桂信子と信州 -2-
宮田氏や宮田城址について、前回の記事にも「参考」としてあげた文献や冊子を読んでみると、宮田氏が中世にこの地域で勢力をもっていたことは数々の史料で確認できるのであるが、他方、居館を含めた城址遺跡に関する文献や地元における伝承はなかったという。
だが城山(じょうやま)といわれる城址は、空堀、陣場、主郭構造が確認されており、これまでの調査で発見されている灰、炭、釘、天目茶碗片等の遺物によって山城であったことは確かであり、その築城の時代や築いた人物は文献による裏付けができていないものの、中世にこの地域を根拠地とした宮田氏のものであると考えて間違いないようだ。他方、宮田氏の居館跡については釈迦堂跡などの有力な候補地が幾つかあるもののいまだに確定できていない。
おそらくあるときから宮田一族が地元から全く姿を消し、ひとびとのなかでは一族のことも語り継がれなくなって、城址や居館跡の存在すら忘れ去られたのであろう。『宮田村誌 上』(428頁)も「地元における宮田氏に関する遺跡や傳承はつまびらかでなく」と記しているのは、宮田一族のことが地元のひとたちの記憶から消えたことを物語っている。
ところが宮田村の遠祖のことを、地元から離れた一族のなかでは伝承されていたのである。桂信子が父から受け継いだ「幻の城」の話である。その伝承を大切にし、遠祖に思いを馳せた彼女の行動や文章が「宮田城址」を今に蘇らせたといえるかもしれない。彼女の訪問をきっかけにして宮田村のひとたちの心が動き、のちに城址の整備などがすすめられることになったのも、彼女の語る伝承が地元のひとたちの記憶の扉を開けたからにちがいない。
桂信子は平成16(2004)年12月に永眠する。
このころから宮田城址保存会が登城道の整備を本格的に始め、案内板や主郭に宮田氏慰霊碑も設置された。冊子『宮田城址-戦国時代の山城-』(2008年)には、城址保存会の活動だけでなく、地元のひとたちと彼女の弟子たちとの交流も詳しく綴られている。やがて没後2年、平成18(2006)年11月13日に彼女の句碑が宮田城址近くの真慶寺にたてられ、彼女の位牌も同寺に安置されることになったという。副碑を読むと、彼女の足跡につづいて、句碑が宮田村にたてられた縁について「父丹羽亮二の祖先が、宮田城城主宮田左近正親房であったという縁により」と刻してある。
句碑は、地元から消え去った記憶や伝承をふたたび蘇らせただけでなく、これからも新たな縁を生み出すちからになると信じたい。
句碑(長野県上伊那郡宮田村 真慶寺 2019年1月撮影)
追記
生前の桂信子は、自分の句碑がたてられることをあまり好まなかったそうだが、実際には幾つか建碑されている。句の末尾の[ ]内は詠まれた年。
○「勝尾寺」(大阪府箕面市) 昭和62年
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 [昭和23年]
○「八幡神社」(奈良県吉野郡東吉野村鷲家) 平成9年
おのづから伊勢みちとなる夏木立
○「若宮公園付近」(高知県長岡郡本山町) 平成10年
ぽんかんの皮のぶあつさ土佐の国 [昭和51年]
○「真慶寺」(長野県上伊那郡宮田村) 平成18年
信濃全山十一月の月照らす [昭和35年]
参考(前回の記事に載せたものも再掲した)
『この世佳し-桂信子の百句』 宇多喜代子 ふらんす堂 2017年
*宮田村関連では39~40頁を参照した。
『宮田城址 戦国時代の山城』 宮田城址保存会 2008年
『桂信子文集』所収の「信濃紀行」(182~191頁)
『桂信子全句集』所収の「年譜」欄
『宮田村文化財マップ』 宮田村教育委員会 平成24年発行
『宮田村誌 上』 村田村誌刊行会 昭和57年
『宮田村誌 下』 同 昭和58年
『伊那の古城』 篠田徳登 ほおずき書籍 2010年改訂版
『伊那の文化財』 宮田村教育委員会等発行 1989年・電子版2010年