俳人 鈴木しづ子

2018年8月25日 (土)

学生やこころ一途に

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      各務原市民公園(以前は岐阜大農学部の敷地 2018年7月)

大学の庭に觀にゆくボタンかな

学生やこころ一途に夏の雲

驛へ驛へ学生つづく猛り鵙 

鈴木しづ子が暮らしていた那加の街の東隣には、新境川を挟んで当時大学があった。岐阜大学の農学部である。現在、学部はすでに岐阜市内へ移転(応用生物科学部に改編)しており、跡地は整備され各務原市民公園となり、市立中央図書館もある。

しづ子の句には那加の学生や大学の様子が詠まれているものが幾つもある。その大半は、前回の記事でもみたように、朝鮮戦争や講和問題、再軍備問題などに揺れる当時の世相を彼女なりに切りとっている。那加でもデモや集会、それに駐留米兵との衝突事件が起き、警官が発砲するという事案もあったという。その一方で、駅付近は夜ともなれば米兵や女たちであふれかえっていたのである。
川村氏の著作によると、しづ子は那加に来てからも町内で転居を繰り返していたというが、その範囲はいずれも鉄道の駅から500㍍ほどの距離内にある。彼女が住居を変えた理由のひとつは、恋人GIとの生活のためだったかもしれないし、ひょっとすると駅近くの喧噪を逃れたいと思っていたのかもしれない。当時の新聞記事によると、騒がしい夜の街は、下宿していた学生にとっても大きな悩みだったらしい。

下に大学や大学生を題材にした句を拾い出してみた。
彼女は高女卒業後は女子大進学を試みていたともいわれる。叶わなかったが、そんな屈折した心情も句の裏に読み取ることができる。
学生集会の様子を遠くから眺め、その主張に耳を傾けているしづ子の後ろ姿が目に浮かんでくる。

学生として交るや一つ思想   春燈下をんな学生混へつつ

高女卒とは名のみばかりに八重桜 

大学の事件増えゆく雨の鵙     闘爭の許さるべきや雨の鵙

鵙の降り農科大学事をもち    統ぶるすべざる思想捲き散る

学園の自由と題し夏の雲        メーデーにことよせ騒ぐすべもなし

学問に痩せて晩夏の月の前   教授夫人片蔭をやや急かされて

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新境川に架かる「吾妻橋」(西側が那加の街、東側に大学があった。)

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            現在のJR那加駅:手前の踏切は名鉄線。
            このすぐ左(西側)に名鉄新那加駅がある。

参考文献(8月16日記事に掲載)
掲句は昭和27年の大量句より。
しづ子の足跡は、川村蘭太の前掲書による。

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2018年8月16日 (木)

朝鮮戦争と那加

動乱や踏めばくづるる土の霜

空軍の演習つづく夏葉の樹  再びの防空訓練夏葉濃し   


銀漢や軍備を希ふ言多く    銀漢や戦忌む言胸えぐり

鈴木しづ子が岐阜県に移り住んでいたのは、1950(S25)年~52(S27)年の間といわれる。その時期はまだ占領下の時代であり、しかも朝鮮戦争(動乱)や講和問題、再軍備問題が社会を揺り動かしていたころとちょうど重なる。
上の句は残された大量句から拾ったものだが、那加に住んでいたころのものであろう。しづ子の句といえば、ほとんどが叙情的、感傷的ものが多いなか、これらの句は、基地のある街の様子や社会の軋轢について、新聞記事を切り抜いたかのように詠んでいる。


戦後の各務原那加には米軍が進駐し Camp GIFU といわれた。しかし「租界NAKA」などと揶揄もされ、とくに基地に米兵が増員された1949(S24)年以降は、夜ともなれば米兵相手の女性たちがあふれ、街は異様な状況になっていた。
やがて
朝鮮戦争が始まると、沖縄をはじめ連合国軍が占領・進駐した日本各地の駐留地、飛行場や港は、後方基地として重要な役割をもち、日本もその活動を支えた。

戦地に近い九州北部では、開戦時の1950(S25)年6月29日夜に突如空襲警報が発令されたという。さらに、1952(S27)年7月21日から23日にかけて、関西地区を除き北海道から九州各地で防空演習が実施され、午後9時から30分の燈火管制も敷かれた(強制ではなかったが)。
こうした防空演習が、彼女の住む各務原那加周辺で実際に行われたかどうかは資料的に確認できなかったものの、掲句のなかには「再びの防空訓練」の文字がみえることから、それに近い事実は那加でもあったのではないだろうか。各務原飛行場では「空軍の演習」は当然行われていただろうし、基地に集まった多数の米兵の姿は、この街がそのまま戦地と繋がっていることを示していた。戦時東京で暮らしていたころの体験が再び蘇ってきたのだ。

 爆撃はげし

東京と生死をちかふ盛夏かな  『春雷』

朝鮮戦争が始まると「警察予備隊」が編成された(のちに保安隊をへて今の自衛隊となる)。世に「軍備を希ふ言」がある。だが「戦忌む言」もあり、彼女の胸をえぐる。空襲体験や戦死した許婚の面影を忘れることはない。

次回は、那加にあった大学、その当時の学生を彼女が詠んだ句をみる。

参考
掲句、しづ子の足跡は、川村蘭太の前掲書による。
『新聞集成昭和編年史』 昭和25年版Ⅲ 昭和27年版Ⅳ
『朝鮮戦争全史』 和田春樹 岩波書店 2002年
『那加町史』   昭和39年 非売品
『各務原市史』 史料 近代・現代 各務原市教委 昭和61年
『各務原市民の戦時体験』   各務原市教委 平成8年
『各務原市民の戦時記録』   各務原市教委 平成11年


Densha
   鈴木しづ子は仕事のために那加から岐阜市へ通っていたらしい。
          〈那加を走る岐阜行の名鉄電車(2018年7月)〉
     



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2018年8月 5日 (日)

鈴木しづ子の心組

Photo_2    犬山橋(ツインブリッジ)と城山(2018年7月)

  旧里に帰りて
精霊にもどり合せつ十とせぶり 内藤丈艸  『そこの花』

精霊を手よりおろして流しけり 鈴木しづ子 (昭和27年6月)


鈴木しづ子を撮った写真は、書籍類に載っている4枚だけらしい。
そのなかに、親族(伯母、妹夫婦)3人と一緒の写真があり、撮影場所は、犬山と鵜沼を結ぶ「犬山橋」下の河川敷である(※381頁)。昭和23年5月、まだ関東にいたしづ子は、母の3回忌法要のために親族らと犬山の妙海寺を訪れていたのである。
ちなみに上の写真は川岸から撮った現在の犬山橋で、写真の下側には一部川底が隆起し草の生えたところがある。しづ子らが写った写真とほぼ同じアングルであるが、当時の写真は河川敷で撮っているので、もう少し下から見上げるような角度になっている。
昭和20年代、この付近の木曽川は、川の中央部まで左岸から広い河川敷が続いていた。貸しボート、ライン下りの遊覧船などの船着場もそこにあった。現在は、橋のすぐ下流に灌漑用水確保のため「ライン大橋」(ダム)がつくられ、水量が増えて河川敷は消えている。当時撮った写真では、犬山橋がまだ鉄道橋と道路橋の併用橋だったため、上の写真の後方に見える本来の犬山橋一つしかなかったのである。

ところであの写真を見たとき、すぐ丈艸の面影が浮かんだ。
写真の背景に山のようなものが写っているが、それは城山である。かつて記事(ここ)にしたように、丈艸がこの城山に登って親指を切り落とし、士分を捨てて出家する口実としたとの伝説が語られた岩山である。また、橋のすぐ東の左岸は、丈艸が故郷を捨てて旅立った内田の渡し場である(記事はここ)。
たぶん彼女は、蕉風を最も忠実に受け継いだといわれる丈艸とその句の幾つかを知っていたことであろう。
処女句集『春雷』の跋の後半で彼女はこう書いている。
  「句は私の生命でございます。
  俳聖芭蕉の詩精神に一歩でもちかづくべく、こののちとも
  より一層の努力をいたす心組にございます。」


掲句。
丈艸としづ子それぞれの母が、同じ犬山に眠っているということを思いながら、ふたつの句を並べてみた。精霊会、魂送りにちなんだ句である。
丈艸は幼い頃に母を亡くし、継母の生んだ弟に家督を譲り遁世して犬山を去った。この句は母の37回目の忌辰(忌日は旧暦8月)に合わせ、犬山へ10年ぶりに帰郷したときの句といわれる(元禄13年)。すでに母の死をきっかけにして、丈艸の運命の歯車は動きだしていたのだ。
他方、しづ子の句は残された大量句のなかにある。〈精霊の大きく揺れてより流る〉〈精霊のそのまま流れそめにけり〉と並んで残されている。精霊は、亡き母、戦死した婚約者、生まれることを彼女が拒んだ子、あるいは不慮の死を遂げた恋人GI、これら亡きひとすべてともいえる。かけがえのないひとを送る情景が、素直なことばの流れとともにしずかに伝わってくる。

丈艸もしづ子も、母亡き後、父は直ぐ後妻を迎えた。ふたりが背負ったこの同じ境遇は、私などにはどうしたってわかるはずもなく、こうしてこれらの句をただ置いて眺めるだけである。けれども、ふたりの句は250年という月日を隔てていながら、ともに「俳聖芭蕉の詩精神に一歩でもちかづくべく」情感ゆたかに響きあいながら並んでいる。

参考 
大量句、参照先の頁数(※)は、川村蘭太の前掲書による。
『稿本丈艸発句集』 市橋鐸 非売品 昭和34年
『蕉門研究資料集成 第五巻 「俳人丈艸」、「丈艸伝記考説」』
       市橋鐸著 佐藤勝明 編・解説 クレス出版 2004年
『丈艸発句漫談』 市橋鐸 非売品 昭和47年
『俳句と歩く』 宇多喜代子 KADOKAWA 平成28年

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2018年8月 3日 (金)

妙海寺 〈犬山市〉

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母 綾子の墓碑(日蓮宗 龍運山「妙海寺」 犬山市 撮影2017年晩夏)
       墓碑銘 「本蓮院妙信日綾大姉」
    「昭和二十六年十一月 鈴木しづ子 建之」とある。
 
             

ははの忌の棘美しき枳穀かな       鈴木しづ子  『指環』
               

    母の墓建てむと
この金や不浄ならざる枯れ簫々     (大量句 昭和26年11月)
   母の墓建つ
手向ければ菊花咲かるることのなし  (  〃   昭和26年12月)
おくつきを去り難く去る霜葉かな

犬山市の城下に幾つもの寺が密集しているところがある。そこには丈艸が使った座禅石なるものが伝えられている西蓮寺もある。その西蓮寺のすぐ北側に、鈴木しづ子が母の墓を建てた妙海寺がある。
本堂の南側に無縁仏群があり、そのなかに他の碑とは異なり、その墓石は色褪せることもなく立ち、遠くからでも一目でそれとわかる。しかし無縁仏としての竿石だけが残っており、もともと墓全体がどのようなものだったかは想像するしかない。なぜ無縁仏群に置かれているかについては親族の意向があった。墓の移動の際、行方知れずとなったしず子が、いつここへ来てもすぐそれとわかるように気遣ったからだという。しかも彼女の戸籍は今も犬山市に残っているらしい(※ 333頁)。

側に寄ると、これは彼女自身の碑であるかのように思えてくる。日付とともに刻された「鈴木しづ子建之」の文字とその大きさがそう語っている。
しかも本名の「鎭子」ではなく、俳人としての「しづ子」が之を建てたのだ、と見る者に訴えているかのようである。
前回触れたように、彼女は戦後1950(S25)年に関東から岐阜・各務原[那加町]に移り住み、翌年母の墓を建て、その1年後に消息を絶った。もちろん伯母が岐阜に住んでいた縁もあっての転居だったのだろうが、それよりむしろ、父祖ゆかりの犬山の菩提寺に母の墓を建てるために移ってきた、そうとしか思えない。年来の願いが叶い、そして去っていった。

冒頭の句について。
母綾子の忌日は昭和21年5月15日。三回忌にあたる昭和23年5月、まだ関東に住んでいたしづ子は妙海寺の法要に出席するため親族とともに犬山市を訪れており、そのころの句と思われる。
2句目の中七「不浄ならざる」は、自分の仕事にたいする矜恃か。

次回からも、鈴木しづ子に関わりのあったこの地域のことを書き綴る。

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妙海寺 無縁仏群(母綾子の墓碑は、すぐそれとわかる)

参考図書(前回挙げたものも含む)
『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』 川村蘭太 新潮社 2011年※
『風のささやき -しづ子絶唱』 江宮隆之 河出書房新社 2004年
『俳句と歩く』 宇多喜代子 KADOKAWA 平成28年

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2018年7月26日 (木)

『女性俳人の系譜』

夏の母熟睡の蹠すさまじき       宇多喜代子 『りらの木』
 
ゆかた著てならびゆく背の母をこゆ    鈴木しづ子 『春雷』
            

酷暑の日々。生きているのが不思議なほど。
肝心の丈艸のことは随分ご無沙汰のままだが、日に日に母を思うことが増えてきたこともあってか、女性俳人の句を見たり、関係する本を手にすることが多くなった。
今回は宇多喜代子さんのことを主に触れるが、この地方(岐阜・犬山)に縁がある鈴木しづ子についても宇多さんとの関係で少し付け加える。

宇多さんの書いたものを最近改めて読んでいる。でも失礼なことに、彼女自身の俳句ひとつひとつにきちんと向き合ったことがない。出会いが句ではなくテレビの番組であったからかもしれない。彼女の師は桂信子、本業は「栄養士」だと話しておられたことがある。
宇多さんを初めて知ったのは、2002年の『NHK人間講座 女性俳人の系譜』のテキストを本屋で手に入れたときだった。母が70を過ぎて俳句に興味をもちはじめ、実家から電話があってテキストを買ってきて欲しいと頼まれたからだ。
自分もその番組を毎回見ていたし、テキストは母からもらって今も大切に書棚に置いている。その後NHKの俳句の番組でお見かけするたびに、その語り口がどことなく自分の母と重なるところもあって親しみを感じていた。
女性俳句の光と影』(上掲のテキストに数編を加筆したもの)、『ひとたばの手紙から(戦火を見つめた俳人たち)などが印象に残っている。昨年『この世佳し- 桂信子の百句』を上梓されている。解説も丁寧で弟子ならではのもの。新書サイズなので出かけるときバッグに入れている。
冒頭の宇多さんの句は好きだ。私のような男(の子)は母親のそうした寝姿や足のうらなどを見たことがない(いや見てはいけないと思っている)ので、むしろ驚きにも似た情動を呼び起こす。

さて、あのテキストは150頁ほどの短いものだったが、女性俳句だけではなく俳句の魅力を今まで以上に感じることのできた冊子だったし、そこで紹介されていた名だたる佳人の句や生き様をとおして、彼女らが背負った時代を見つめ直す機会にもなった。それぞれ境遇はちがうけれども、とくに戦争をはさんで生き抜いた女性たちの句や人生に心が動く。
とくに末尾近くで「鈴木しづ子」が取り上げられており、それがこのテキストを何度も読み返す理由ともなり、彼女の句に引き付けられることにもなった。
鈴木しづ子のことは、戦後中央俳壇では有名になっていたものの、やがて関東から遙か西の各務原で突然消息を絶ってしまった(1952年夏ごろらしい)。その後1980年代後半から次第に彼女のことが地元でも話題に取り上げられ、新聞や雑誌でしばしば紹介されるようになった。ただ残念なことに、岐阜や基地の町各務原での彼女の生活ぶり、駐留米兵との関係だけに目を向け、幾分興味本位になっている人もいたようだ。

彼女の句の背景を深く知りたくなった宇多さんは、「『指環』の写真のするどい視線に追い立てられるように」彼女のことを調べるため、80年代になって何回となく各務原通いを始め、丹念に彼女の足跡を辿った。その結果関係者の証言などから彼女の謎めいた履歴が多少は明らかになったようだが、結局宇多さんは「今後、鈴木しづ子に関して知ったことは一切聞かなかったこと、読まなかったことにしようと決めました」と述べ、彼女もまた「戦争の犠牲者であった」と結んでいる。宇多さんのこの優しい気持ちに私を含め共感できる人は多いと思う。
犬山市にあるしづ子の母綾子の墓について次回ぐらいに記す。


参考
『NHK人間講座 女性俳人の系譜』 宇多喜代子 NHK出版 2002年
『女性俳句の光と影 
明治から平成まで』 宇多喜代子 NHK出版 2008年
『ひとたばの手紙から』 宇多喜代子 角川ソフィア文庫 平成18年
『この世佳し -桂信子の百句』 宇多喜代子 ふらんす堂 2017年
『夏みかん酸つぱしいまさら純潔など 句集「春雷」 「指環」 』
                 鈴木しづ子 河出書房新社 2009年
『KAWADE 道の手帖 鈴木しづ子 生誕90年 伝説の女性俳人を追って』
                       河出書房新社 2009年
『風のささやき しづ子絶唱』 江宮隆之 河出書房新社 2004年
『しづ子』 川村蘭太 新潮社 2011年

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