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2017年1月30日 (月)

宇品の船舶練習部-その1-

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1943(昭和18)年4月末に父は呉淞から「陸軍船舶練習部」に派遣された。その詳細を父はほとんど書き遺していない。ひとまず具体的にどのような所だったのか、実際に広島の宇品に足を運んだり、史料を集めて調べてみた。練習部の配置図は、『広島原爆戦災誌 第1巻』所収の「広島陸軍船舶練習部(旧大和紡績工場)被爆者収容要図 調整 野村 清」を参考にしたが、昭和20年当時の資料であり、父が滞在した昭和18年とは異なる点もあると思う。

練習部のあった場所は、もともと紡績工場であり、昭和9年錦華人絹(のち錦華紡績)、昭和16年には大和紡績となって、昭和18年2月になり、陸軍が借上げて陸軍船舶練習部などの船舶司令部関連施設となった。その位置や宇品地区の様子は上掲の米軍写真で確認できる。練習部に派遣されたことについて、父は「舟艇などの特別演習」のためだと書いているだけで、具体的には全く分からない。あたらしく実用化された舟艇の運用技術講習だったのか、南方戦線を想定した舟艇運用技術の習得だったのか、あれこれ想像するしかない。派遣されたのは、船舶工兵第10連隊から、士官2名、下士官6名だったと記されていた。いずれにせよ、練習部開設直後に派遣されたのである。
軍用桟橋近くには、旧凱旋館に入った「船舶司令部」や宇品駅が確認できる。なお、現マツダの工場敷地内には、「講堂」が今も「被爆建物」として現存している。この施設を見るためだけに会社敷地には入れないが、旧宇品線のあった東側から写真を撮ってみた。
Dsc01403_2                                  2015年1月12日撮影

黒い建造物が旧学生講堂である。屋上には草が生え、年月の経過も感じる。対空監視哨があったというが、右側へ突き出た部分がそれにあたると思われる。当時、父もこの施設を利用したり見たかもしれないと思うと感慨深い。
練習部施設は、被爆直後に宇品へ逃れたり、運ばれてきた被爆者を収容しており、施設内の各所では荼毘に付された被爆者も多い。さらに練習部に臨時に開設された野戦病院や「廣島陸軍第一病院宇品分院」が被爆者の治療にあたり、降伏後に被爆者の疫学調査が日米合同で行われてもいる。また、原爆被害の少なかった宇品の船舶兵たちは、二次被爆をしながらも、市内の被爆者救護やライフラインの復旧にあたったことも忘れてはならない。

父にとってこの宇品は特別なところであった。実は復員したのが宇品引揚援護局であった。援護局は練習部の施設を利用しており、昭和18年に滞在した宿舎の全く同じ部屋を昭和22年に再び利用することになるが、それはまだ先のことである。

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