文藝

2022年2月14日 (月)

梅の句 (2)

梅の句(1) 承前 
久保田万太郎(1889~1963)の句といえば、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」をはじめ、「パンにバタたっぷりつけて春惜しむ」や「時計屋の時計春の夜どれがほんと」などが歳時記によく取り上げられている。
去年上梓された『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の解説で恩田侑布子が「万太郎は恋句の名手」だと書いていた。子規や虚子が主導した近代俳句の隆盛のなかで取り残されてしまった恋句や相聞の流れを、万太郎は大切に次の時代へ受け渡してくれたということだろう。

多くの不運もあったにせよ、彼の結婚生活や女性関係に世間は
厳しい目を向けていたことは事実だが、しかし彼が純粋に慕い憧れ、尊敬していたひともあったにちがいない。そのひとり「おあいさん」は、ひょっとすると幼い頃彼の母代わりであった祖母の面影と重なっていたのかもしれない。

昭和20年3月10日の東京大空襲で焼死した「おあいさん」とは、吉原の名妓いく代(西村あい)のことらしい。
三月十日の空襲の夜、この世を去りたるおあいさんのありし日のおもかげをしのぶ
」と前書のある昭和20年の悼句(『草の丈』)。

 花曇かるく一ぜん食べにけり

ありし日の彼女の忙しい芸妓生活を偲び、自分もかるく食事をとったということなのだろう。また『冬三日月』には昭和24年の句として、「三月十日」の前書きをつけておあいさんを追悼している。

 さくらもち供へたる手を合せけり

そしてあまりにもよく知られた「ひそかにしるす」と前書きされている句(昭和21年(『流寓抄』)。この人がおあいさんであるかどうか諸説あるらしいが、そんな穿鑿は野暮なことだ。作句者の波瀾に満ちた人生のことなどはひとまず忘れ、早梅の芳香に酔いながら、心の中で何度も小さく口ずさんでみるのである。

   ひそかにしるす。
 わが胸にすむ人ひとり冬の梅

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  自宅の部屋にて(2019年2月)

参考:
『久保田万太郎全句集』
(中央公論社 昭和53年再販)
『万太郎の一句』
(小澤實 ふらんす堂 2005年)
『久保田万太郎の俳句』
(成瀬櫻桃子 講談社文芸文庫 2021年)
『久保田万太郎俳句集』
(恩田侑布子 編 岩波文庫 2021年)

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2022年2月 1日 (火)

梅の句 (1)

ことしは今日2月1日が旧暦の元日。週のおわりはもう立春。
昼過ぎから「うぬまの森」で二時間ほど登ったり歩いたりしながら過ごした。梅の便りが届き始めているので、近所ではどうかなと期待しながら夕刻「大縣神社」に立ち寄ってみたが、蕾は固いままだった。

夜、『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)を手に取リ、「梅」の句の幾つかをあらためて眺めていたが、そのことは次回にでも。
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膨らみはじめた「しだれ梅」 大縣神社(1/Feb./2022)

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2019年7月 8日 (月)

合歓の花と白秋 ②

北原白秋が90年前の犬山城天守から見た合歓木は、今もあるのかどうか確かめてみた。
平日なので比較的人は少なかったが、台湾から来たという家族旅行の人たちがいた。小さな子どもが急勾配の梯子のような階段に両手両足をいっぱい広げて挑戦していたので、その後姿を見守りつつ自分も足を踏み外さないようにゆっくり昇っていった。

ちかぢかと城の狭間より見おろしてこずゑの合歓のちりがたの花

北原白秋は合歓木を「二層目」で見たと記しているが、どの方角に見えたとは書いていない。ともかく甍の見える「狭間(さま)」を探さねばならない。そもそも天守の構造が複雑で、「二層目」といっているのは外観上のことであり、天守内部では「二階・三階」にあたるところだ。
まず二階に来て、幾つかの「狭間」から外の景色を覗いた。
犬山橋を望む東側の狭間のうち、川に近い窓から見えた景色が下の写真。瓦屋根の向こうに、なにやらベージュの小さなかたまりが目に入る。
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カメラのファインダー越しにところどころ花らしきものも見える。
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まちがいなく合歓木。
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このあと三階にも行ったが、残念ながら合歓木を見ることはできなかった(というより狭間が閉じられていた)。
白秋が城に来たのは、8月4日と『白帝城』に記されている。歌には「合歓のちりがたの花」とあるから、8月のはじめともなれば、やはり花の終期であったにちがいない。

際に城に登って観たあと、遠くから合歓木を確認するために瑞泉寺まで行った。それが下の写真で、天守から東に約800㍍離れた瑞泉寺の霊苑から撮ったものだが、合歓木(↓)と天守の位置関係がよくわかる(拡大可)。『白帝城』では、合歓の花が二層の「入母屋の甍」に見えたとあるから、彼が覗いたのは、この写真でいえばおそらく天守の中央付近にある三階の狭間ということになるが、上に記したように今それは閉じられていて、当日は合歓木に近い二階の小さいほうの狭間からのみ眺めることができた。
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おそらく90年の間に城周辺の樹木が剪定されたり、切られて背が低くなったりしたであろうから、白秋の見た合歓木が今日見えた木と同じものだとはいえないけれども、天守のすぐ近くに合歓木があることだけは確かめることができた。ひょっとすると当時の合歓木は、入母屋の甍付近までもっと背が伸びていたと考えた方がいいのかもしれない。
実は、ひとつ階段を下って一層にも同じ方角を望める狭間があって、そこのほうが合歓木をより近く見ることができた。だが甍も見えず、ただ小窓から覗いただけの合歓の花は、なんとなく味気ない。やはり白秋が「入母屋の甍」に見た合歓の花は、二層(三階)からの眺めでなくてはならないし、天守の甍と合歓木の組み合わせが白秋の歌心を揺り動かしたのであろう。

なお、白秋の歌集『夢殿』上巻の「木曽長良行」にある「犬山、白帝城」では次の三首(一首目は『白帝城』のもの)をみることができる。どれも合歓を詠っている。

ちかぢかと城の狭間より見おろしてこずゑの合歓のちりがたの花

閑かなる城とおもふをあわれなり日でりはげしく合歓ぞほめける

入母屋の甍ににほふ合歓のはな犬山の城は白く久しき

たぶん暑いだろうが、8月の「ちりがたの花」を見てみたい。

なんと、犬山城は改修工事のため今年7月中旬から12月末まで天守全体が工事用幕に覆われてしまうらしい。この間は2階まで無料で入れるらしいが、8月の合歓の花を見るのは来年にお預けなのか(7月13日追記)。

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2019年7月 3日 (水)

合歓の花と白秋 ①

先月の記事で合歓の花のことを書いたが、それいらいなぜか合歓木と「犬山城」のことが頭のなかで絡み合い、その結びがどうしても解れないので、きっとどこかで読んだ文章の記憶があるからにちがいないとおもい、パソコンを前にして「犬山 合歓木」と打ち込んで検索してみた。
すると北原白秋の紀行文『白帝城』(犬山城)のことが出てきたので、やはりそうだったかとようやく気持ちが落ち着いたのである。


ちかぢかと城の狭間より見おろして
              こずゑの合歓のちりがたのはな


1927(昭和2)年夏、北原白秋が木曽川や犬山城に来ている。
そのときの紀行文が『白帝城』(原題「木曽川」)なのだが、白秋のこの文章のことを知っている犬山在住のひとはたぶん多いとおもう。たとえば犬山城を紹介する観光案内などにもこの文章から引用して、犬山城は「木曽川(日本ライン)の白い兜」などと書かれている。

その紀行文は上にあげた「ちかぢかと」の歌で結ばれているが、文中
犬山城天守から見えた合歓の花のことが次のように描かれている。

私は更に俯瞰して、二層目の入母屋の甍に、ほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれなゐの線条の合歓(ねむ)の花の咲いてゐるのを見た。樹木の花を上からこれほど近く親しく観ることは初めてである、いかにも季節は夏だと感じられる。」

犬山城に登ったことはあっても、たいていは春や秋。城と結びつくのは梅、桜そして紅葉ばかりで、夏の城はまったく印象にのこっていなかった。そこでひょっとしたら90年ちかい昔に白秋が観たという合歓木が、
はたして今もあるのかどうかすぐ行って確かめてみようと出かけたのである。
そのときのことは、後日また。

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             3/July/2019 
       犬山城天守入口東の「大杉様」(枯れ木)に
       寄り添うノウゼンカズラ(凌霄花)。
       クロアゲハが立ち寄り、お腹いっぱいになって
       近くのカエデの木で休憩していた。
 


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2018年10月 7日 (日)

中野重治生家跡と墓所

丸岡図書館から中野重治生家跡へ向かう。
往復3㌔ほどなので歩いてみた。「丸岡城」が図書館の隣にある。歩きながら眺めただけだったが、姿はどことなく犬山城天守に似ている。昭和9年に国宝となっていたものの戦後間もない頃の福井大地震で壊れ、昭和30年に再建された。日本最古の天守として国宝登録をめざしている。同じく最古を標榜している犬山と勝負することになるのかどうか。
城について中野は、朝起きて横の川で顔を洗うといやでも真正面に「お天守」がみえたとか、木訥でいい恰好をした、いくさのための実用品だとも書いている。たしかに無骨な姿は他の天守にはない魅力がある。
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国道8号を越え、小川に架かる一本田橋を渡ると西に生家跡や「太閤ざんまい」(墓地)が見えてきた。どちらも樹木に覆われているのでそれとすぐわかる。

毎年8月「くちなし忌」がおこなわれる生家跡地は、1980年に坂井市(旧丸岡町)へ寄贈された。
再現した屋敷間取りの台石、妹鈴子の詩碑などがあり、世田谷の書斎もそっくりここに移築されているが、外観しかわからない。今年は台風が多かったせいか枝木や葉っぱが散らばっているものの、整備は行き届いている。
遺言の最初に「中野重治の名を冠する文学賞、記念碑をつくってはならぬ。墓はあるのだから別に作ってはならぬ」とあった。けれども地元では1991年から毎年「中野重治記念文学奨励賞 全国高校生詩のコンクール」が募集されて2005年の終了まで続いたし、丸岡図書館に記念の碑はあり、この生家跡にも井桁状の碑(「中野重治ここに生まれここにそだつ」)、そして「梨の花の故地」と刻された標柱が据えられている。
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生家跡から100㍍ほど北に先祖累代の墓所がある。「太閤ざんまい」とわれてきた。なんでも越前の検地のとき、接待した功によって秀吉から褒美で与えられた土地だそうだ。刈り取りのおわった田圃の一画にひときわ目立つ。
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季節は過ぎてはいるが、墓回りに曼珠沙華がまだ何本か咲いていた。先祖の幾つかの墓石の並ぶ左端に中野重治の眠る「中野累代墓」がある。「中野家」としなかったのは妻政野(俳優原泉)の意向らしい。それもあって墓の前に立つと、謎の妖婆役がよく似合った原泉の面相がしぜんに浮かんできた。そして常に夫婦の側に影のように付き添っていたといわれる佐多稲子の姿も。
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彼は終生ふる里の一本田、そしてそこでの暮らしを忘れることはなかった。この地に眠っていることはしあわせなことである。
それにしても、とりわけこのような時勢である。おりにふれ彼の書き遺したものを再読三読してみたいと思う。

 

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[記]
写真:いずれも2018年10月撮影
参考(主なもののみ):
文学アルバム中野重治』 中野重治研究会編 能登印刷・編集部 1989年
『中野重治展 ふる里への思い、そして闘い』 福井県ふるさと文学館 2016年

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2018年10月 5日 (金)

中野重治文庫

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       中野重治文庫記念 坂井市立丸岡図書館 (2018年10月)

中野重治(1902-1979)の生地は高椋村(現 丸岡町)一本田であった。中野の没後蔵書が丸岡町に寄贈され、図書館・文庫は1983年に丸岡城のすぐ側に建てられた。市内に4館ある市立図書館の一つである。

瓦葺きで、中庭には東京世田谷の住まいから移植した木々があり、その庭を囲むように4棟から構成されている。入口のある棟の向かい側に文庫があり、蔵書のほか、日用品、掘炬燵のある書斎兼居間、高田博厚の手になるブロンズ像(1983年作)などをみることができる。多くの蔵書には、大きな太めの字で書名や著者名を書いたカバーがかけられており、大切にされていたことを窺わせる。
見学していると、係の方がやってきて中庭が見えるようにブラインドや戸を開けてくださった。
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Photo_2庭隅に記念碑があった。
蕾めるものは
花さかむ
花さきたらバ
實とならむ

友人の娘である児童文学者内田莉莎子(『おおきなかぶ』などの翻訳で知られる)が結婚するときに贈ったことばだという。

文庫入口に関連図書が並べてあり、その幾つかを手に取りながらしばらく時を過ごした。
つぎは生家跡や墓碑のある一本田へ向かうことにした。

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2018年10月 3日 (水)

福井県立図書館

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福井県立図書館・福井県ふるさと文学館(南西側より 2018年10月)

中野重治の古里、今の福井県坂井市へ車で向かう途中、「福井県立図書館・福井県ふるさと文学館」に立ち寄った。
設計は著名な槇文彦で、「名古屋大学豊田講堂」(建築学会賞作品賞:1962年)、「幕張メッセ」(1989年)、六本木ヒルズ「テレビ朝日」(2003年)などが代表作としてある。

館内は明るく開放的で、広い敷地を存分に活用し、1階だけを開架・閲覧室としているなど、贅沢に空間を利用している。狭い空間の好きなぼくではあるけれど、かなり天井が高いのに、とても落ち着くのはなぜだろうか。入館者は多かったが、静かでゆったりとした気持ちになったせいかもしれない。それはたぶん、照明の形や配置、館内の色合が好ましく、空間に優しく包まれる感じがして居心地がよかったからだろう。

個人貸出冊数が、県の人口比で昨年度まで6年連続全国1位になった図書館(一つの分館含む)であり、入館者数(人口比)も同じく5年連続2位だという。そうなったわけはいくつもあるだろうけれども、そのひとつはこうしたつくりの図書館だからにちがいない、と自分では納得している。
中野重治などの郷土に関わる文人の書籍も豊富で、「ふるさと文学館」横の開架にまとめてあるからすぐ見ることができる。でも今回は次の目的地へ向かうために短時間の訪問になってしまい残念だった。次回はもっと時間をかけてゆっくり過ごしたい。

福井市を離れ、30分ほど車を走らせると次の目的地坂井市の「中野重治文庫記念 丸岡図書館」 に辿りついた。次回また記す。

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2018年10月 1日 (月)

中野重治というひと

             ま も
待ちてゐるすがた目守りつつ陸橋の


           階のこまかきを急ぎてくだる  中野重治

          『帝国大学新聞』1924年11月3日号(10月16日詠)
          *小説『歌のわかれ』にも掲載
            
機関車が駅のホームに入って来ると、「しがみついてべそかいとったんや」と大人になっても笑いながら母が語っていた。煙や蒸気を勢いよく吐きながらホームに入ってくる機関車は、黒い大きな牛がいっきに近づいて来るようで、汽車待ちは幼いぼくにとっては怖い体験のひとつだったのだろう。
それでも小学校のなかごろになると、それを操る機関士はあこがれの仕事になっていた。中学の国語では、中野重治の詩『機関車』に心が動き、家に帰って何度も朗読したりした。やがてもう客車を蒸気機関車が引っ張る時代ではなくなりつつあったけれど、機関士になりたいという望みは高校に入るまで消えなかった。
当時もちろん、詩『機関車』で作者が謳おうとしていたものや彼の「決意」などは、分かるはずもなかった。

 

高校1年だったかの夏の読書感想文で、中野重治の『むらぎも』が課題図書のひとつになっていた(学校独自の選定本だったかもしれない)。購買部に所狭しと並べられているいくつかの課題本のなかから、当然のようにその文庫本を買い求めた。漱石や直哉などよりも、ぼくにとっては大切なひとの書いたもののように感じたからだ。ところが、新人会だとかプロレタリア文学だとか、当時の大学や社会のことなど全く知識のもち合わせがないから、退屈で難しい本だった。それでも、鬱屈した日々をおくっていた当時のぼくには、描かれた主人公の安吉が自分のとても近いところで動いているような感じがして、読み続けることができた。
いつになっても感想文が戻ってこなかったので、国語の担当教師にきくと、「あれ、出しといたよ」といわれた。うれしかったが、その後なんの音沙汰もなかった。続けて『歌のわかれ』、『梨の花』や『村の家』などを読んだのが最後で、高校を出てからは彼の書いたものがぼくの本棚に並ぶことはもうなかった。

ところが先月、図書館で見つけた『評伝中野重治』や彼の『評論集』を借りて読みながら、少年のころから痼りのようになっていたものが消えてゆくような、無くし物が偶然みつかったような気分になったのである。なぜなら、とはいっても難しい文学理論がわかったなどのことではなく、中野というひとは、そうか実はこういうひとだったのだ、と感じられたからである。たとえば、なぜ『機関車』の詩に心が動いたのか、なぜ高校生のぼくが安吉をとても身近に感じたのか、つまり、そのころは本当はよくわかっていなかった中野というひとがどんなひとなのか、あるいはその詩や文章に惹かれたわけが、ほんの少しかもしれないがわかってきたのである。

とりわけ政治的には誰よりも厳しいひとであったかもしれないし、その人柄もほんとうのところはしらない。けれども、「待ちてゐるすがた」のひとを目守りながら、「陸橋の階のこまかきを急ぎてくだる」というような若き22歳の中野重治というひとは、たぶん生涯変わらずそういうひとでありつづけただろうと思ったのである。
そういうひとの詩や歌、小説や評論に、これまで、そして最近も出会うことができたこと、そのことがうれしいのである。

日帰りで彼の故郷には行ける。行ってみようと考えている。

 

参考
冒頭の歌については、『歌のわかれ』の末尾にも主人公の作としてあげられているが、詳しくは下記の書 112~113頁参照。
増訂 評伝中野重治』 松下 裕 平凡社ライブラリー 2011年
   

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