俳人 桂信子

2019年1月15日 (火)

桂信子と信州 -2-

宮田氏や宮田城址について、前回の記事にも「参考」としてあげた文献や冊子を読んでみると、宮田氏が中世にこの地域で勢力をもっていたことは数々の史料で確認できるのであるが、他方、居館を含めた城址遺跡に関する文献や地元における伝承はなかったという。
だが城山(じょうやま)といわれる城址は、空堀、陣場、主郭構造が確認されており、これまでの調査で発見されている灰、炭、釘、天目茶碗片等の遺物によって山城であったことは確かであり、その築城の時代や築いた人物は文献による裏付けができていないものの、中世にこの地域を根拠地とした宮田氏のものであると考えて間違いないようだ。他方、宮田氏の居館跡については釈迦堂跡などの有力な候補地が幾つかあるもののいまだに確定できていない。

おそらくあるときから宮田一族が地元から全く姿を消し、ひとびとのなかでは一族のことも語り継がれなくなって、城址や居館跡の存在すら忘れ去られたのであろう。『宮田村誌 上』(428頁)も「地元における宮田氏に関する遺跡や傳承はつまびらかでなく」と記しているのは、宮田一族のことが地元のひとたちの記憶から消えたことを物語っている。
ところが宮田村の遠祖のことを、地元から離れた一族のなかでは伝承されていたのである。桂信子が父から受け継いだ「幻の城」の話である。その伝承を大切にし、遠祖に思いを馳せた彼女の行動や文章が「宮田城址」を今に蘇らせたといえるかもしれない。彼女の訪問をきっかけにして宮田村のひとたちの心が動き、のちに城址の整備などがすすめられることになったのも、彼女の語る伝承が地元のひとたちの記憶の扉を開けたからにちがいない。

桂信子は平成16(2004)年12月に永眠する。
このころから宮田城址保存会が登城道の整備を本格的に始め、案内板や主郭に宮田氏慰霊碑も設置された。冊子『宮田城址-戦国時代の山城-』(2008年)には、城址保存会の活動だけでなく、地元のひとたちと彼女の弟子たちとの交流も詳しく綴られている。やがて没後2年、平成18(2006)年11月13日に彼女の句碑が宮田城址近くの真慶寺にたてられ、彼女の位牌も同寺に安置されることになったという。副碑を読むと、彼女の足跡につづいて、句碑が宮田村にたてられた縁について「父丹羽亮二の祖先が、宮田城城主宮田左近正親房であったという縁により」と刻してある。
句碑は、地元から消え去った記憶や伝承をふたたび蘇らせただけでなく、これからも新たな縁を生み出すちからになると信じたい。

 

Photo_2           句碑(長野県上伊那郡宮田村 真慶寺 2019年1月撮影)

追記
生前の桂信子は、自分の句碑がたてられることをあまり好まなかったそうだが、実際には幾つか建碑されている。句の末尾の[ ]内は詠まれた年。

○「勝尾寺」(大阪府箕面市) 昭和62年
   
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 [昭和23年]
○「八幡神社」(奈良県吉野郡東吉野村鷲家) 平成9年
   
おのづから伊勢みちとなる夏木立
○「若宮公園付近」(高知県長岡郡本山町) 平成10年

   ぽんかんの皮のぶあつさ土佐の国 [昭和51年]
○「真慶寺」(長野県上伊那郡宮田村) 平成18年
   
信濃全山十一月の月照らす [昭和35年]

参考(前回の記事に載せたものも再掲した

『この世佳し-桂信子の百句』 宇多喜代子 ふらんす堂 2017年
  *宮田村関連では39~40頁を参照した。
『宮田城址 戦国時代の山城』 宮田城址保存会 2008年
『桂信子文集』所収の「信濃紀行」(182~191頁)
『桂信子全句集』所収の「年譜」欄
『宮田村文化財マップ』 宮田村教育委員会 平成24年発行
『宮田村誌 上』  村田村誌刊行会  昭和57年
『宮田村誌 下』              同    昭和58年
『伊那の古城』 篠田徳登 ほおずき書籍 2010年改訂版
『伊那の文化財』 宮田村教育委員会等発行 1989年・電子版2010年

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2019年1月14日 (月)

桂信子と信州 -1-

Photo
 宮田村「真慶寺」近傍から南アルプスを望む(2019年1月)

昭和55年4月、桂信子は信濃毎日新聞にひと月前の3月末の宮田村訪問について紀行文を寄せた。その末尾に三句ある。

伊那に入る雪嶺そびえる山の奥
残雪の遠嶺を四方に伊那郡
(ごおり)
雄叫びの声囀りにまじりたる        

伊那宮田の地に根付いていた遠祖の人々に思いを馳せて詠んだものであろう。戦国の世、無念の死を遂げた先祖もいたにちがいないが、残雪の遠嶺に囲まれたこの地を訪ねると、長閑で平和な村であることに心安まる気がしているようにみえる。

この記事や、同じ年に書かれた「信濃紀行」(「俳句」6月号)にはおよそ次のようなことが記されていた。
昭和55年3月末、桂信子は新宿9時発「あずさ五号」で信州へ向かった。所用で上京した帰りのことであった。「上諏訪」で乗り換え、「駒ヶ根」で泊まったあと遠祖の地である宮田村を訪ねたのである。宮田村は彼女の遠祖の地であり、そこに祖先が築いた城があると小さい頃から父に聞かされていたが、それは幻の城であり、今までほんとうにあるかないのかもわかっていない。
一方、周囲のひとたちが最近しきりに自分の句碑を建てたがっているものの、当時の句碑ブームに違和感をもつ彼女は断り続けた。だがあくまで建碑を強行しようとする声に抗えず、宮田村にある遠祖の城跡がほんとうに残っていたなら、しかも自分の没後ならばという条件で「信濃全山十一月の月照らす」の句を建ててよいということにした。彼女は幻の城跡はないだろうと思っていたが、周囲のひとたちは、「ではそれを探しに行きましょう」と言い出し、ついに信州行きになったという。
実はこの旅行の直前、彼女は朝日新聞に「近況」として宮田村訪問を予告する文を寄せていた。これを見たひと、新聞社や出版社などが事前の協力を申し出たり、現地での調査を助けたりもした。ちょうどそのころ宮田村では『村誌』が編纂されていることもあって、村のひとたちも彼女の調査に一役買うことにつながったのである。

彼女は地元の研究者や郷土史家などど交流し、城址にかかわる幾つかの情報を知ることができた。ただし宮田城の跡らしい場所は以前から調べられてはいたものの、城址の存在を裏付ける決定的な「文献史料」は見つかっていなかった。
幻の城、宮田城は、ほんとうの決め手のないまま、今も私の胸のうちにある。当分は句碑のたてる場所はきまらないであろうということが私を安心させた」のであった。

だがやがてこの遠祖の地に、彼女の句碑がたてられることになった。

Photo_2
宮田城址といわれる城山(中央)。その東麓(手前)には中央道が走る。
写真左側の住宅地あたりが「釈迦堂跡」で、宮田氏の居館跡と推定され
ている幾つかの候補のひとつである。

参考
『宮田城址 戦国時代の山城』 宮田城址保存会 2008年
 *「信濃毎日」の記事は、このパンフレット(11頁)にある記事の
  写しを参考にした。
『桂信子文集』(前掲)所収の「信濃紀行」(182~191頁)

『宮田村文化財マップ』 宮田村教育委員会 平成24年発行
『宮田村誌 上』  村田村誌刊行会  昭和57年
『宮田村誌 下』              同       昭和58年
『伊那の古城』 篠田徳登 ほおずき書籍 2010年改訂版
『伊那の文化財』 宮田村教育委員会等発行 1989年・電子版2010年
『桂信子全句集』(前掲)所収の「年譜」欄

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2019年1月 9日 (水)

桂信子と岐阜

『月光抄』にふるさとを詠んだものが何句かある。昭和19年。

ふるさとはよし夕月と鮎の香と  

母ときてふるさとに吊る秋の蚊帳

『晩春』にも。昭和33年。

ふるさとの座布団厚し坐り切り

澄む水に燕まぶしき長良川

夕映えの一村囲む桑若葉

母生まれし家を自在やつばくらめ


また散文にもしばしばふるさとのことがでてくる。
句集『緑夜』に「川のながれ」と題する文章が収められており、父母のふるさとの長良川や鮎についてすこしふれている(『桂信子全句集』 342頁)。
さらに『桂信子文集』には、かつてまとめられた散文集『草花集』(昭和50年刊)が収められており、そこに「縁-岐阜の思い出-」が載っている。もともとは岐阜の俳誌『青樹』に寄稿したものだが、幼いころ岐阜の父母それぞれの実家に行ったときの回想や長良川と鮎のこと、さらに岐阜の各地に今も住む親戚のことなどが記されており、「私は大阪生まれだが、岐阜をわがふるさとと思いさだめているのである」と結んでいる。遠祖と深い関わりがある伊那の宮田村とともに、岐阜も父母の思い出とつながる忘れがたいところだったのである。

だがふるさと岐阜の、すぐそれとわかる具体的な地名はほとんど書かれていない。もとよりその地名についてこまかく穿鑿することは控えたいが、「わがふるさとと思いさだめている」ところはいったいどこだったのか、地元岐阜生まれの自分としては気になるところではある。
実は「縁-岐阜の思い出-」で、父の実家が「小藪」という地名であったこと、そして母の実家の隣が「円空上人」の生誕地であったことなどがわずかに記されている。そのことからすると、両親の実家はそれぞれ、父が現在の羽島市桑原町、母は羽島市上中町ではないかと推測できる。父がやがて岐阜を離れて大阪の丹羽家に養子に入ったことは前回の記事でもみたが、実は母も岐阜生まれであることがわかり、彼女が岐阜をふるさとだと思いさだめたことがいっそう実感できたのである。そこで年があらたまった先週末、自分の従姉も暮らしている羽島市まで足をのばしてみた。

父親の生まれたところは今の羽島市の南端であり、長良川と木曽川が背割堤に沿って併流する手前の地である。そこは古くから人々が川の流れを変えたりするなど、洪水と格闘してきたところであり、築堤のために村が川を挟んで分断されることをも受け入れた地域であった。またそこから5㌔余り北の母親の実家あたりは、句にもあるように当時桑畑に囲まれた農村であったが、今はそのすぐ北側に新幹線や名神高速がとおり、田畑は残るものの市街地化がすすんでいるようにみえる。
訪ねた日は快晴ではなかったけれども、見通しは悪くなかった。とりわけ桑原町付近の堤防から北東方面には、冠雪の御嶽山が浮島のように目の高さに見え、東には牛が横たわっているかのような恵那山もかすかに望むことができる。また西に目を向けると、山頂を雪雲が足早に駆け抜けている伊吹山の姿があり、眼下の長良川や木曽川は、流れることを忘れてしまったかのように沈思黙考していた。

伊吹山を詠んだ句のひとつ。

母指す伊吹に雪がてのひらほど 昭和32年 『晩春』

これは岐阜の実家から、あるいはたとえば列車から見えた風景だったのかわからないが、自分としては西から見た伊吹山ではなく、芭蕉も気に入っていたという濃尾平野からの風景であってほしいと願うばかりである。(芭蕉と伊吹山のことは以前に丈艸のこととあわせて記事(→✧)にした。)
ふるさとを岐阜と思いさだめた彼女が、母の指さす伊吹山を詠んでいたことは何よりもうれしいことである。

*冬の伊吹山と御嶽山
(羽島市桑原町付近の長良川河畔にて 2019年1月撮影)
Photo
    
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参考
『青樹』 青樹社 昭和50年1月号
『桂信子全句集』  ふらんす堂 2007年
『桂信子文集』    ふらんす堂 2014年

    

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2019年1月 7日 (月)

桂信子の遠祖

年末、友人たちと会うため久し振りに名古屋へ出た。携帯した文庫本(『桂信子』自選三百句[春陽堂])を電車のなかで開き、今の季節に詠まれた句をボーッと眺めていた。

ひとひとりこころにありて除夜を過ぐ  『女身』(昭和30年刊)

忘年や身ほとりのものすべて塵         『樹影』(平成3年刊)

ふたつの句の間には、ほぼ40年ぐらいの時が流れている。『樹影』などの後期の句は、以前はあまり心を寄せることがなかったのに、いまこの句を眺めていると、自分の「身ほとりのもの」をあらためて見直したくなるし、ふだんの自分がいったい何に心を向けているのかについても考えさせられる。

この文庫本の句集は今から10年ほど前に手に入れたものだが、彼女が岐阜や長野に縁のあるひとであることをこのときはじめて知り、とても身近なひとにおもえたのである。
はじめに対談が載っている。
彼女は結婚する前は「丹羽」姓であった。ところが父親のもともとの姓は「宮田」であり、大阪の丹羽家の養子となって、生まれ故郷の岐阜を離れた
のである。
その宮田家の先祖について、対談相手の村上護氏が「
信濃全山十一月の月照らす」の句を話題にして、「先祖は伊那宮田の城主だったとか」と話を向けたときに彼女が答えている。

信玄に負けて、そこから逃げるわけです。川中島の戦がすんでから、信玄が駆け付け、八人の領主を呼び出して狐島で惨殺した。これは『甲陽軍鑑』にも出ています。その首塚が伊那の奥の高遠の、そのまた奥の長谷村というところにありまして、"八人塚"といって、今でも長谷村で毎年六月に供養しているので、私も行くのですが、私の先祖は領主が殺されたあと危険を察知して岐阜に逃げるんですね。皆、逃げてしまっていますから、宮田村には全然"宮田"という姓の人は残っていないのです。それからしばらくして岐阜で織田信長に仕えた人があって、本能寺の変で信長と同じ日に亡くなっているんです。宮田彦治郎家利といって『信長公記』に名前が出ています。岐阜に住むようになってから、今で十四代目位です。

追記
    私のもっているこの版(初版)では「宮田彦治郎
    とあるが「彦次郎」の誤植とおもわれる。

宮田彦次郎は本能寺の変のとき、信長の跡継ぎ信忠とともに二条新御所で討ち死にしている。その末裔が今でも岐阜で暮らしており、さらに宮田家が信州にあったころの遠祖は、今の上伊那郡宮田村を本拠にしていた城主だったというのである。上の対談で彼女が話したことは、『桂信子文集』(
ふらんす堂 平成17年)のなかにある「信濃紀行 -わが幻の城始末記」と題された文章などにも記されているが、彼女と宮田村の深い関わりについては「桂信子と信州」であらためて述べる。
しかしそのまえに、彼女の父そして母の実家のあった岐阜のことにふれねばならない。ふるさと岐阜を詠んだ幾つかの句とともに次回みる。

参考
『桂信子 自選三百句』 春陽堂俳句文庫 平成4年
『桂信子文集』 ふらんす堂 2014年

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