俳人 内藤丈草

2023年3月 6日 (月)

呑水(5)

(承前)
承前といっても、「呑水」のことを記事にしたのは半年以上も前のこと。今さらという気もするが、中途半端は嫌なので書き足しておく。
振り返ると、『犬山市史』の「呑水」について書かれた林輝夫の文章のことから始め、彼が『艸ほこ』(呑水)の翻刻をしたことや美濃加茂の俳誌『自在』を主宰していた西田兼三との交流のことなど、幾つかの事柄(断片的事実)を繋ぎ合わせながら記事にしていたのだが、肝心の呑水そのひとについては(2)で墓碑や生涯などについて軽く触れただけだった。

まだあまり触れていなかった彼の句や『艸ほこ』、そして追悼集『蓮の実』のことについて最後に少し記しておく。

〇彼の句。
前に記したものを含め、あらためてそのいくつかを見る。

梅散るや浅黄布子の洗ひ時   「矢矧堤」

手のひらで雨をしる夜の水鶏哉 「菊の香」

朝経にまけじまけじと蝉の声  「砂川」

鬼松の影やはらりと夏の月   「東華集」

人気なき雨の匂いや梅山椒   「渡鳥集」

 辞世
蓮の実の十方にとんであそびけり

意味のよくとれない句も多いなかで、自分にとって比較的わかりやすい句だけを少し拾ってみたが、もちろん句を評することなど自分にはできない。ただし名古屋の情妙寺で碑になっている「手のひらで」の句は気に入っている。

〇彼のいくつかの文章を集めた『艸ほこ』。
林がその一部「蜂屋へ紀行」を翻刻した『艸ほこ』には、他に内津(今の春日井市内津)への旅(遠足)や丈草から届いた手紙などが記されている。しかし翻刻できるような力は自分にはないので、いったい何が書かれているのかは今のところほとんどわからない。

〇呑水の追悼集『蓮の実』。
国文学研究資料館からその写しを送ってもらった。「序」が楚竹、「封塚辞」は犬山妙感寺の日長、「跋」は犬山出身の馬州が書いている。
二つ目の日長の文章には、呑水の遺言として「骨は源頂山におさめ、生前の抜歯を一翁山に贈るべし」と記している。したがって以前の(2)にある碑の写真のように、かつて住持であった犬山の一翁山妙感寺には「歯塚」が建てられたのである(馬州の跋では、呑水の「朝起の癖」にまつわる思い出話が書いてあった)。なお作句者をみると、地元尾張だけでなく近江、飛騨、伊勢、さらには奥州や九州のひともいる。僧侶であり俳人でもあった呑水の人柄を慕うひとはずいぶん多かったのだろうと思う。

それにしても気になるのは、『艸ほこ』に収められている呑水宛ての丈草の手紙である。

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    呑水(遠光院日陽聖人)の歯塚背面 
     [犬山・一翁山妙感寺 2022年]

参考:
〇なぎの舎随筆Ⅰ
「尾北俳諧覚え書」市橋鐸 私家版 昭和45年
〇『蓮の実』 呑水追善 楚竹編 享保十四年
〇『矢矧堤』については
『新編岡崎市史 13近世学芸』の翻刻参照
〇他の参考図書は「呑水(2)」に記した。

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2022年9月 6日 (火)

鈴木文拙と鈴木裕三

(承前)
話の流れでいえば、次に市橋鐸麿(鐸)を扱うべきだが、彼についてはいつかまた触れる。
これまで『市史』に紹介されている鈴木家7人(市橋を除き6人)について、現在の墓碑の様子などを見てきたが、ひとまず今回で終わる。

鈴木家の分家について。
江戸時代のおわり、10代玄道(維馨)のあとに鈴木文察が分家を興している。文察も本家同様成瀬家の家医であった。鈴木文拙は文察の嫡男として文政7(1824)年に名古屋で生まれた。名は鐸。
地元での学問修業だけでなく上洛して蘭方や漢学を学んだ。1850年に名古屋に戻って文拙と名乗り家業を継ぎ、維新後は犬山(高見町)に帰って医業だけでなく教育にも力を入れ人々から慕われた。明治30(1898)年に78歳で没したが、その遺徳を偲び記念碑が明治37年に建てられている。

妙感寺にある墓(左写真)。碑銘は「沈蔵坊文拙俟庵醫(医)士」。
針綱神社に建てられた記念碑「鈴木文拙先生紀年之碑」(右写真)。
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文拙の嗣子として明治元(1868)年に名古屋に生まれたのが鈴木裕三である。海軍軍医として活躍し、舞鶴海軍病院長 兼 舞鶴鎮守府軍医長、呉海軍病院長 兼 呉鎮軍医長、さらに軍医総監、海軍軍医学校校長、海軍省医務局長など要職を歴任し、大正14(1925)年8月8日、54歳で没した。海軍軍医中将。
東京多磨霊園墓地に墓があるが、犬山に眠る父文拙の墓の横にも遺骨が葬られている(妙感寺・鈴木家累代之墓)。


鈴木寂翁から今回の鈴木文拙・鈴木裕三までの6回分
で参考にした文献

〇『犬山市史』別巻 文化財 民俗 昭和60年
〇『尾張国丹羽郡犬山鈴木家文書解題
 この解題は下記の文書(201~204頁)にある。
  国文学研究資料館 資料目録第92集 
  愛知県下諸家文書目録(その1)平成23年
  *国文学研究資料館データベースのURL→★
〇その他に人名辞典などを参照したが書名は省略する。  

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2022年9月 5日 (月)

鈴木敏也

(承前)
本光寺にある鈴木家本家の墓群に第14代鈴木敏也(1888-1945)の墓がある。戒名は「文香院梛居敏也大居士」。墓石の背面に弟の市橋鐸麿(鐸)が兄のために顕彰の碑文を書いている。

居士は尾張犬山の医家に生れて国文学に志し東京帝大に学び廣島高師同文理科大学教授となり近世文学の探究に生涯を捧ぐ 原爆投下の晩冬学長に就任せしも宿痾のため任地に逝く 主著を近世日本小説史二巻となす 
昭和丁酉之冬 家弟 市橋鐸撰併書

なお文中「学長に就任せしも」とあるが、原爆投下後しばらくの間は大学の機能が事実上停止しており、役職は学長事務取扱であった。
『市史』の敏也の項目には、医師となるべき運命を背負いつつも、教師や級友の力を借りて父親を説得し国文学科へすすんだことが記されている。3代寂翁以来の医家としての鈴木家の系譜は、敏也にも、そして弟の鐸麿にも引き継がれることはなかったのである。

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本光寺の鈴木家墓群にある鈴木敏也の墓。
昭和20年12月9日没。60歳。



 

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2022年9月 3日 (土)

鈴木玄道(豊)

(承前)
さて、このブログに取り上げる『市史』に記された鈴木家の7人は、系図上どこにいるのかを簡単に確認する。
没年による時代(世紀)区分でまとめる。

17世紀 初代一閑→2代一翁3代寂翁(玄察)
18世紀 4代卜仙→5代可節→6代玄道(直)
     →7代玄道(政方)8代玄道(博高/東蒙)
19世紀 9代玄道(恒久)→10代玄道(維馨)
     →11代玄道(凞)12代玄道(豊)
20世紀 13代光雄14代敏也→以下略

14代敏也の弟が丈草研究で知られる鐸麿(市橋鐸)であるが、医家としての鈴木家は3代から13代までであったという。
なお10代玄道(維馨)の子の代に分家した鈴木玄察、子の鈴木文拙、孫の鈴木裕三がいるが、この系譜はあとで詳しくみる。

『市史』に記された鈴木家の3人目は12代玄道(豊)である。
本町通りを城に向かって進むと旧福祉会館跡手前(交差点南西)に鈴木家の邸宅がある。庭(今は駐車場)の一隅には「鈴木玄道宅跡(本町)」と記された小さな立て看板があるが、
看板の説明はやや不親切であり、ここに記された玄道は12代玄道(豊)[没年明治11年]のことである。
若い頃は名古屋、江戸などへ遊学して医学、儒学、蘭学を学び、医業の傍ら村瀬太乙の前任となる敬道館教授も兼任した。明治になってからは一般の町人にも治療を施し、人望を集めたという。
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鈴木玄道宅跡とされている場所にある現在の邸宅。
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玄道(豊)の墓は夫婦墓として本光寺の鈴木家の墓群にある。
碑銘「紀水院韭(韮)郷日豊居士」。明治11年11月12日没55歳。
なお豊は妻に早く死別している。後妻を娶らず娘と二人暮らしであったが、養子を貰って家督を継がせた。
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また犬山城内には七周忌の秋に門下のひとたちによって記念碑が建てられた。この記念碑題字は成瀬家9代正肥(まさみつ)である。碑には彼の経歴や遺詩もあるが、漢文調の文章を解する力は自分にはない。ただし気になったのは文末に記された碑文の作者のことである。
鈴木鐸文拙謹撰 堀野宏良平肅書」とある。「鈴木鐸文拙」とは、分家2代目の鈴木文拙であり、その名はであった。彼のことも『市史』に詳しく紹介されている。
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次回は玄道(豊)の孫である鈴木敏也市橋鐸麿についてみる。


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2022年9月 1日 (木)

鈴木東蒙(2)

(承前)
さて本光寺にやって来たものの、寺は無住となっているようだ。それもかなり長い前からのようにみえる。犬山の、それも中心部にある寺のひとつがこうした状況になっていることに驚き、無常を説く『方丈記』の冒頭の件を思い起こす。ただしこの5月に訪れたときには、全てではないが、墓前の花がまだ新しいものは多かった。

寺の西側にある門から入ると「妙見堂」(成瀬家の家老千葉氏が建てたもの)がある。さらに進むと南面している一群の墓(↓写真)があって、そこに博高(東蒙)らの墓がある(さらに右奥(南側)へ入ってゆくと鈴木家本家の墓群がある)。
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上写真の左から3基目が博高の墓で、碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」(天明4〈1784〉年4月14日没50歳)。その左隣は妻のものと思われる。もし『市史』の記述が正しいとすると、いつのことかは不明だが博高の墓は妙感寺から本光寺へ移されたということになる。鈴木家本家の墓群とは少し離れたところにあるところからすると、そう考えることもできるが、あくまで推測である。とにかく現在のところ彼の墓は妻の墓と同じ「本光寺」にある(2022年現在)。
なお博高の墓の右隣に碑銘「觀解院了菴日奘居士」の墓、その右隣には彼の妻のものと思われる墓がある。この「了菴」とは実は博高の父であり、鈴木家6代の玄道(直)のことである。父親の墓も子の博高と同じく、本家の墓群から離れたところにあるのは不思議である。ひょっとすると父親の墓も本来は妙感寺にあったのかもしれないなどと考えてしまう。『市史』に博高の妻の墓が本光寺にあることが「なぜか」と書いてあるが、たしかに謎は深まるばかりである。
鈴木家に関する『市史』の記述は末裔である市橋鐸さんが書いたものと思われる。自分の祖先の墓の所在についても承知していたはずであるから、博高の墓が妻と同様にもとから本光寺にあったとすれば、それを見逃すはずはないとおもうのだが・・・。
いずれにせよ、8代鈴木博高には、本来の墓(本光寺に現存)、そして友人・弟子が建てた墓(妙感寺の東蒙先生之墓)、このふたつの墓があることだけは確認できた。

ところで博高は父6代玄道「直」の三男であり、本来家督を継ぐ立場にはなかった。しかし8代を継いだ事情について『犬山市史』は次のように記している。

三男に生まれて長男が若死、その嗣子はいまだ生まれず、次兄が他家をおかしているため家を嗣ぎ、そのため年若くして、兄の嗣子に世を譲ったという数奇な運命を背負った。
『犬山市史』(別巻 民俗 文化財)321頁

少々意をつかめない部分もあるが、要約すれば、長男である兄の若死によって急遽鈴木家の跡継ぎになったものの、すぐ兄(長男?)の子に世を譲ることになったということだろう。いわばピンチヒッターとして鈴木家の断絶を救ったわけである。
『市史』には『先人詩抄』に収録されている彼の詩が紹介されているし、あるいは「妙感寺」の墓の碑銘などを見ると、詩人として活躍したことは窺い知れるものの、それ以外の彼の人生の詳細を知る術はない。

次回は『市史』に記された鈴木家7人のうち3人目にあたる第12代「鈴木玄道(豊)」についてみる。

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本光寺の8代玄道[鈴木博高(東蒙)]の墓。
碑銘は「灌雪齋博高日徵居士」
天明4(1784)年4月14日没 50歳
2022年5月23日撮影

 

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2022年8月31日 (水)

鈴木東蒙(1)

(承前)
さて、先聖寺を出て本町通りに入り「鈴木玄道宅跡」へ行く予定だったが、その前に寂翁の子孫たちの墓を見ておくことにした。

鈴木家代々の墓はほとんどが枝町の「本光寺」にあるのだが、実は鈴木家は、たぶん19世紀前半に分家ができて、その子孫が「妙感寺」に墓をもっているのである。ところが調べてみたところ、実はこれら両方の寺にそれぞれ墓をもっている鈴木家本家のひとがいるのである。それは8代玄道、侍医6世の鈴木博高即ち東蒙である。[ただしそもそも鈴木家の分家が立ったのは、博高の2代後のことであって、博高の代にはまだ妙感寺に分家の墓はなかったと考えられる。]

鈴木博高(東蒙)は『市史』によれば侍医のかたわら松平君山(儒者、尾張藩士・書物奉行等)門下の詩人でもあったという。
博高の友人・門人たちが発起して建てたと思われる墓が「妙感寺」にある。碑銘は「東蒙先生之墓」(↓)とあり、碑の表以外の三面には岡田新川(儒者、尾張藩士)の記した長文の銘が刻され、その前半は前回見た侍医1世だった寂翁以後の鈴木家の系譜が記されている。建立年月は、博高の没した天明4年4月14日から半年後の10月と刻されており、建立者は鈴木恒久(9代玄道)と鈴木維馨(後の10代玄道)連名となっている(なお、『市史』には博高の没した日が4月15日とある)。

この墓は、「先生之墓」とされているから、別に本来の墓(親族が建てた墓)があるはずである。
『市史』には博高の「墓地は犬山丸山の妙感寺。なぜか妻女の墓は枝町の本光寺にある」と書かれている。つまりこの記述によれば、本来の墓も妙感寺にある、とも読めるのだが、どこを探しても博高のもうひとつの墓は妙感寺にはないのである。さらにこの「東蒙先生之墓」の銘にも「葬犬山城東妙感寺後山」と書かれていることからして、この「葬」られた墓が本来の墓のことを記しているとすれば、その墓は現在どこかへ移ってしまったと考えるしかないであろう。
そんなわけで、『市史』に「なぜか妻女の墓」があると記された本光寺へ行ってみることにしたのである。
(2)へ
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8代(侍医6世)鈴木博高(鈴木東蒙)の墓  2022/5/23
銘は「東蒙先生之墓」。なお墓の正面は犬山城の方角を向く
ように建っている。碑銘の没年月日は天明四年四月十四日。
妙感寺には、この墓の隣に鈴木家の分家の墓が幾つかある。

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2022年8月18日 (木)

鈴木寂翁と先聖寺

石釣てつぼみたる梅折しけり 玄察 『阿羅野』

2018年1月に丈草関連で「先聖寺」の記事(→①→②)を書いたが、約4年あまりを経ての、ある意味その補足のつもりで継ぎ足す。したがって前記事①や②で記したことは繰り返さない。

先聖寺について調べたとき、江戸期に書かれたものや市橋鐸さんの著作以外に『犬山市史 別巻』(民俗 文化財)も見てはいたが、あらためて先日図書館で読み直してみた。
その第二章には、寂翁のほかに鈴木家に関わる人物は鐸さんを含め6人が掲載されている。これからしばらくは彼らの掃苔の記事を書いてみたいと思う。この別巻が成ったのは昭和60年であるから、以来すでに37年の時間が過ぎており(昨年から新しい市史編纂の動きも始まっているみたいだが)、事実にそぐわない記述もあり、訂正すべき事項もあるように思う(とくに墓の異動等については次回以降に記す)。

この別巻の第二章「人物」に「鈴木寂翁」(297~298頁)の記述がある。彼が開いた天神庵のあった所に現在の「先聖寺」が移ってきたことは前にも触れたが、もともとこの寺は魚屋町の「熊野神社」の東あたりにあったのである。
鈴木寂翁は犬山城主成瀬家の侍医第一世である(鈴木家としては第三世、以後代々「玄察」や「玄道」と名乗る)。いうまでもなく彼は鈴木鐸麿(市橋鐸)さんの遠い先祖にあたる人物である。『市史』には彼の忠僕についての興味深い逸話が記してある。

この春に久しぶりに先聖寺へ行ってみた。前回の記事では写真を省略した「天満宮」(元は天神庵)が本堂の北側にある。
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天満宮の西側に墓地がある。下の写真は「開基塔」(珪化木?)だが、寂翁や丈草が慕った開基の玉堂和尚の墓ということになるのだろうか。
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鈴木寂翁の墓は、歴代住持のものと並んで建っている(碑銘が読み取りにくいのでモノクロにしてある)。
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碑銘は「天神庵開基寂翁為和尚塔」、没年は元禄9(1696)年2月13日。訪れたのは5月下旬だったが、まだ竹の秋が続いているのか墓地全体が竹落葉で覆われ、葉がさらに風に乗って次々と降り注ぐ午後のことであった。

市橋さんは寂翁(玄察)が、『阿羅野』(芭蕉七部集)にその名「玄察」として句が掲載されている人物のことだろうと述べており、『市史』にもそのことを記し、三句が紹介されている。ちなみに『貞門談林俳人大観』や『元禄時代俳人大観』などで調べてみると、「玄察」の名がある俳書は『阿羅野』以外にも数点あるようだが、それが寂翁と同一人物なのかどうか勿論俄にはわからない。

先聖寺を出た後、そのまま本町通りに入り、さらに北へ進んで城方面に向かった。たしか鈴木家の宅址があったはずだ。(次回へ)

参考:
『犬山市史 別巻』(民俗 文化財) 昭和60年
『人間丈艸』(既出) 
『犬山市資料 2』(既出)
『元禄時代俳人大観』
 雲英末雄 編  八木書店 1~3巻 2011~12年
『貞門談林俳人大観』
 今栄蔵 編  中央大学出版部 平成元年

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2022年7月14日 (木)

呑水(4補)

(承前)
前回紹介した美濃加茂市深田の「深田スポット公園」。
そこから上流に向けて、堤防沿いに「諷詠への径」と名付けられ、石版に刻まれた多くの句が並んでいるが、そのなかに呑水の句もある。この句は調べてみると、もともとは兼松嘨風編の『袋角集』にあり(字体もそこから取っている)、「ナゴヤ呑水」と記されていることから、彼が名古屋の情妙寺に移ってからの句と思われる。

白鷺の脛をかくさし涼み川  呑水 『袋角』

しかしよく見ると、下に添えられた読みを示すプレートに誤りがあった。
×脛をかくして 〇脛をかくさし(じ)

呑水のためにも、いつか訂正されることを願います。
撮影:2022/06/22
554p1030251

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2022年7月13日 (水)

呑水(4)

(承前)
林輝夫が美濃加茂市の俳誌「自在」に呑水の紀行文を翻刻掲載することになった経緯は、林の記したところによると概略以下の如くである。


林は平成6(1994)年秋に「艸ほこ」の存在を知り、翌平成7(1995)年1月に早大図書館に問い合わせたところ在庫していることを確認した。
貴重なしかも未発表の資料であることを関係者に話すが、関心を示すひとはいなかった
すでに交流のあった美濃加茂市の俳誌『自在』主宰の西田兼三氏を訪ねた際に話をすると、強い興味を示され、翻刻を手がけてほしいと言われ、同年4月14日に大学から西田主宰に送られてきたコピーを林が受け取り翻刻作業に入った。
しかしその2週間後の28日に残念ながら西田主宰は急逝したのである。

以上の経緯は「自在」の平成8(1996)年5月号に記されている。そこに林は、西田主宰の「生前の御厚意に感謝し取り敢えず一部だけを、謹んで一周忌の霊前に捧げます」と記した。『艸ほこ』に収められている幾つかの題名のある文章のうち「蜂屋(へ)紀行」についてのみ、その5月号と6月号に2回に分けて、原文のコピーとともに翻刻文章が掲載されたのであった。
以上のような経緯は、林が『犬山市史』(通史編 上)に呑水に関する原稿を執筆していたまさにその時期と重なっており、この経緯はどうしても、たとえ短い文であっても『市史』の原稿に加えておきたかったのである。それは西田への感謝であり、手向けでもあったと思う。

林輝夫と西田兼三との出会いと交流については西田の追悼句集(「自在」1995年6月号)に林が「先生とのおついきあい」と題する文章を書いている。
これによると、出会いのきっかけは兼松嘨風(元禄期の俳人:今の美濃加茂市深田在)のことであった。西田は地元の俳句結社「自在」を主宰するとともに、郷土(東美濃)のとりわけ元禄期俳人の嘨風、今の美濃加茂市蜂屋在の魯九らを研究していた。他方、丈草研究の一環で昭和初期からすでに元禄期の東美濃の俳人を調べていた市橋鐸のことを知っていた西田は、市橋の遺稿を弟子の林輝夫が受け継いでいることを聞かされ、ふたりの交流がさらに深まったという。

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美濃加茂市深田の木曽川堤防にある「深田スポット公園」には、平成5(1993)年に兼松嘨風の句碑などが建立されたが、西田はその事業の中心的存在であった。下の写真は美濃加茂市深田の木曽川右岸につくられた「深田スポット公園」。
ここに「兼松嘨風」を記念する句碑と顕彰碑が設けられた(1993年)。
嘨風の句碑は「山間の 雪の中ゆく 筏かな」
*なお関連する記事として★参照
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句碑のあるスポット公園から川沿いに上流方向に句が並ぶ「諷詠への径」。
芭蕉、丈草、嘨風、魯九、呑水などの句が石版に刻されている。
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写真:撮影 2022/06/21

参考:
『郷土蕉門の元禄俳人の足跡 兼松嘯風編』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1994年
『東美濃蕉門俳句の鑑賞』
  西田兼三  郷土元禄俳人顕彰会 1995年

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2022年7月 7日 (木)

呑水(3)

(承前)
再び『犬山市史 通史編 上』にあった例の一文のことに戻る。

「釈呑水」を説明する文章の最後は次のように締めくくられていた。

「・・・享保一四年(1729)没。追悼集に『蓮の実』がある。自筆原稿が早稲田大学図書館にあり、俳句結社『自在』によって活字化された。

文末の青文字部分は(1)でも述べたように、中途半端に付記された一文としか思えないのであるが、しかし言葉足らずの走り書きのようなものになったのには、何か訳があるにちがいないとも感じたのである。呑水の自筆原稿の存在や俳句結社「自在」のことについて、今どうしてもこの場を借りて記しておきたかった経緯、あるいはこれを記したときの筆者の心裡を知りたくなったのである。

そこでまず、筆者のいう早大図書館にある呑水の自筆原稿とはそもそも何なのかを確認した。
大学古典籍データベースを検索してみると、「艸ほこ 霊江斎呑水 稿」という名の文献が見つかった。印記は「小寺玉晁旧蔵」とある(小寺玉晃 1800-1878 は尾張藩の陪臣であったが、好事家、随筆家としても知られたひとであり、貴重な文献を蒐集したことでも知られる)。
ちなみに愛知県西尾市の「岩瀬文庫」に小寺の「愛知古今俳人百家撰」(1878)があり、呑水について以下のような記述がある(古典籍データベースの書誌情報を参照しただけで、この典籍を実見していない)。

(霊江斎呑水)源頂山情妙寺六世遠光院日陽和尚也翁門人ニテ翁没後宝永庚寅十月十二日十七周忌義仲寺ニ至リ追福ヲナシ荘厳ノ花ヲ咲ス其集ヲ不断桜ト号初犬山妙感寺ノ住職也元禄十七年ヨリ情妙寺江入院予呑水自筆ノ所々江紀行之記アリ艸ほこと云…

以上のことから、『市史』の筆者がいう呑水の「自筆原稿」とは、早大図書館にある小寺玉晃旧蔵の「艸ほこ」にまちがいない。

次に『市史』の「釈呑水」の執筆者のことである。
犬山市史『通史編 上』に呑水の項目があるのは、第二章第四節「城下町犬山の文芸」である。巻末に執筆者の分担が記してあり、第四節の執筆者は「林輝夫」とあった。彼は旧制小牧中学校時代の市橋鐸の教え子であり、市橋が学んだ同じ大学を卒業し愛知県の教員となったが郷土史家としても活躍した。ふたりは長く師弟としての交流があり、市橋の遺稿も彼が引き継いだという(その辺りの事情は前にも挙げた「文献」→★を参照)。

さて次に俳句結社『自在』について調べてみた。
『自在』は岐阜県美濃加茂市の俳句結社であり、林が「『自在』で活字化された」と書いているのだから、この俳誌に呑水の「自筆原稿」の翻刻を見つけることができるはずだ。そこで俳誌が揃えてある美濃加茂市の図書館へ行き、翻刻の記事を探すことにした。
あの一文が書かれたのは『市史通史編 上』の出版年である平成9(1997)年より後ではないはずだが、いつ「活字化」されたのかはわからないので、ひとまず1993年からの各号を順番に紐解いていった。見ていくと、その「自在」という名の俳誌に林輝夫は頻繁に文章を寄稿していたことがわかった。俳誌の代表者である西田兼三(侑三)のこと、あるいはそもそも犬山の林輝夫がなぜ美濃加茂市の俳誌に寄稿していたのかも興味深いが、そうしたことは次回また触れることにする。

調べてゆくと「自在」平成8(1996)年の5月号と6月号に二回に分けて以下の翻刻が掲載されていた。

 蜂屋紀行 犬山住 呑水稿  林輝夫翻刻

これでようやく「市史」の謎のような一文の意味を読み取ることができた。つまり林は、市史執筆と同時期に見つけた呑水の「艸ほこ」を翻刻したのだが、そのことをどうしても市史のなかに書き添えておきたかったのである。おそらく師であった市橋鐸も知らなかった呑水の文書を見出し翻刻できたことの喜びのようなものを、あの遠慮がちな一文は表しているような気がするのである。

次回は、そもそもこの翻刻が「自在」に掲載されることになった経緯を辿ってみたい。

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平和公園「情妙寺墓地」(名古屋市東区平和公園1丁目)
写真の最も奥に歴代住持に並んで呑水の墓もある(2022/06/04撮影)。

参考:
『艸ほこ』 霊江斎呑水 稿  
  早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」参照
『愛知古今俳人百家撰』 
  愛知県西尾市岩瀬文庫「古典籍データベース」書誌情報参照
『自在』 
  岐阜県美濃加茂市俳句結社「自在」俳誌 1993年以降参照



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