飛騨高山の記憶

2017年4月19日 (水)

飛驒一宮水無神社

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父の遺したネガフィルムの中に、大雪の日に撮影された神社の写真があった。フィルムの状態は良くないし月日もわからないが、ネガ入れには昭和31年ごろとある。調べてみると、「飛驒一宮水無神社」だとわかった。右側に大杉が写っている。正面には肩に長いものを担いで歩いている人がいるが、それが何なのかはわからない。こんな雪の日に家族で神社に行くはずはないので、仕事中に撮ったのかもしれない。
最近知ったのだが、今年の5月3~6日、「飛驒一宮水無神社」の大祭が57年ぶりに行われるという(日枝神社の式年大祭については、以前に写真を載せた)。飛騨の各神社で行われる「大祭」の起源は、水無神社にあるらしく、HPにも詳細が記されている。

水無神社といえば、思い出すことがある。
晩年になって父が『夜明け前』を熱心に読んでいたことである。日頃小説の類いは手にしない父だったが、なぜかこの本だけは長い時間をかけて読んでいたようで、幕末・明治維新の細かな年表までつくったりしていた。国学や王政復古、明治維新への関心からだったのかもしれない。『夜明け前』の主人公青山半蔵は藤村の父正樹がモデルであり、彼は明治の初めに水無神社の宮司をしていたことがあって、小説にもそのことは記されており、神社には彼の歌碑もある。

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2017年4月 2日 (日)

高山別院本堂再建募金

家族が高山に来たのは1955(昭和30)年の10月である。
この年の12月末、高山別院(照蓮寺)の本堂が全焼した。父の回想によると、その日の夜は寺の近くで忘年会があり、火事のことを知って、すぐ駆けつけたそうだ。小雪降る中、火勢は増し、やがて太い火柱が上がると本堂が一気に焼けてしまったという。近所の人々が集まり、焼け落ちた本堂に向かって手を合わせていたそうだ。
火事と言えば、翌年の夏には、高山高校、斐太高校の二校が連続放火によって同じ日に焼失している。これも父にとっては強く記憶にあるとのことだった。

さて、写真は宮川の鍛冶橋東にある安川交番(当時は派出所?)の前を写したもの。前回紹介した二十四日市の写真と同じフィルムにあるので、おそらく1956(昭和31)年1月24日だと思われる。初めて見るネガである。
最初の写真では、交番前で傘をさし、何かを通行人に訴えている人がいる。幟などには、「高山別院本堂再建募金」「本堂再建托鉢」の文字が見える。もし、写真が昭和31年撮影で間違いなければ、焼失から1か月後の募金活動の様子だと思われる。右端には公衆電話ボックスがある。

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この写真は安川交番を正面から撮っている。屋根から長いつららが伸びている。現在の交番は周りの景観に配慮した姿に変わっており、屋根は大きくなっているが、どことなく当時の面影を引き継いでいるようにも見える。
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(現在の安川交番はこちらを、高山別院の火事の様子はここ ご覧ください。なお、火事の様子を写した写真には、「カメラの大井」の看板が見えます。奇しくも上の写真のネガ入れは、鍛冶橋詰のカメラの大井のものでした。最初の写真の電柱にも大井の文字が。)

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2017年4月 1日 (土)

二十四日市の写真

毎年1月24日には、高山で「二十四日市」が開かれる。
明治の初めに始まったという。農家の冬の収入を助ける市だったのだが、今は観光客にも人気だそうだ。高山の冬の風物詩として続いている。
「小屋名しょうけ」や「宮笠」、「有道しゃくし」などは今も売られているらしい。「しょうけ」は米や豆などを洗ったあと、片口から釜に移すときに便利だ。当時はどの家庭にもあったが、今は見ることはなくなった。「有道しゃくし」は白洲正子が杓子の王様と褒め称え、有名になった。

父が遺したネガの中に「二十四日市」の様子を写したものが2枚あった。前回のものと同じく、初めて見る写真である。
昭和31年の写真だと思う。二十四日市の日は雪が降ると昔からいわれているらしい。小雪降る中、男性が路上に広げた「小屋名しょうけ」などのザルを売っているところだ。左写真の左下のザルには口があるのがわかる。建物には「ツチノ商店」の看板も見える。場所は本町通りか安川通りかわからないが、右の写真からは、かなり幅の広い通りのように見える。
こんな雪の日の夜、家族で足繁く通った映画館からの帰りに、竹製のスキー板を買ってもらった。通りを滑りながら家に帰ったときのことは、昨夜の出来事のように蘇る。

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2017年3月31日 (金)

日枝神社式年大祭の写真

20fff_2       昭和33年5月 飛騨山王宮 日枝神社 式年大祭

飛騨高山で暮らしたことがある。2歳から6歳までの5年間だった。
1955(昭和30)年から1960(昭和35)年のことになる。
父の仕事のために県内を転々と移り住んだが、5年間も滞在したのは高山だけである。私にとっての「記憶」は、高山から始まったともいえる。父も高山を「第2の故郷」だと語っていた。

父が撮った高山時代の写真(数は少ない)を、何回かに分けて紹介しようと思う。アルバムには無かった写真なので、私も初めて見る光景ばかりである。ネガを自宅でスキャンしたので画質は良くないが、6×6版に助けられた。
上の写真は、昭和33年5月に行われた日枝神社の式年大祭時のもの。小さな日傘をかざす和服の少女など多くの人たちで賑わっている。
左端に写っている幟。文字は「黄鶴臺(台)」(おうかくだい)ではないだろうか。気になったのでこれから調べてみたいと思っている。
下の写真は、「神楽台」。山車の列では先頭をつとめる。4歳の私もこの大祭に行ったのだろうが、ほとんど憶えていない。
例祭のときに行列に加わったような覚えはあるが、それよりも撞木でたたく鉦の音の記憶のほうが、懐かしく鮮明である。闘鶏楽「カンカコカン」。
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