆっくり眺めるのはほんとうに何年ぶりかのことでした。でも晴れていても佐渡島はいつも見えるわけではありませんでした。ようやく旅の三日目に寺泊や近くの「鄕本空庵跡」に立ち寄ったときに初めて佐渡島の全貌を遠望できたのですが、山には名残の雪も見えていました。良寛もときおり母が生まれたこの島を眺めていたのでしょう。
その他に海や町並みを眺望できる心に残った場所は、出雲崎の石井神社と良寛記念館側の公園、寺泊の照明寺などでした。けれどもこの海や土地のこと、いや良寛のことをさらに知るためには、実は冬こそ訪れるべき季節かもしれない、そんな思いが頭を過りました。

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守門岳:与板の「楽山苑」から遠望 20230512

訪れたどの所からも北に弥彦山、東に残雪の守門岳が遠望できました。ほとんどの田はすでに田植えが済んでおり、米どころならではの広々とした田園風景が広がっていました。今回の旅の拠点(泊地)は長岡市でしたので、北越戊辰戦争の舞台となった場所に開設された「北越戊辰戦争伝承館」も訪れたのですが、戦禍に巻き込まれた村の様子、戦闘の全貌がわかりやすく展示されており、史料等を館に提供された地元の方の熱意も伝わってきました。

調べてみると良寛の遷化は1831年のことであり、明治維新までそう遠くない時代に彼は生きていたのです。ずいぶん昔の人だと思っていた良寛が急に自分の傍らに座っている気がしてきました。しかも晩年の良寛と深い交わりのあった貞心尼が亡くなったのは明治5年のことでした。Ggdsc08165
 閻魔堂(貞心尼草庵):長岡市福島町  20230509
 ブロンズ像は昨年(2022年)4月に建立されたという。

 

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