歴史・郷土史・戦記

2022年8月15日 (月)

犬山の空襲(4)

(承前)
岐阜空襲や名古屋空襲などは以前に少し調べたことがあった。しかし自分が住んでいる場所からそう遠くないところにある身近な施設が、戦時中に米軍側の攻撃すべき対象としてリストアップされ、何度も攻撃を受けていたという事実は全く知らなかったのである。
もちろん大規模な施設ではないし、ここだけを攻撃目標にして空襲したわけではなかっただろうが、犬山変電所への第1回目の攻撃のあった1945年6月9日には、市民の体験談にあるように今の犬山市に該当する地域が機銃による攻撃を受け、けが人があったり火災も起きていた。

このちょうど1か月後の7月9日深夜から10日にかけて岐阜空襲があり、米軍機の焼夷弾は父の実家を焼失させた。そして当時郡上八幡で働いていた17歳の母(となるひと)はその空襲の夜、近所のどよめきに目が覚め宿舎の外へ飛び出した。「真っ赤に染まった南の空を眺めながら体が震えたんだよ」と母は幾度も話をしてくれたのだった。
きのう久しぶりに変電所の周囲を散歩しながら、そんな母の話を思い出していた。
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2022年8月13日 (土)

犬山の空襲(3)

(承前)
米軍の攻撃目標とされた犬山変電所は、木曽川水系で発電された電力を名古屋地区だけでなく、むしろ関西地区へ供給する重要な役割をもっており、その送電ラインは当時も現在も大阪の変電所(八尾など)へつながっている(なお八尾変電所のある八尾市は度々空襲を受けており、2013年には変電所で戦時中の不発弾が発見されている)。その意味で愛知県内の幾つかの電力施設のなかでも、犬山変電所は米軍にとって戦略上重要な場所のひとつであった。

犬山変電所への攻撃について知るため、USSBS(米国戦略爆撃調査団)の報告書の一部を眺めてみた。電力関係の専門用語が多く出てくるので正確に解釈できない箇所も多いが、概略は理解できる。
その資料は以下のAとBの二つである(どれも国会図書館のデジタル資料として簡単に閲覧できる)。

The Report for Damages  by Air Force at Inuyama Sub-station
 (October 1945 Inuyama Substation)
この資料は英文手書きで、用紙は「日本發送電株式會社」の文字が入っている。犬山変電所への4回の攻撃毎の損害状況、1942~1945年の電力供給推移のグラフ が記されている。米軍側が現地で聞き取りした際の一次資料であろう。 

USSBS THE ELECTRIC POWER INDUSTRY OF JAPAN
 (Plant Report)
 〈Erectric Power Division Dates of
 Survey 9 October--3 December 1945

  Date of Publication:May 1947〉 
これは米軍の爆撃・攻撃が日本全国の火力および水力発電施設や変電所へ与えた損害などに関する最終的な報告書である。犬山変電所の状況(解説は131~132頁、表と写真は137~140頁)についてもA資料をもとに整理され、わかりやすくまとめられている。

犬山変電所への米軍機による攻撃は、両資料によると以下の4回(4日)であった。いずれも1945(昭和20)年6月から8月であり、7月30日には機銃だけでなく爆撃もあったという。

①6月9日午後12時56分:1機のP-51による機銃攻撃
②7月15日午後1時05分:2機のP-51による機銃攻撃
③7月30日午前7時35分:4機のP-51による爆弾投下と機銃攻撃
④8月14日午後12時53分:2機のP-51による機銃攻撃

①、②、④は、犬山変電所を攻撃した戦闘機の正式な報告・記録は無いとのことであるが、たとえばB-29の掩護機としての硫黄島のP-51が帰還航程で行った攻撃、あるいはP-51の戦隊のみで行った各務原や名古屋周辺への攻撃の一環だった可能性がある。ただし③については、日本側の現場職員からの聞き取りではP-51(陸軍機)と報告されたのだが、実はそうではなく海軍機(艦載機)だった可能性を示唆している。理由は当日名古屋周辺の4箇所に攻撃を行った海軍機の記録があったためである。
下は、B資料の140頁にある犬山変電所の写真である。木枠に砂を入れた「防爆壁」が変圧器等の周りに設置されており、変電所としても米軍の攻撃から施設を守るための対策をしていたことがわかる。
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これら二つの報告書には、機銃攻撃などによって施設にどのような損害があったのかが攻撃の日毎に詳しく調査されているが、すべてを記すのは煩雑になるので、一例として①の攻撃の被害だけをみる。この日は前々回(1)の記述にもあったように、現在の犬山市に該当する何箇所かの地域で銃撃による損害が出ていた日である。

①1945年6月9日午後12時56分攻撃。1機のP-51の機銃による損害。
〇1次被害:送電線2本の断線、東側変電所の壁・戸・窓に計15カ所の弾孔(壁の弾痕は22カ所)、変圧器1器損害、変流器1器に1弾孔
〇2次被害:変圧器1器(高電圧による短絡〈ショート〉)

これら被害の聞き取りをされた変電所職員は、攻撃のあった日毎に細かな被害状況を記録していたのであろうが、とくに弾痕や弾孔の数までもが記録されていたことに少々驚いたのである。
4回の攻撃全体をみると、施設の各箇所に毎回損害を与えてはいるが、変電所全体を壊滅的に破壊するほどのものはなかった。しかし4回目の8月14日の攻撃の結果、主変圧器を修理する必要が出たため、東側の変電所施設は機能停止となったという。
なお報告書では、機器や施設の損害は記録されているが、職員などの人的被害についてはとくに何も記されていない。
次回(4)は最終回。

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2022年8月 3日 (水)

犬山の空襲(2)

(承前)
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上は米軍の資料「空襲目標情報」(Target location sheet)にある犬山変電所の航空写真(大小2つのスケール)である(出典::Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 47, Security-Classified Joint Target Group Air Target Analyses, 1944-1945 = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 空襲目標情報 123コマ目)。

現在の地図で確認する(拡大縮小可)。

空襲当時の施設名は、米軍資料では「日本發送電株式会社(1939-1951)犬山変電所」であったが、現在は「関西電力送配電株式会社犬山送電センター」である。なお地図を拡大するとわかるが、隣接して西側に「中部電力パワーグリッド羽黒変電所」が併設されている(長野・岐阜の木曽川本流の発電用水利権は長野県内の支流も含めすべて関西電力が持っている)。
さらに、敗戦後すぐではないが、1947年に米軍が撮影した犬山上空からの写真(トリミング加工したもの)も下に載せておく(拡大可)。現在と違い、とくに変電所近くの西側や北側には集落が無く、田園地帯が広がっていることがわかる。(写真は国土地理院航空写真:米軍撮影昭和22年10月13日 19471013USA-M550-1-78 をトリミング加工したもの。)

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次の写真には、変電所とともに右端後方に尾張富士が写っている。

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この写真は敗戦後間もない頃(1945年末か)の犬山変電所であり、これを含む何枚かの写真は、「米国戦略爆撃調査団(USSBS)の報告書」のひとつ『Electric Power Industry of Japan』(1947年5月)に掲載されている。
このUSSBSの調査期間は1945年10月から12月であり、報告書は、日本の発電および電力供給施設について、戦争中に米軍による攻撃がどのような効果・損害をもたらしたかをまとめたものだった。
次回以降、上記報告書も含め幾つかの米軍資料をもとに、当時の犬山変電所への4回にわたる米軍攻撃の概略をみることにする。

なお下は現在の変電所の写真。撮影の高さは違うが、右端に尾張富士が写っているので上掲米軍写真と比較できる。
2022年8月3日撮影(犬山市立東小学校南の農道より)
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2022年8月 2日 (火)

犬山の空襲(1)

呑水の記事はしばらく中断。秋頃に再開。

毎年のことだが8月が近づくと、もうひとつのブログへのアクセス数が急に増え、コメントも幾つかいただくことがある。その大半は私の父の世代の孫にあたる方からであるが、戦地へ赴いた「祖父」について情報を探しておられる方が大半である。
また、幼い頃に祖父母から聞いた記憶のある空襲について記してくださる方も多い。私の父の実家を焼いた岐阜空襲(1945年7月9日)についても、以前記事にしたのでコメントも幾つかいただいたことがある。

ところで「空襲」に関していえば、名古屋、岐阜のように大規模なものは犬山にはなかったため、これまでほとんど関心はなかったが、最近になって少し調べてみようと思い立った。

まず『犬山市史』の通史編下を紐解いてみると、第1章の項目に「本土空襲」があり、1頁余りの記述の中に犬山への空襲(機銃掃射)について触れられていた。しかしその記述は『楽田村史』からの引用が大半であった(楽田村は現在の犬山市南部地域)。
そこで『楽田村史』を見ると、空襲に関する「日誌」(?)が20頁ほどあった。「Ⅴ 大東亜戦争米軍機空襲状況」の題目で、昭和17年7月4日から昭和20年9月2日までの空襲や出来事が日付入りで短く綴られている。〈しかしこの記録は誰(あるいは何か公的機関)が記録したものなのか出典がない。〉
この「空襲状況」のなかで犬山地域への空襲が初めて記録されたのは昭和20年6月9日のことであり、上記『犬山市史』の犬山への空襲もこの記録から引用されている。その6月9日の記述を下に引用する。

一、同年(昭和20年)6月9日午前11時半空襲警報あり 12時半頃より米機30名古屋へ侵入 熱田工場地帯爆弾投下消失 死者千余人あり 午後1時空襲警報あり2時小型機50機来襲犬山方面より東へ転向す 此時小型機各務原飛行場、犬山、五郎丸、羽黒等を機銃掃射す 内久保、久保一色等低空飛行スレスレ射撃内久保2戸、小林竹松、小島照一の2戸4棟をも炎焼、負傷者もあり『楽田村史』44頁

記述のとおり、この日はよく知られた名古屋の「熱田空襲」のあった日だった。このB-29による爆撃と関連するのかどうかは不明だが、小型戦闘機による機銃攻撃が犬山などにあったのである。文中下線部が現在の犬山市に含まれる地域であり、犬山市の南にある久保一色(現在の小牧市)への攻撃についても記されている。内久保地域への機銃掃射では建物が燃え、負傷者もあったことがわかる。

実は上記史資料のほかに犬山市への空襲について記された文献がある。
「学校史」以外のものでいえば、たとえば
〇犬山市役所総務部企画課発行
「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて」1995年
〇犬山市役所総務部企画課発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」平成9年
などであるが、これらのうち、「平和を願って」の中に、上記引用の6月9日の空襲について記したものがある。内容は上記引用の内容とほぼ同じであるが、それ以外に、五郎丸地区にあった陸軍被服廠軍靴製造工場が米軍機の機銃掃射を受け、その工場に学徒動員中の犬山高等女学校(現犬山高等学校)生徒78名が危うく難を逃れた話が載っている。

さて、以上の日本側諸資料に記された1945年6月9日の犬山地域などへの空襲(米軍小型機による機銃掃射等)について考えてみると、はたして米軍側は闇雲に、いわば無計画に犬山市への攻撃を行ったのだろうかという疑問がわいたのである。
軍事的要衝攻撃の帰りついでに米軍機は偶々犬山に立ち寄った・・・その程度の攻撃だったのだろうか?

そんなことを考えながら、米軍側の資料を探してみることにしたのである。
すると、今住んでいる自宅からわずか1㎞離れた或る「施設」(それは今も稼働している)が米軍にとって重要な攻撃目標のひとつであり、実際に少なくとも4回の攻撃を受けており、あの6月9日はその最初の日だった・・・。
時折散歩するとき視野に入る見慣れたあの施設なのだ。(2)へ
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2021年10月 6日 (水)

旗本徳山氏のこと⑤

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徳山氏陣屋跡(史跡旗本徳山氏更木陣屋跡:各務原市)
24/Sep./2021

5代徳山五兵衛秀栄(ひでいえ)については享保九(1724)年三月八日より本所の火事場見廻をつとめ、延享三(1746)年七月二十一日より仰せをうけて盗賊を追補す」(『寛政重修諸家譜』)とある。この盗賊を追補する役職は火付盗賊改方であり、当時幕府を悩ました盗賊団首領日本左衛門の捕縛(最後は自首)に関わったことなどが記録に残っている。なお秀栄の父である4代徳山重俊も元禄15(1702)年に同じ職に就いたことがあった。赤穂浪士吉良邸討入の年である。

秀栄は時代小説の主人公としてもよく知られている(『おとこの秘図』池波正太郎 )。日本左衛門のことや史実を巧みに織り込みながら物語にしているらしいが、その雑誌連載が1970年代末のことなので、ひょっとしたら父はこの小説を読んでいたかもしれない。それに父が遺した資料のなかには、徳山氏関連とは別に「火付盗賊改方」について詳しく調べたものがあり、たぶん自分の仕事のこともあってその役職に興味をもっていたのだろうと思う。

ここまで父のことにも触れながら、旗本徳山氏のことをメモしてきた。今まで自分が知らなかったことを中心に書いてみただけだが、あらためて気になったのは、徳山氏の本領徳山郷のことであり、今は消えてしまった旧徳山村のことである。父が昭和29年の徳山大火を見たのは、サイドカーの試運転を兼ねての巡回中に、村を一望できる峠道に差し掛かったときだったという。それはどこだったのだろう。

やっぱり徳山ダムに行ってみることにするか・・・

余談:
父のノートのなかに、火付盗賊改方の役に就いていた何名かについて簡単な履歴のメモもある。
たとえば徳山秀栄、長谷川宣以(平蔵)、矢部定謙、池田長発などである。
このうち平蔵はあまりにも有名だが、幕末に外国奉行として欧州にも派遣され活躍した池田長発(ながおき)は、数年前のTV番組で紹介された肖像写真(→★)のこともあって、ずいぶん話題になっていた。

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2021年10月 4日 (月)

徳之山稲荷神社

3代徳山五兵衛重政が本所に宅地を授かり屋敷をつくった場所は石原町だった。今の墨田区石原町1丁目あたりである。
『江戸切絵図』(*)の「深川絵図」をみると、屋敷は現在の「横網町公園」北東側の区画にあたり、屋敷の南側の道が今の蔵前橋通りになっているようにみえる。
現在の地図では「徳山五兵衛屋敷跡」の名称があり、徳山氏の宅地内にあった屋敷神を祀る「徳之山稲荷神社」が、かろうじてそこに屋敷があったことを示すよすがとなっている。さらにいつごろ作られたかは不明だが、「日本左衛門首洗い井戸跡」もあるらしい。ただしここを訪れたことがないので詳細はわからない。
次回は重政の孫にあたる5代徳山五兵衛秀栄(ひでいえ)をみる。(次回へ)
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(GoogleマップのHTMLをコピーして埋め込んだもの:スクロール可)

参考
(*)『江戸切絵図 本所絵図 嘉永新鐫
国会図書館デジタルコレクション
尾張屋清七, 嘉永2-文久2(1849-1862)刊参照
さらに「古地図 with MapFan」の地図サイトも参考にした。→★

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2021年10月 2日 (土)

旗本徳山氏のこと④

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陣屋跡から東へ500㍍ほど離れた村社の神明神社に着いた。

重政が寄進した石灯籠(市指定有形文化財)は、姿形をなぞるように丁寧に鉄枠で倒壊防止が施されている。灯籠側面の銘には、「奉寄進石灯籠 武運長久諸願成就祈所」の願文があり、「寛文五年(1665)」「武蔵国江戸作之」「敬白 徳山五兵衛家中」とある(重政の筆になるものか)。
ちょうどそのころ重政は「本所築地奉行」として本所や深川の開発を手がけていたときである。たぶんその事業が順調にすすむよう遠く美濃にある知行地の神にも願いをかけたのであろう。それにしても江戸からここまで灯籠を運ぶのは、船が使われたにせよずいぶん難儀なことであったにちがいない。

すでに奉納から350年以上経ているにもかかわらず、その年月の経過を感じさせない趣のある灯籠である。灯籠造り自体は職人の仕事だとしても、どういうわけか重政の人柄とか性格のようなものまで姿形に現れている気がしてくる。灯籠を職人に注文するとき、重政自身があれこれ細かく指示したのではないかとさえ想像してしまう。
重政は、もちろん仕事の面では才智ある有能な幕臣だったのだろうが、誰よりもあつい信仰心をもった人格者であったに違いない。
灯籠を眺めれば眺めるほど彼の立ち姿が目に浮かんでくるのである。
(次回へ)
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2021年10月 1日 (金)

旗本徳山氏のこと③

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父が残したメモのなかに旗本徳山氏の簡単な系図があり、3代目の重政と5代目の秀栄に鉛筆で丸印がしてあったがその意味はわからなかった。今回訪れた陣屋跡の説明板にも、3代重政はその役職名しか記されていなかった。

そこで、家に帰ってからまず重政のことを調べ直してみた。
重政は、本所や深川の町づくりを指揮した初代「本所築地奉行」だった。明暦の大火(1657年)後、都市計画の推進役として万治3年(1660)からその任にあたり、「本所の邸宅をわかちさだめ、あるひは道路をひらき、堀橋をつくることを奉行す。このとき亀戸天神を草創し、深川にをいて長慶寺を建立す」との記録がある(*)。防火・防災のために大名・旗本らの武家屋敷、町屋、寺社などを本所などへ移転させたり、掘り割り、埋め立て、架橋などをすすめて隅田川東部の土地開発や道路網の整備を取り仕切った。しかし1680年の台風・高潮の被害は甚大で、事業を断念するなど困難に直面したらしいが、その後事業は再開されて1688年からは武家屋敷の移転も始まっている。

ただしこの程度の調べでは、本所築地奉行としての重政の功績など詳しいことはよくわからなかった。けれども未曽有の事業に先鞭を付けたことは確かで、その苦労を思うばかりである。
重政は寛文10年(1670)に御勘定頭となっており、5将軍綱吉への代替わりの翌年天和元年(1681)に勤めをゆるされ、貞享3年(1686)には引退した。彼は森下の長慶寺の中興者とされており、寺は徳山氏の菩提寺ともなっている。そして現在の墨田区石原町に屋敷(あとで触れる)を拝領したのも重政の代であったという。

さて、陣屋跡の説明板に次のようなことが書いてあった。「重政は、幕府勤めの傍ら、石灯籠を江戸で造らせて西市場の神明神社へ奉納した人物として知られています
近くなので早速神社へ自転車を走らせることにした。(次回へ)

参考
*『寛政諸家重修家譜』第三百八巻 (修→脩)
⇒国会図書館デジタルコレクションの活字版を参照した。

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2021年9月27日 (月)

旗本徳山氏のこと②

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古い話になるが、戦後復員して3年後にようやく父が定職を得て、最初の赴任地となったのが岐阜県西部の揖斐郡だった。結婚生活が始まり、自分が生まれて2歳までいたところでもある。
仕事で揖斐郡内を巡回していた父は、徳山村にもたびたび足を運んだ。父にとっては忘れがたいところだったようで、とくにその現場を目の当たりにした1954(S29)年5月の「徳山村大火」のことをよく話してくれた。
父は徳山村についての新聞記事や資料の抜き書きをしたり、旗本徳山氏のことも図書館で調べていたようだ。徳山ダム建設に関する資料も残しているのは、徳山村がダムの底に沈んでしまうことをとても悲しんでいたからだろう(ダムのことはまたいつの日か)。

話を戻す。もともと戦国期の徳山氏は織田信長などに仕えていたが、関ヶ原で家康の東軍方につき、江戸幕府を支える約5千石の旗本(初代五兵衛則秀)として重用された。もちろん江戸に屋敷を構えてからは、当主が徳山郷や各務原の陣屋へ来ることは一度もなかったはずである。
やがて3代目の五兵衛重政が幕府の大きな仕事を任されることになる。(次回へ)
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旗本初代徳山五兵衛(則秀)の肖像
(各務原市西市場にある陣屋公園説明板の一部分)


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2021年9月25日 (土)

旗本徳山氏のこと①

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きのう岐阜市の実家に車を置いてサイクリングに出かけた。
といっても往復約35㎞で汗も出ず、準備運動程度でおわってしまったので不完全燃焼(できるなら昔巡った富山湾、浜名湖、渥美半島あたりでもう一度銀輪散歩したいなあ、などと夢見るのでした)。

さて、各務原市内の史跡や公園をいくつも回ったが、とくに「旗本徳山(とくのやま)氏陣屋公園」(史跡:旗本徳山氏更木陣屋跡)、そして西市場の「神明神社」が印象的だった。旗本徳山氏は、本拠地だった揖斐の徳山村だけでなく、この各務原の地にも知行地をもっており、江戸幕府の有力者のひとりだった。
これから数回、旗本徳山氏のことを少しメモしてみたいと思う。実は徳山村は父にとっても思い出に残る特別のところだったのである。

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