2023年8月15日 (火)

岐阜空襲のB29搭乗員

岐阜空襲のことは、毎年とくにこの時期地元のメディアを中心によく記事にされている。

今年の幾つかの記事のなかで注目したのは、6年前の2017年にこの自分のブログで記したことのあるB29搭乗員の手記について取り上げたものだった。
その記事は、8月8日の中日新聞朝刊のほかにWeb上でも見ることができる。
  〇東京新聞Web 2023年8月4日配信 無料記事 
  〇中日新聞Web    同年8月8日配信 

6年前このブログで記したのは、岐阜空襲などに従事した二人のB29搭乗員だったが、ひとりは今回の記事にもなった航法士 Rowland E. Ball氏であり、もうひとりは別のB29の機長であった Raymond B. Smisek氏 である。
 →カテゴリー「岐阜空襲」の特に(1)~(5)、坂下の空襲 参照
*上をクリックするとカテゴリー「岐阜空襲」に移動します。

ボール氏やスミセク氏のことを知ったのは8年前の2015年のことであった。そのころ岐阜空襲に参加したB29搭乗員が何か書いていないかどうかを調べるため、退役米軍人の「戦友会」のサイトを片っ端から探していたのだが、ある日 B29の航法士だったボール氏の岐阜空襲体験手記を見つけたのである(※ 39th Bomb Group )。さらに岐阜空襲に参加したスミセク機長については、その子息がサイトを作っておられ、岐阜空襲から帰還後の写真なども見ることができた(→330th Bomb Group)。

とくにボール氏のことを調べてみると、実は以前から日本でもよく知られていた人物だったのである。

たとえば、甲府空襲の体験者であった元日本航空機長の諸星廣夫氏が空襲の実相をパイロットの視点で調べるなかで、甲府空襲にも従事したボール氏と交流しておられ、そのNHK番組でボール氏はインタビューにも応じている。諸星氏の体験は甲府市の「山梨平和ミュージアム」にも展示などがあり、甲府空襲についての著作もある。
また、ボール氏をインタビューしたビデオが「国立第二次世界大戦ミュージアム」(→※The National WWII Museum New Orleans)のデジタルコレクションにあり、視聴することができる。この一時間にわたるインタビュービデオの終わりの方では、岐阜空襲時の体験も詳しく語られている(55:45~)
さらに当時偶然個人的に知った岐阜市在住のアメリカ人も、ボール氏とのあいだで日本への空襲について何度もメールで議論をしていたこともわかった。

今回の新聞記事では、ボール氏の遺族が新聞社に手記を提供(公開)したと記されているが、このブログでも取り上げたように同じ内容の彼の「岐阜空襲体験記」は上記の米軍退役軍人の戦友会サイトでずいぶん前にボール氏が記したものである(おそらく2001年にはサイトに公開されていたと思われる)。

また彼の手記は、今は記されていないが「岐阜空襲」の日本版Wikipediaにはボール氏の体験記のサイト名が参照元として一時期照会されていたようだし、英語版 Wikipedia の岐阜空襲についてのサイト(→※Bombing of Gifu in World War II)の末尾には、今現在も彼の手記は以下のような参照項目として掲載されている。
※Noteの3
   Crew 3's Account of Gifu Mission. 39th Bomb Group Association. Accessed July 13, 2007. (in Japanese)

日本を空襲したB29などのパイロット自身が、当時の体験を語ったり文字にした例は少ないと思う。ボール氏とともにこのブログで取り上げたスミセク機長は戦争によって心に傷を受け、戦後は戦時のことをほとんど話さなかったし、戦友とも会わなかったと子息は書いている。
公刊された著作物について調べたことはないが、しかし退役軍人の戦友会サイトなどにはまだそうしたB29搭乗員の体験記が幾つもあるかもしれない。

それにしてもまだ調べてみたいことがある。
ボール氏のB29がトラブルのために岐阜上空で落としきれなかった焼夷弾はどこに落とされたかである。ブログにも記した[→坂下の空襲および岐阜空襲(4)]が、日本側の記録(坂下町史など)をもとに推理すると、現在の岐阜県中津川市坂下に落とされた焼夷弾(死者2名)の可能性があるものの、確証は得られていない。
岐阜上空から帰還するB29は恵那山の北側で南下する航程をとったはずだから・・・。

そしてもうひとつ。岐阜空襲時に迎撃を行った日本機の所属部隊のことである。陸軍飛行第五戦隊機だったのだろうか・・・。


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2022年8月15日 (月)

犬山の空襲(4)

(承前)
岐阜空襲や名古屋空襲などは以前に少し調べたことがあった。しかし自分が住んでいる場所からそう遠くないところにある身近な施設が、戦時中に米軍側の攻撃すべき対象としてリストアップされ、何度も攻撃を受けていたという事実は全く知らなかったのである。
もちろん大規模な施設ではないし、ここだけを攻撃目標にして空襲したわけではなかっただろうが、犬山変電所への第1回目の攻撃のあった1945年6月9日には、市民の体験談にあるように今の犬山市に該当する地域が機銃による攻撃を受け、けが人があったり火災も起きていた。

このちょうど1か月後の7月9日深夜から10日にかけて岐阜空襲があり、米軍機の焼夷弾は父の実家を焼失させた。そして当時郡上八幡で働いていた17歳の母はその空襲の夜、近所のどよめきに目が覚め宿舎の外へ飛び出した。「真っ赤に染まった南の空を眺めながら体が震えたんだよ」と母は幾度も話をしてくれたのだった。
きのう久しぶりに変電所の周囲を散歩しながら、そんな母の話を思い出していた。
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2022年8月13日 (土)

犬山の空襲(3)

*この記事はもう一つのブログ「フクロウ日誌」と重複します。

(承前)
米軍の攻撃目標とされた犬山変電所は、木曽川水系で発電された電力を名古屋地区だけでなく、むしろ関西地区へ供給する重要な役割をもっており、その送電ラインは当時も現在も大阪の変電所(八尾など)へつながっている(なお八尾変電所のある八尾市は度々空襲を受けており、2013年には変電所で戦時中の不発弾が発見されている)。その意味で愛知県内の幾つかの電力施設のなかでも、犬山変電所は米軍にとって戦略上重要な場所のひとつであった。

犬山変電所への攻撃について知るため、USSBS(米国戦略爆撃調査団)の報告書の一部を眺めてみた。電力関係の専門用語が多く出てくるので正確に解釈できない箇所も多いが、概略は理解できる。
その資料は以下のAとBの二つである(どれも国会図書館のデジタル資料として簡単に閲覧できる)。

The Report for Damages  by Air Force at Inuyama Sub-station
 (October 1945 Inuyama Substation)
この資料は英文手書きで、用紙は「日本發送電株式會社」の文字が入っている。犬山変電所への4回の攻撃毎の損害状況、1942~1945年の電力供給推移のグラフ が記されている。米軍側が現地で聞き取りした際の一次資料であろう。 

USSBS THE ELECTRIC POWER INDUSTRY OF JAPAN
 (Plant Report)
 〈Erectric Power Division Dates of
 Survey 9 October--3 December 1945

  Date of Publication:May 1947〉 
これは米軍の爆撃・攻撃が日本全国の火力および水力発電施設や変電所へ与えた損害などに関する最終的な報告書である。犬山変電所の状況(解説は131~132頁、表と写真は137~140頁)についてもA資料をもとに整理され、わかりやすくまとめられている。

犬山変電所への米軍機による攻撃は、両資料によると以下の4回(4日)であった。いずれも1945(昭和20)年6月から8月であり、7月30日には機銃だけでなく爆撃もあったという。

①6月9日午後12時56分:1機のP-51による機銃攻撃
②7月15日午後1時05分:2機のP-51による機銃攻撃
③7月30日午前7時35分:4機のP-51による爆弾投下と機銃攻撃
④8月14日午後12時53分:2機のP-51による機銃攻撃

①、②、④は、犬山変電所を攻撃した戦闘機の正式な報告・記録は無いとのことであるが、たとえばB-29の掩護機としての硫黄島のP-51が帰還航程で行った攻撃、あるいはP-51の戦隊のみで行った各務原や名古屋周辺への攻撃の一環だった可能性がある。ただし③については、日本側の現場職員からの聞き取りではP-51(陸軍機)と報告されたのだが、実はそうではなく海軍機(艦載機)だった可能性を示唆している。理由は当日名古屋周辺の4箇所に攻撃を行った海軍機の記録があったためである。
下は、B資料の140頁にある犬山変電所の写真である。木枠に砂を入れた「防爆壁」が変圧器等の周りに設置されており、変電所としても米軍の攻撃から施設を守るための対策をしていたことがわかる。
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これら二つの報告書には、機銃攻撃などによって施設にどのような損害があったのかが攻撃の日毎に詳しく調査されているが、すべてを記すのは煩雑になるので、一例として①の攻撃の被害だけをみる。この日は前々回(1)の記述にもあったように、現在の犬山市に該当する何箇所かの地域で銃撃による損害が出ていた日である。

①1945年6月9日午後12時56分攻撃。1機のP-51の機銃による損害。
〇1次被害:送電線2本の断線、東側変電所の壁・戸・窓に計15カ所の弾孔(壁の弾痕は22カ所)、変圧器1器損害、変流器1器に1弾孔
〇2次被害:変圧器1器(高電圧による短絡〈ショート〉)

これら被害の聞き取りをされた変電所職員は、攻撃のあった日毎に細かな被害状況を記録していたのであろうが、とくに弾痕や弾孔の数までもが記録されていたことに少々驚いたのである。
4回の攻撃全体をみると、施設の各箇所に毎回損害を与えてはいるが、変電所全体を壊滅的に破壊するほどのものはなかった。しかし4回目の8月14日の攻撃の結果、主変圧器を修理する必要が出たため、東側の変電所施設は機能停止となったという。
なお報告書では、機器や施設の損害は記録されているが、職員などの人的被害についてはとくに何も記されていない。
次回(4)は最終回。

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2022年8月 3日 (水)

犬山の空襲(2)

*この記事はもう一つのブログ「フクロウ日誌」と重複します。

(承前)
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上は米軍の資料「空襲目標情報」(Target location sheet)にある犬山変電所の航空写真(大小2つのスケール)である(出典::Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 47, Security-Classified Joint Target Group Air Target Analyses, 1944-1945 = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 空襲目標情報 123コマ目)。
その施設を現在の地図で確認する(拡大縮小可)。

空襲当時の施設名は、米軍資料では「日本發送電株式会社(1939-1951)犬山変電所」であったが、現在は「関西電力送配電株式会社犬山送電センター」である。なお地図を拡大するとわかるが、隣接して西側に「中部電力パワーグリッド羽黒変電所」が併設されている(長野・岐阜の木曽川本流の発電用水利権は長野県内の支流も含めすべて関西電力が持っている)。
さらに、敗戦後すぐではないが、1947年に米軍が撮影した犬山上空からの写真(トリミング加工したもの)も下に載せておく(拡大可)。現在と違い、とくに変電所の東部や北部には集落が無く、田園地帯が広がっていることがわかる。(写真は国土地理院航空写真:米軍撮影昭和22年10月13日 19471013USA-M550-1-78 をトリミング加工したもの。)

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次の写真には、変電所とともに右端後方に尾張富士が写っている。

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この写真は敗戦後間もない頃(1945年末か)の犬山変電所であり、これを含む何枚かの写真は、「米国戦略爆撃調査団』(USSBS)の報告書」のひとつ『Electric Power Industry of Japan』(1947年5月)に掲載されている。
このUSSBSの調査期間は1945年10月から12月であり、報告書は、日本の発電および電力供給施設について、戦争中に米軍による攻撃がどのような効果・損害をもたらしたかをまとめたものだった。

次回は上記報告書の一次資料も含め二つの米軍資料をもとに、当時の犬山変電所への4回にわたる米軍攻撃の実際を詳しくみることにする。
なお下は現在の変電所の写真。撮影の高さは違うが、右端に尾張富士が写っているので上掲米軍写真と比較できる。
2022年8月3日撮影(犬山市立東小学校南の農道より)
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2022年8月 2日 (火)

犬山の空襲(1)

*この記事はもう一つのブログ「フクロウ日誌」と重複します。

毎年のことだが8月が近づくとブログへのアクセス数が急に増え、コメントも幾つかいただくことがある。その大半は私の父の世代の孫にあたる方からであるが、戦地へ赴いた「祖父」について情報を探しておられる方が大半である。
また、幼い頃に祖父母から聞いた記憶のある空襲について記してくださる方も多い。私の父の実家を焼いた岐阜空襲(1945年7月9日)についても、以前記事にしたのでコメントも幾つかいただいたことがある。

ところで「空襲」に関していえば、名古屋、岐阜のように大規模なものは犬山にはなかったため、これまでほとんど関心はなかったが、最近になって少し調べてみようと思い立った。

まず『犬山市史』の通史編下を紐解いてみると、第1章の項目に「本土空襲」があり、1頁余りの記述の中に犬山への空襲(機銃掃射)について触れられていた。しかしその記述は『楽田村史』からの引用が大半であった(楽田村は現在の犬山市南部地域)。
そこで『楽田村史』を見ると、空襲に関する「日誌」(?)が20頁ほどあった。「Ⅴ 大東亜戦争米軍機空襲状況」の題目で、昭和17年7月4日から昭和20年9月2日までの空襲や出来事が日付入りで短く綴られている。〈しかしこの記録は誰(あるいは何か公的機関)が記録したものなのか出典がない。〉
この「空襲状況」のなかで犬山地域への空襲が初めて記録されたのは昭和20年6月9日のことであり、上記『犬山市史』の犬山への空襲もこの記録から引用されている。その6月9日の記述を下に引用する。

一、同年(昭和20年)6月9日午前11時半空襲警報あり 12時半頃より米機30名古屋へ侵入 熱田工場地帯爆弾投下消失 死者千余人あり 午後1時空襲警報あり2時小型機50機来襲犬山方面より東へ転向す 此時小型機各務原飛行場、犬山、五郎丸、羽黒等を機銃掃射す 内久保、久保一色等低空飛行スレスレ射撃内久保2戸、小林竹松、小島照一の2戸4棟をも炎焼、負傷者もあり『楽田村史』44頁

文中下線部が現在の犬山市に含まれる地域であり、犬山市の南にある久保一色(現在の小牧市)への攻撃についても記されている。内久保地域への機銃掃射では建物が燃え、負傷者もあったことがわかる。

実は上記史資料のほかに犬山市への空襲について記された文献がある。
「学校史」以外のものでいえば、たとえば
〇犬山市役所総務部企画課発行
「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて」1995年
〇犬山市役所総務部企画課発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」平成9年
などであるが、これらのうち、「平和を願って」の中に、上記引用の6月9日の空襲について記したものがある。内容は上記引用の内容とほぼ同じであるが、それ以外に、五郎丸地区にあった陸軍被服廠軍靴製造工場が米軍機の機銃掃射を受け、その工場に学徒動員中の犬山高等女学校(現犬山高等学校)生徒78名が危うく難を逃れた話が載っている。

さて、以上の日本側諸資料に記された1945年6月9日の犬山地域などへの空襲(米軍小型機による機銃掃射等)について考えてみると、はたして米軍側は闇雲に、いわば無計画に犬山市への攻撃を行ったのだろうかという疑問がわいたのである。
軍事的要衝への攻撃のついでに米軍機は犬山に立ち寄った、その程度の攻撃だったのだろうか・・・。

そんなことを考えながら、米軍側の資料を探してみることにしたのである。
すると、今住んでいる自宅からわずか1㎞離れた或る「施設」(それは今も稼働している)が米軍にとって重要な攻撃目標のひとつであり、実際に何度も攻撃をしていたのだ。あの6月9日も、である。(2)へ
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2021年8月12日 (木)

コメントについて

(再掲)

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ただしメールアドレスを記入していただいた方には、すべてではありませんが、個々に返信メールをお送りしております。
今後ともよろしくお願いします。

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2021年3月11日 (木)

満蒙開拓青少年義勇軍(2)

田中中隊長の日記をもとに、叔父の行動を追ってみる。

1944(S19)年 
3.13  故郷(郡上)から岐阜市へ集合(東・西本願寺別院)。
 14  岐阜の伊奈波神社で結団式。さらに県庁で知事の激励。
         凱旋道路(今の平和通り)を行進して岐阜駅へ。
 15  茨城県東茨城郡赤塚駅到着。
   内原訓練所河和田分所の「日輪宿舎」に入る。
 16  入所式。弥栄広場で加藤完治所長から訓示。
          
4.12  馬鈴薯の芽植などの農事訓練始まる。
5. 7   渡満のため河和田分所・内原駅を早朝出発。
   (午前?)8時10分名古屋駅停車。約8分家族と面会。
  8   朝、広島県西条訓練所に入所
 13  西条を発ち下関到着
 14  下関港発。ソ連の機雷流るとの情報のため警戒。
    8時間かけて釜山港着。特別列車で満洲へ向かう。
 16  奉天駅途中下車。奉天神社参拝。午後出発。
 17 ハルピン(哈爾浜)駅着。哈爾浜訓練所入所。

14歳の叔父は、郡上を発って茨木県の内原で訓練を受け、2か月後に内原から広島の西条経由で下関に向かった。途中、名古屋駅停車時に8分間家族との面会があったと記されているが、叔父が家族と会ったかどうかはわからない。5月だから農繁期かもしれないし、実家に男手は祖父しかいなかったから多分家族の見送りは無かったであろう。
満州に入り、奉天に寄ってからハルピン(哈爾浜)で再度訓練を受けたことがわかる。
************************************

※この記事については、前回に続いてまだ2回目ではあるがいったんここで中断し、折を見て再開することにします。

                               

         

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2020年12月 8日 (火)

満蒙開拓青少年義勇軍(1)

Photo                        田中中隊之碑「拓魂碑」 (岐阜公園 2018年撮影)

〈ちょうど2年前の記事「満蒙開拓青少年義勇兵」(→★)で、母の弟が14歳のとき義勇兵として満州に派遣されたことに触れました。その記事の続きです。生前叔父からは当時のことを詳しく聞く機会はなかったのですが、母の話と資料(『岐阜県満洲開拓史』 岐阜県開拓自興会 1977年 )などをもとにして当時の足跡を辿ってみます。〉

叔父の所属していた部隊は「満蒙開拓青少年義勇軍」の「岐阜郷土 田中中隊」であり、茨城県内原の訓練所では「岐阜第44中隊」の名称がつかわれた。そもそも満州に青少年の義勇軍が送られたのはなぜか。
1932(昭和7)年の満州国建国以来、関東軍が中心となって農業移民事業を取り仕切っていたが、1937(昭和12)年、日中戦争が始まると移民計画は滞った。そこへ同年「満蒙開拓義勇軍創設」の建白書が出され、青少年を開拓団の防衛や開拓事業の推進のために送り込もうとしたのである。ただし義勇軍に関する詳細はここでは触れない。あくまで叔父の属した義勇軍についてのみメモする。

戦争末期1944(S19)年3月、14歳の叔父は和良村の小学校を出てすぐに義勇兵となったが、母の話では、志願と言うよりも学校や村の推薦というかたちをとり、ほぼ強制だったという。
茨城県の内原には訓練所が3箇所あった。叔父は「内原訓練所河和田分所」に入所した。なお29歳の田中隊長は妻を伴い、他の幹部四人のうち、33歳と31歳の二人は妻・家族も同行し、子どもは5人(4歳二人、2歳二人、1歳一人)で、他に24歳の応召者二人も加わった。一般隊員(訓練生)は14歳から17歳までの男子で、岐阜県各地から集められた227名であった。
その年齢層をみると、14歳208名、15歳8名、16歳10名、17歳1名となっており、今で言えば中学2年生ぐらいの少年が大半を占めていたことになる。
出身地は、郡上郡が42名で最も多く、恵那郡、土岐郡、加茂郡がいずれも30名を超えている。

次回、叔父の足跡について田中隊長の日誌などをもとに詳しく辿る。

 

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2020年7月21日 (火)

今後について

このブログ「海の陸兵」の今後について一言。

まだまだ調べてみたいことが多いのですが、残念ながら今の情況では図書館や資料館の利用も制限されていたり、行ってみたい場所も見ることができないような日々です。さらに個人的事情もあって、今年10月ごろまでしばらく記事の更新は控えることにしました。
ただしコメントへの対応は続けます(なお頂いたコメントはすべて非公開としますのでご了解ください)。

これまでに連絡やコメントをお寄せ頂いた方々にあらためてお礼申しあげますとともに、今後とも何卒よろしくお願いいたします。
(なおもうひとつのブログ「フクロウ日誌」は続けています。)

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2020年4月12日 (日)

将校集会所(2)~ 飛五の機種改編 ~

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将校集会所エントランス(旧各務ヶ原飛行場・現航空自衛隊岐阜基地)
Nov./2018

記:訂正更新(字句修正等)2020/07/01

将校集会所(1)承前


山下美明氏はその手記(*1)のなかで、「屠龍(キ45)」が飛五にはじめて配備された日のことを懐かしく次のように書いている。

昭和十七年三月下旬のある日、私は飛行第五戦隊の第二中隊長として、千葉県松戸町郊外にある松戸飛行場で帝都防空の任務についていた。早春とは名のみで、まだ吹く風の冷たい日であったが、この日に屠龍(二式複戦、当時はまだキ45といっていた)が三機、はじめてわが部隊に機種改編のため到着することになっていた
《 
空輸してきた須賀中尉たちと挨拶する間ももどかしく、すぐに未修教育を受けるための説明をはじめてもらったが、説明のあいだにも私の目はキ45に吸い寄せられていたのである。中略)須賀中尉が説明をつづけるあいだに諸点検をおえたキ45は、燃料の補給をおえるのを待ちかねるようにして、さっそく私が第一番に飛ぶことになった

どこで受領されたのか氏は書いていない。しかし渡辺洋二氏によれば(*2)、この三機は川崎の岐阜工場のある各務ケ原飛行場で受け取ったものであり、その任務には第一中隊から須賀貞吉中尉、松井孝准尉、第二中隊から百冨貢准尉が各務ケ原へ赴いたという。あくまで想像だが、この時ひょっとしたら彼らはこの「将校集会所」にも立ち寄って休憩していたかもしれない。
この回想記は飛五に新しい機種が導入されたときの小さなエピソードであるが、受領のときの感動は戦後になっても山下氏にとっては忘れがたい想い出であったのだろう。実は屠龍受領から1か月後の1941(昭和17)年4月、米軍のB25による本土初空襲(いわゆるドーリトル空襲)があったとき、山下、須賀、百冨らの操縦する屠龍三機が松戸から飛び立ったものの会敵できすに終わっている(*1、*2)。
やがてその年の夏に飛五の全機が屠龍に機種変更となり、翌昭和18年に戦隊は柏から豪北方面へ移ることになる。そして1年後の昭和19年夏に飛五が南方から再び本土に戻ると、あらたに戦隊長として山下氏が着任し、愛知県の清洲飛行場を根拠地にして飛五は中京地区の防空任務につくのである。

なお上述の須賀大尉(最終階級)は「陸軍航空士官学校少尉候補者21期生」(*3)であり、彼と同じ21期生で、やはり飛五隊員だった岡部敏男中尉(最終階級)は、1944(S19)年5月27日高田勝重戦隊長のもとでビアク島沖に出撃している。この出撃を含め、ビアク島の戦闘に関わることはいずれ詳しく記してみたいと思っている。
また、樫出勇大尉も21期生である。彼は戦争末期に「屠龍」で本土防空にあたり、B29迎撃について貴重な回想録を残している(*4)。


参考
〇*1
「偉大なる愛機「屠龍』で戦った四年間」 山下美明
       
『陸軍戦闘機隊』 光人社 2011年 所収
       *初出は雑誌「丸」1970年3月号
〇*2『二式複座戦闘機「屠龍」』渡辺洋二 文春文庫 2008年
                 *朝日ソノラマ版(1989年)
〇*3『修武台の光と影』
           
 (陸軍航空士官学校少尉候補者第二十一期生記念誌)
                 航空二一会 昭和58年10月
〇*4『B29撃墜記 夜戦「屠龍」撃墜王樫出勇空戦記録』  樫出勇
                   光人社NF文庫 2005年
    Photo_20200405190201
    将校集会所前の、たぶん
山茶花。
    この年の山茶花は至る所で開花が早く、
    しかも花が多かった。
    幹が太く、かなりの老木と見える。 Nov./2018


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2020年2月18日 (火)

飛五と映画『進軍』 1930(昭和5)年

前回の記事「将校集会所」の続き「その2」を書くべきところだが、少し後回しにして、昭和初期の「飛五」にもかかわる或る映画の備忘録

数年前から岐阜空襲、そして同時に飛行第5戦隊の足跡についても史料を探していた時、昭和初期の立川飛行場を舞台にした映画がつくられていたことを知った(『立川飛行場物語』三田鶴吉著)。それは1930(昭和5)年に公開された『進軍』(監督:牛原虚彦)で、主演は鈴木傳明、ヒロインが田中絹代だった。まさに飛行機の時代の幕が開いたころの作品である。
戦後三田さんは田中絹代に当時の思い出を聞きに行ったが、すでにこの映画の記憶は薄れていたらしく、ほどなく彼女も亡くなられた。


三田さんは、立川(飛行場)が映画の舞台だったと書いている。撮影には陸軍省が協力し、各地の飛行場、飛行学校などもロケ地となったのだろう。冒頭のクレジット・タイトルを見ると、「飛行第五聯隊」、「気球隊」、「飛行第一聯隊」、「飛行第七聯隊」、「所沢、下志津、明野」の各飛行学校、その他にも師団や幾つかの部隊名の文字がみえる。たとえば主人公が出征する場面では、千葉の「下志津飛行学校」の本部・正門が映し出されている(本部建物などから推断)。
映画はサイレントだが、中間字幕にヒロインの兄が「飛行第廾五(25)聯隊の大尉」の台詞がある。もちろん架空の飛行連隊名ではあるが、「五」の数字を入れたところに立川の飛五との関わりを思わずにはいられない。

この映画は1929(S4)年には制作が始まっていたと推定できる。当時の世相をみると、昭和3年に満州で張作霖爆殺事件、翌4年の10月にニューヨークの株式大暴落から世界恐慌が起こり、昭和5年にはロンドン海軍軍縮会議と条約調印及び統帥権干犯問題、そして映画公開の翌年には満州事変が始まっている。

映画の後半は戦闘シーンで占められているが、題名から受ける印象とは違い、全体の基調は後の戦時国策映画にあるような戦意高揚一色ではない。
出征する息子の身を案じる父母の姿は、木下恵介監督の『陸軍』(昭和19年)につながっている。田中絹代は『進軍』でヒロイン役を、そして15年後の『陸軍』では、母親役としてラストの名シーン(特に最後12分間)を演じることになった。
原作はアメリカ人 James Boyd。監督の牛原の履歴も興味深い。

参考
『立川飛行場物語』 三田鶴吉(既出)
『進軍』 昭和5年 松竹蒲田撮影所10周年記念作品 (DVD有り)
『陸軍』 監督木下恵介 昭和19年 (DVD有り)

 

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2020年1月 3日 (金)

コメントへの対応

このブログをお読みいただいた方へ

このブログをはじめてから、もうすぐ3年になろうとしています。これまで幾つかのコメントをいただきました。ありがとうございました。
しかし「コメント」欄のカウント数は常に0にしてあります(私の返信は除く)。コメントしていただいた何名かの方の希望もあり、コメントすべてを基本的に「非公開」にしてあります。コメント欄については、当分こうした取り扱いを続けていこうかと思っております。
ただしメールアドレスを記入していただいた方には、すべてではありませんが、個々に返信メールをお送りしております。
今後ともよろしくお願いします。

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2019年12月 8日 (日)

将校集会所(1)~ 飛五と各務ヶ原 ~

去年の11月、航空自衛隊岐阜基地恒例の「航空祭」に行った。
岐阜基地・各務ケ原飛行場の歴史については前に少し触れたことがある。
飛行第五戦隊の創設にも関係し、私の叔父が戦争末期に教導隊に在籍していたこともあって、やはり特別な意味をもつ飛行場である。当時の建物がいくつかまだ残っているので、改修(昭和63年)された将校集会所(大正9年)だけは是非見てみたいとこれまで思っていた。ふだんは申請が必要であるが、航空祭のときだけは一般公開で基地内を見学できる。
建物の南に樹木が植えられているため全体像はわかりにくい。東側からは、エントランスだけでなくバルコニーも垣間見える。ネット上では、内部を見学された方のレポートが幾つも拝見できるので、自分としては外観を見ただけで十分満足だった。

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          全景:正面に岐阜基地殉職者慰霊碑が建つ。
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           エントランス:大正期の建築様式を伝える。

飛五との関わりについて少し触れる。
大正期に各務ケ原の飛行第二大隊で訓練を終えて創設された飛行第五大隊(その後連隊→戦隊へ)は、立川や柏へ移ってからも各務ケ原との関係は続いた。昭和10年代に入り、一時期だけだが飛五が教育部隊として各務ケ原に移ったこともある。
また、開戦間もない昭和17年春、新しく配備予定の戦闘機を受領するために、各務ケ原飛行場へ飛五の隊員が出かけたことが記録として残っている。その戦闘機は、各務原の工場で組み立てられたキ45(「屠龍」)だった。

飛五の最後の戦隊長だった山下美明氏は、昭和17年当時、一時期中隊長として飛五に在任したことがあり、そのとき初めて飛五に二式複座戦闘機「屠龍」が配備された。彼はその配備の様子を戦後に回想している。
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2019年11月 3日 (日)

スマトラ島の家のこと

久しぶりにここへ来て、ゆっくり見たいものがあった。
この建物を初めて見たのは随分前のことになる。場所は犬山市にある「野外民族博物館リトルワールド」。(写真はすべて拡大可)
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これはインドネシア・スマトラ島からここに移築された家である。島の北部で水稲耕作を営むトバ・バタックといわれる民族の大きな高床式の家は、もともと戦後間もない1947年に現地で建てられたものだが、のちに犬山のリトルワールドへ移築されたのである。

家があった場所は、実は父の連隊が戦時中に1年ほど駐留していた「メダン」の南側に位置し、地図では民族の故郷「トバ湖」も確認できる。
興味深いのは、家の横壁に描かれている何枚もの絵のことだ。これらの絵を初めてみたとき、バタックの人々が戦前・戦中・戦後に遭遇した出来事と兵士としての父の体験とが重なり、或る感慨が胸を過ったのである。それが忘れられず、機会があればまた来たいと思っていた。
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絵は集落の様子、 村に起きた幾つかの出来事が描かれている。それらを子孫に伝える意味もあってこうした絵(絵巻物に近い)が描かれたのだと思う。たぶん家の主が19~20世紀に体験したことがもとになっているのだろう。
絵は、集落や人々の様子、スマトラ(インドネシア)を支配していたオランダ人、オランダ軍と日本軍の戦いの場面、オランダから独立したころの様子(なお正式な独立は建築後2年あとの1949年)などが断片的に描かれており、時系列はなんとなく理解できるものの、筋書きがあるようには見えない。だが、ここに住む人々とインドネシアが経験したひとつの時代の移り変わり、そして現地の人々がそれぞれの出来事をどう実感したかが素朴なタッチで描かれている。
絵をすべて載せることはできないので、オランダ軍、日本とオランダの戦いの様子、戦後の独立の様子が描かれたものだけを選び、絵のある横壁の下にある簡単な解説を参考にしてコメントを加えた。

右:拳銃を持つオランダ兵。下:整列するオランダ兵など
左:洋装の男女と伝統的衣装の男性。
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日本軍の戦闘機を撃つオランダ軍
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日本軍落下傘部隊の兵士を撃つオランダ兵
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右:家でお茶を飲む独立後の人々の様子。
左:オランダ兵と「独立・解放」を表す Merdeka の言葉。
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久しぶりにこの絵を見ながら、父の連隊の戦友会誌のことを思い出した。
そこにはスマトラ・メダンに駐留していたころの様子を回顧している文章も幾つかあったはずだ。


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2019年8月28日 (水)

小休止(9月)

PC の入れ替えや記事の整理のため、来月9月は記事の投稿を休止します(別ブログ「フクロウ日誌」も)。

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2019年6月26日 (水)

岐阜空襲 (6)

5月半ば、父方の親族と会う機会があり、父の弟(80代後半)のひとりから、体験した岐阜空襲の様子をすこし聞くことができた。

岐阜空襲は、1945(S20)年7月9日から翌10日にかけての深夜にあった。私の祖父母、父の兄弟5人、妹2人が実家に住んでいたが、戦時中兄弟は父を含め3人が従軍し、祖母は父が中国にいたとき病死していたので、空襲のあったときは祖父、父の10代の弟2人そして幼い妹2人だけの生活であった。

実家は岐阜市の中心部にあった。話を聞いた叔父は、当時国民学校高等科2年生で13歳であった。
空襲は岐阜市の西部から東部にかけて断続的に行われた。実家は千手堂にあったから、西の鏡島方面が燃え始めたとき、一家全員危険を感じて家を出た。まだ炎の上がっていない北の方向へ逃げ、長良川堤防を目指したという。空襲による火災が最も激しくなったときは、堤防からただその光景を眺めているしかなかったのであるが、他方、叔父のような国民学校(高等科)の生徒には空襲時の「動員」が予め負わされていたという。しかし着の身着のまま逃げてきたため、服装や準備が整わず、集合場所も不明であり、消火などに参加できるような状況ではなかったらしい。
実家は消失し、戦後3年目の1948年に家の再建が成るまで、粗末なバラック生活を一家は送ることになった。
中国広東付近の部隊にいた父の兄は、その後各務原飛行場の部隊に転じていたが、中国上海付近の部隊にいた弟とともに敗戦後早々と復員してきた。だが抑留中の父がシンガポールから実家に帰り復員完結となったのは、1947年1月のことであった。

父は戦時中の体験について私には多くを語り、その記録も残してくれたが、叔父の話では復員後に戦争のことを父は実家ではほとんど話さなかったらしいし、従軍した父の兄や弟も沈黙を守っていたという。戦後間もない頃は、家も焼かれ日々の生活をどうするかで追い詰められていた家族にとって、過ぎたことを振り返る余裕などなかったのであろうか。あるいは、敗戦によって激変した社会情勢のもとでは、たとえ家族の中であろうと、戦時中の体験や兵士であった過去の自分について語ることなどできなかったのかもしれない。

*母とその弟のこともメモしておく。
岐阜空襲の日、その日が誕生日だった17歳の母は、真っ赤に染まった南の空を郡上八幡で震えながら眺めていた。そして母の弟は15歳。満蒙開拓青少年義勇軍の一員として、満洲奉天(瀋陽)の車両工場でハンマーを握っていた。その叔父もまた、戦後沈黙を守っていたという。
そうした懐かしい話をしてくれた母はこの5月、風薫るなかを旅立った。




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2019年4月23日 (火)

艦長の回想記

父の乗っていた機帆船を2日間にわたって攻撃した英軍潜水艦(HMS SPITEFUL)の艦長が、戦時中の体験を回想記にまとめている。艦長の子息と連絡がとれたとき、この回想記のことを知り、彼をとおして取り寄せることができた。
父の乗った機帆船を攻撃したことは小さな出来事でもあり、この本にそのことが詳しく書かれていることは期待していなかったが、読み進めると、3頁にわたって攻撃の顛末が記されていた。このとき、敵(日本機)に攻撃され、沈没の危機もあったために艦長の記憶に強く刻まれたのであろう。
当時の2日間の様子は父の回想と潜水艦のパトロール・レポートをもとに、このブログでもすでにまとめてある(カテゴリー:「マラッカ海峡」参照)が、艦長自身の回想も合わせて見るべきだと思い、その回想を意訳にちかいけれども、ひとまず訳出しておくことにした。

Frederick H. Sherwood "It's Not the Ships..." p103-105
 「セイロンに来てから2回目となる哨戒任務の期間は、1944年6月21日から7月15日だった。哨戒する海域はスマトラ島の北部、つまりマラッカ海峡の北側であり、「H」エリアとして知られていたところだ。そこはひどい浅瀬ばかりで、まさに H つまりHell(地獄)だった。我々は海峡の北半分ぐらいのところに到達したが、ますます海は浅くなるばかりだった。
 6月28日午後、アル湾の岸に沿って進む9隻の小艇からなる船団を発見した。浅瀬のため船団にそれ以上接近することができなかったので、翌29日に若干深い場所を見つけて船団を待ち伏せすることにした。敵の船は小さく距離も相当あったが、その中の最も大きな船(註:父の乗る機帆船)に3発の魚雷攻撃を敢行した。しかし残念なことにどれも魚雷は命中しなかった。
 翌30日、艦砲射撃をすることにした。早く攻撃したかったが、2機の敵機が船団を哨戒していたので、なかなか機会がなかった。ようやく敵機がいなくなったのを見計らい、攻撃のために浮上した。
 我がスパイトフルの初期型レーダーはいつも誤ったパルスを発するオンボロだった。2回砲撃を行ったあと、そのオンボロレーダーの担当者が叫んだ。「敵機接近、距離40」。私はレーダーを見る余裕もなく潜航命令を出した。信号兵は生粋のロンドン子であるグレンフェル-ウィリアムズ(船内で彼だけが姓にハイフンのつく人物だった)である。彼が「敵機だ!」と叫ぶと、司令塔から要員が降りてきて、ハッチを閉める音がした。この付近は水深がわずか40フィートだったが、できるかぎり深く潜った。1分待ったが何も起きなかった。私は彼に「ほんとに敵機か? カモメでも見たんじゃないのか」と言ったとたん、強烈な爆発が艦を揺らした。グレンフェル-ウィリアムズは答えた。「艦長、カモメにしては結構でかい卵でしたね」。
 舵が動かなくなったのを除けば、数分間ライトが消え、隔壁のコルクが落下したぐらいでダメージは小さかった。すぐ舵を修理して潜望鏡を見ると、敵船団の方角からは小銃や機関銃の弾が次々に飛んで来た。敵は我々の潜む位置を正確に特定していたのだ。我々はさらに遠くまで退避し、射程距離から逃れた。銃弾が海面に当たり、飛沫の幕が彼我の間に立っていた。私はその光景を、潜望鏡を覗いていつまでも眺めていたのである。」

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 Frederick H. Sherwood  with Philip Sherwood
   "It's Not the Ships... My War Years"   lifewriters.ca  2014

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2019年3月15日 (金)

英軍潜水艦と父

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© IWM (A 22158) IWM(帝国戦争博物館)所蔵 →参照 collections

OFFICERS AND MEN OF THE SUBMARINE HMS SPITEFUL. 24 FEBRUARY 1944, GREENOCK.
description: Officers seated, left to right: Warrant Engineer H J Hard, RN, Lieut H Rutherford, RN, First Lieutenant; Lt Cdr F H Sherwood, DSC, RCNVR, Commanding Officer; Lieut W J C Davies, RN, and Sub Lieut R C Weston, RNVR.

1944年6月29日と30日、マラッカ海峡で英軍潜水艦が父の乗る機帆船を二日間にわたって攻撃したことは以前触れた。
*2017年2月13日~3月5日の記事参照→(Ⅵ マラッカ海峡)

それは父が戦時中最も身の危険を感じた戦闘であり恐ろしい体験ではあったろうが、こうしてその潜水艦や乗組員の姿を目の前にすると、言葉ではすぐに表せない感慨が込みあげてくる。この潜水艦の正体を探り当てたとき、父はもう旅立った後だった。

魚雷攻撃に失敗した日の翌日、潜水艦は浮上して艦砲射撃を試みた。父はその潜水艦のデッキで砲撃準備をする水兵を双眼鏡で目撃している。それは上の写真に写っている乗組員のなかの誰かであったにちがいない。
友軍機が父の船団を哨戒していたことや、魚雷の深度設定のミスのおかげで、潜水艦の攻撃は失敗した。魚雷の設定深度がもう少し浅ければ、あるいは哨戒機に発見されずに艦砲射撃がそのまま続いていたら、船は沈み、父は命を失っていたかもしれない。そう考えると、自分がこうして彼らの写真を見ていることが不思議なことに思えてくるし、数年前にSherwood艦長の子息と連絡がとれたときも互いに同じ感慨をもったのである。

なお写真は1944年2月24日にスコットランドの Greenock で撮影されている。2か月後ドイツ敗北が確実になった同年4月、潜水艦スパイトフルはインド洋へ向かい、当時のセイロンを拠点にして主にマラッカ海峡で活動していたのである。

次回は艦長の回想記に記されたこの攻撃に関わる箇所を見る。



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2018年12月 4日 (火)

黒川の佐久良太神社

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         佐久良太神社(岐阜県白川町黒川) 2018年11月撮影

この時季、よく知られた紅葉名所などを訪れたいとは全く思わない(奈良は別)。近所にも入鹿池があるし紅葉の綺麗なところは沢山あるが、むしろ行く秋の風景をただ眺めながら、ひとの少ない静かな山里でひとりぼんやりする時間がほしくなる。

11月末の連休最終日、久し振りに岐阜県の国道41号線を利用して白川町(有名な飛驒白川郷のある白川村ではない)方面へ行った。別ブログでは「飛騨川バス転落事故」と慰霊碑「天心白菊の塔」のことに触れたが、そこからさらに北上して41号を右折、白川町から東白川村と加子母村へ足を伸ばし、再び戻りながら白川町の黒川方面へも立ち寄った。どこも懐かしい場所ばかりである。
なかでも東白川村は、大学の先輩の出身地で、実は高校も同じだったことを知って互いにびっくりしたことがある。ジャズ喫茶というところに連れて行ってくれたのも彼だった。夏休みに仲間と実家へお邪魔したことがあったが、そのときの今まで見たこともない空の青さは衝撃であった。でも卒業後彼とは音信不通になってしまった。今どうしているのだろうか。
それとこの地域は、20年ほどまえに星を見たり天体写真を撮るため毎週のように通ったところだ。当時は諏訪から和田峠、八ヶ岳方面などにも遠征したが、やはり遠い。それより近い場所となると、名古屋方面の光を避けるにはどうしても黒川や東白川村、さらに加子母村あたりになる。20年ほど前は、「百武彗星」、「ヘール・ボップ彗星」、そして獅子座流星群の大出現などもあって何度も通った。自宅から1時間半以内で行ける。

この日は快晴。空の青さが格段にちがうのにあらためて感動する。夜に来たいな、と一瞬思ったが、たぶん星を見るために訪れることはもうないかもしれない。
今回、当時よく行った白川町の「大山白山神社」、加子母村の秘密の場所などを巡ったあと、帰る途中に黒川に寄った。

黒川にも寄ったのは理由がある。2週間ほど前、新聞・TVが岐阜県の満蒙開拓団のひとつ「黒川開拓団」について報じていた。黒川の「佐久良太神社」にある慰霊の「乙女の碑」に、今回あらたに「碑文」が付け加えられ、そのパネルの除幕式があったというニュースだった。すでによく知られた或る出来事にかかわることなのだが、マスコミはその「碑文」の全文を伝えてはいなかった。部分引用や要約だけで、こんなにも大事なことを自分が「わかった」などと言えるはずもない。いちど碑文を読みたいと思い、その懐かしい神社を訪れた。
いずれその黒川開拓団のことも記事にしたいが、躊躇もする。
書けないかもしれないともおもう。

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2018年11月27日 (火)

たかす開拓記念館

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前回は長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」についてふれたが、岐阜県にも同様の「たかす開拓記念館」(郡上市高鷲町大鷲)がある。開館は2年前の2016年で、こちらは公営となっている。先日ようやく訪れることができた。

この記念館は町民センターのなかにあり、戦後の「ひるがの」開拓も含めた高鷲町の郷土史も扱っている。満蒙開拓についていえば、当時の郡上郡から送出された開拓団の全体像がわかりやすく説明・展示されている。ただし限られたスペースという制約がある。当時の時代背景や国策の詳細を見学者自身がさらに調べ、考えなくてはならないだろうが、そのきっかけを得るための、とくに地元の小中学生にとっては大切な場所といえる。

展示のなかで最も目を引いたのは、「日本の土を踏めなかった人々」のパネルだった。郡上の開拓団現地死亡者すべての氏名が刻されており、ここに、これがあることに大きな意味を感じとることができる。あの「満蒙開拓団・義勇軍」とはいったい何であったかの理解は、このひとたちの名を自分の目に焼き付けることからまず始めなければと思ったのである。また、「義勇軍として大陸に渡った人々」のパネルには、当時の郡上郡から義勇兵に応じたひとの村ごとの人数が示されていた。叔父のいた「和良村」は18人とあった。

展示全体を見てあらためて感じたのは、満洲だけでなく、そもそも「開拓」ということが高鷲町の歴史と切り離せないものだったということだ。
明治末には、高鷲から北海道の下川(名寄原野)に開拓民が移っており、さらに昭和になっての満蒙開拓、そして戦後の現地高鷲ですすめられた「ひるがの」開墾など、この地域の人たちが「開拓・開墾」と深く関わってきたことを実感できる展示となっている。
現在の高鷲町を支えているのは「三白産業」(酪農・スキー場・ひるがの高原大根)といわれているが、その礎を築いてこられたひとたちの努力と苦労は、とうてい一言では語れないものがある。

次回も満蒙開拓と岐阜県との関わりを考えたい。

参考(前回の記事で示したもの以外)
郡上の満洲開拓団』(郡上市教育委員会) 2017年
語り部たちー』(高鷲町文化財保護協会)   2016年
          (制作協力岐阜県郡上市、北海道下川町)

 

 

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