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2017年1月

2017年1月31日 (火)

宇品の船舶練習部-その2-

Pc220129                        六管桟橋(軍用桟橋)跡 
                        2015年1月13日撮影(下4枚も)
父にとって広島・宇品は特別の場所であったようだ。大陸や南方の戦地よりも僅かな期間であったにも拘わらず、戦時中と復員時に訪れた広島のことは強く記憶に残っていたらしい。だが、復員時に見た広島市街の様子についてだけは、それを語る言葉がどうしても見つからなかったのか、多くを話すことはなかった。
父の遺稿を整理し始めたころから、数度広島を訪れ、宇品地区にも2度立ち寄った。当時の面影はほとんど無くなっているが、六管桟橋(軍用桟橋)は護岸となり、東側は「宇品波止場公園」になっている。船舶司令部のあった旧凱旋館の場所の一部は、今は「宇品中央公園」であり、幾つかの碑が建てられている。「宇品凱旋館建設記念碑」「旧蹟 陸軍運輸部 船舶司令部」の碑とともに、「港」の歌の歌碑もある。
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中央公園の北側道路には、「被爆建物」の「広島陸軍糧秣支廠倉庫」がある。宇品線の宇品駅プラットホームに沿って1910年に軍用物資保管のためにレンガで造られたものである。その壁とプラットホームの一部分だけが遺されていた。
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宇品については、復員時の様子を記すときに再び触れることにし、次回は、宇品から岐阜に休暇で一時帰郷したときの遺稿を見ることにしたい。

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2017年1月30日 (月)

宇品の船舶練習部-その1-

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1943(昭和18)年4月末に父は呉淞から「陸軍船舶練習部」に派遣された。その詳細を父はほとんど書き遺していない。ひとまず具体的にどのような所だったのか、実際に広島の宇品に足を運んだり、史料を集めて調べてみた。練習部の配置図は、『広島原爆戦災誌 第1巻』所収の「広島陸軍船舶練習部(旧大和紡績工場)被爆者収容要図 調整 野村 清」を参考にしたが、昭和20年当時の資料であり、父が滞在した昭和18年とは異なる点もあると思う。

練習部のあった場所は、もともと紡績工場であり、昭和9年錦華人絹(のち錦華紡績)、昭和16年には大和紡績となって、昭和18年2月になり、陸軍が借上げて陸軍船舶練習部などの船舶司令部関連施設となった。その位置や宇品地区の様子は上掲の米軍写真で確認できる。練習部に派遣されたことについて、父は「舟艇などの特別演習」のためだと書いているだけで、具体的には全く分からない。あたらしく実用化された舟艇の運用技術講習だったのか、南方戦線を想定した舟艇運用技術の習得だったのか、あれこれ想像するしかない。派遣されたのは、船舶工兵第10連隊から、士官2名、下士官6名だったと記されていた。いずれにせよ、練習部開設直後に派遣されたのである。
軍用桟橋近くには、旧凱旋館に入った「船舶司令部」や宇品駅が確認できる。なお、現マツダの工場敷地内には、「講堂」が今も「被爆建物」として現存している。この施設を見るためだけに会社敷地には入れないが、旧宇品線のあった東側から写真を撮ってみた。
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黒い建造物が旧学生講堂である。屋上には草が生え、年月の経過も感じる。対空監視哨があったというが、右側へ突き出た部分がそれにあたると思われる。当時、父もこの施設を利用したり見たかもしれないと思うと感慨深い。
練習部施設は、被爆直後に宇品へ逃れたり、運ばれてきた被爆者を収容しており、施設内の各所では荼毘に付された被爆者も多い。さらに練習部に臨時に開設された野戦病院や「廣島陸軍第一病院宇品分院」が被爆者の治療にあたり、降伏後に被爆者の疫学調査が日米合同で行われてもいる。また、原爆被害の少なかった宇品の船舶兵たちは、二次被爆をしながらも、市内の被爆者救護やライフラインの復旧にあたったことも忘れてはならない。

父にとってこの宇品は特別なところであった。実は復員したのが宇品引揚援護局であった。援護局は練習部の施設を利用しており、昭和18年に滞在した宿舎の全く同じ部屋を昭和22年に再び利用することになるが、それはまだ先のことである。

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2017年1月24日 (火)

「呉淞」の砲台

   Photo                      絵葉書:呉淞砲台跡

初年兵教育が終わった1943(昭和18)年2月、父は再び上海の黄浦江などで舟艇訓練などの通常業務に戻った。このころから大発・小発などの上陸用舟艇や新しい無線機器が配備され、その使用訓練と整備などが昼夜無く続いたという。そして3月になると、連隊は本格的な舟艇運用のために上海北部の「呉淞」地区へと移駐した。

呉淞地区は第二次上海事変で多くの犠牲者を出した敵前上陸の激戦地である。岐阜や名古屋の部隊にも多くの戦死者がいる。
ある日、戦友と呉淞砲台に行ったことがあった。すでに第一次上海事変後に砲台は破壊されていたらしいが、覗いた砲身の中に砲弾が止まったままになっているように見えた。そのとき小さい頃に父から聞いた話を思い出したのである。かつて蔣介石が日本から砲弾を買ったことがあったが、その中には不良品が混じっていたらしいとのことである。話の真偽はともかく、あの大きな砲身は冷たく不気味な肌触りであった。
 私は「野戦工兵」から「渡河工兵」となり、こんどは「船舶工兵」となった。上海や呉淞では海上訓練も加わり、陸軍なのに海で活動することが本務となってしまった。意外なことであった。手旗信号は水兵だけのものと思っていたので、最初は戸惑ったものである。いや、それよりも私は金槌だったのである。乗船中はカポックを着用しているとはいえ、そんな私が「ヨーソロー」などと指示する大発の艇長だったとは、今でこそ言える笑い話である。

1943(昭和18)年初頭、すでに志願から2年の月日が経ち、「船舶工兵」下士官としての任務にも慣れてきたころである。予想に反し、陸の工兵から「海の工兵」となった父は、やがて大陸を離れ、南方戦線へ向かうことになる。
この頃の戦況は曲がり角に来ていた。昨年夏、ミッドウェー島攻略を試みたが海戦で打撃を受け、太平洋戦線は次第に守勢にまわり、2月には「ガダルカナル島」から撤退した。4月には山本五十六が米軍機の待ち伏せ攻撃を受け戦死している。

4月、呉淞にいた父に突然広島・宇品への派遣の命令が下った。

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2017年1月23日 (月)

四馬路と先輩下士官

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               絵葉書:ガーデンブリッジ
                 四馬路などの繁華街は画面右奥
        
「上海帰りのリル」という歌が戦後間もない昭和26年頃流行していたという。のちにテレビでこの曲が懐メロとして流れると、父は懐かしそうに口ずさんでいたことを思い出す。「・・・夢の四馬路の霧降る中で・・・」という歌詞がある。その「四馬路」のことを、父は幼い頃から私によく話してくれた。
すでに戦前の歌に「上海リル」があり、さらに「上海帰りのリル」のアンサーソングのようなものが何曲かつくられていたらしい。謎の「リル」のことを含めその歌謡史は興味を誘うが、本題は歌ではなく、「四馬路」のことである。

ある日、同郷の先輩下士官に誘われ、二人で上海市内に外出したことがあった。「四馬路」街にあるフランス料理店で、昼食のフルコースを生まれてはじめて注文した。戦時下のほんの一時の贅沢だった。彼は高潔でありながら人情味溢れ、互いに本音で話し合える数少ない先輩・戦友のひとりだった。その後、彼とは部隊が分かれ、消息がわからなかったのであるが、戦後戦友会で聞いたところによると、ビルマのラングーン沖で彼の乗る輸送船が空襲で撃沈され、戦死したとのことである。四馬路を冗談を言い合いながら歩いた思い出は忘れ難く、戦後再会できなかったことは残念なことであった。

先輩下士官や上海での休暇の日の食事がよほど印象に残っていたのだろう。父の実直な性格のせいか、遺稿にはあまりこうした体験や人間関係のことは書かれていないことを思うと、珍しい箇所である。そして、初めて「戦死者」のことを書いている。
彼のことは戦友会誌を見ても誰かは分からない。ただ、ラングーン沖で沈没した輸送船について調べてみたところ、可能性のある船が見つかった。ラングーン沖海域で空襲や触雷によって沈没した船は13隻あり、沈没時期と乗組員に船舶兵が乗っていた可能性のある船などを特定すると、以下の3隻の可能性が強い。いずれも沈没時期は、1943(昭和18)年8月~12月である。「第5高島丸」 「どうばあ丸」 「みらん丸」(なお資料は「沈没した船と海員の資料館」のサイト等を用いた。)

とくに南方で戦った陸軍兵士の方の手記や談話には、数多くの船の名前が出てくる。「船舶戦争」ともいわれるあの戦争を考えるとき、私は軍艦だけでなく戦争に駆り出された民間輸送船と船員の悲劇を決して忘れてはならないと思う。

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2017年1月22日 (日)

陸軍船舶工兵第10連隊

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                                 絵葉書:上海バンド(黄浦灘)
                  現在も多くの建物が残っている

陸軍「船舶工兵第10連隊」に転じた父は、以後降伏時までこの連隊の下士官として勤務することになった(いわゆる「船舶工兵」の概要はいずれまた)。

12月から上海で活動することになった連隊は、現役兵に加え、内地からやってきた補充兵や召集兵など、総員千名ほどに膨れあがった。その兵舎は、「上海ココー(滬江)大学」の建物を使うことになったが、東側にはクリークが接していたように思う。上海は今まで見たこともない大都市であり、活気に満ちた国際都市であった。
相変わらず資材や陸上運搬手段が欠乏している状況でも、「船舶工兵」としての訓練や演習だけは厳しいものであった。私は初年兵教育の「助教」を初めて務めることになった。兵は30歳くらいまでの者で、なかには妻子ある者が多くいた。関西の都市部出身の補充兵の割合が高かったので、農村出身者と比べると体力や気力はやや劣る者が多く、そのため助手も私も初めは何かと苦労や悩みが絶えず、必要な技能や習慣を身につけさせることに時間と手間がかかったのである。

「滬江大学」は1906年に米国のバプテスト教会系の人たちによって創られた大学である。現在は「上海理工大学」になっており、当時の美しい校舎などをネットでも見ることができる。場所は、黄浦江がバンドから東へ流れ、北へ蛇行し始めるあたりにある。東側には父の記しているように確かにクリークが南北に走っている。
連隊が黄浦江などを拠点にして大発や小型舟艇などの操舵訓練を行っていたとき、父は初めて初年兵教育を担当することになった。

1943(昭和18)年正月、上海バンドの対岸で舟艇訓練をしていたとき、突然の部隊長命令で上海神社までの駆け足訓練が実施された。助教であった私は、もともと足腰の弱い自分がはたしてそこまで辿り着けるか不安だった。ガーデンブリッジに差しかかり、ブロードウェイマンションを見ながら橋を渡ったころからすでに息が苦しくなっていたが、立場上気が張っていたのかなんとか神社に辿り着くことができた。

実直だったせいか、父の遺稿にはほとんど軍務以外のことは書かれていない。けれどもある休暇の日のことを珍しく回顧していた。次回は「四馬路」と先輩下士官のことを記す。

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2017年1月21日 (土)

日本初空襲と浙贛作戦

実は父の留守中に、独立工兵第53大隊は作戦出動していた。もちろんチチハルにいた父はそのことを全く知らないままである。またしても「不思議なことに」と書いているが、もう2度も父は作戦から外れることになったのである。

1942(昭和17)年4月、内地では驚愕的な出来事が起きていた。米軍のB-25による日本初空襲(The Doolittle Raid)である。詳細は省くが、日本近海までアメリカの空母が近づき、そこから発進した十数機の爆撃機が日本各地を空爆したのである。爆撃機の着陸地などで中国と連携していたため、浙江省などの中国軍飛行場破壊を主な目的として4月末に浙贛(セッカン)作戦が支那派遣軍に下命された。海軍もミッドウェー島攻略戦を早め、やがて大きな損害を受けることになる。
独立工兵第53大隊は、第13軍の指揮下に入り、開封から杭州方面へ移動し、「諸曁(ショキ)」を拠点にして、主に道路の応急補修や架橋を主な任務とした。しかし当初は豪雨に見舞われ、堤防決壊や道路寸断が多く、橋は何度架けても流されるという状況であった。作戦後半は、各中隊ともに兵站戦確保と維持のため、諸曁と義烏の間の道路整備を続け、作戦自体は9月末に終了した。

1942(昭和17)年12月、大隊の隊員の多くは関東軍を離れ、新設された陸軍「船舶工兵第10連隊」要員となって、すぐさま「上海」に移駐することになった。

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2017年1月20日 (金)

下士官候補者隊

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              絵葉書:斉斉哈爾駅(チチハル)駅

 

1942(昭和17)年6月から11月まで父はチチハルの工兵下士官候補者隊にいた。
それまでの厳しい部隊生活と異なり、内務はほぼ自主的であったため、少し余裕のある生活ではあったようだ。
同じ班の同僚が、「関特演」と称する動員のことを話してくれたという。前年(1941年)の6月に始まったドイツとソ連の戦争に呼応し、ソ連との開戦に備え,満洲に大動員が行われ、関東軍は3倍近い兵力に増強されたのである。動員にともなって対戦車戦の演習にも参加したという彼は、実戦さながらの不気味な威圧感に恐怖すら感じたらしい。

座学や訓練の続いた候補者隊で、ある教官の話が印象に残っている。いわゆる私的制裁の撲滅のことである。当時すでに私的制裁の悪弊は軍内部でも問題視されていたし、表面上は禁止されていたのである。しかし実際は黙認されていた。私らも初年兵のころから何とかならないものかと思ってはいても、解決の糸口は見つからなかった。この教官の話も結局は建前論だったのだが、将来下士官として兵を指導する立場になる我々に改善を期待するという熱意だけは受け取ることができた。それ以来、理不尽な暴力だけは絶対許さないという信念は私なりに軍隊生活で貫いたと思っている。しかし実際のところ、その根絶は難しいことであった。≫

娑婆と隔絶した(させられる)軍隊の、とりわけ内務班の厳しい日常は、私が幼い頃から父がよく話してくれた。大同の初年兵時の苦労話は今も忘れることができない。その一方、下士官となった父がどんなふうに初年兵から見られていたのか、気にはなっていた。戦友会誌に当時初年兵だった方の手記があり、助教だった父のことを「温厚な○○軍曹」との記述を見つけた。軍服を着た父がどんな人であったか私は知らないけれども、あの「温厚な」という言葉を見た私は、私の知っている父と同じだ、と愁眉を開く思いがしたのである。

1942(昭和17)年11月、チチハルで陸軍兵長となった父は原隊に復帰する。しかし、もとの開封ではなく、部隊は蚌埠(バンプー)に移っていた。

12月に陸軍伍長となった父は、分隊附き下士官としての役割を担うことになった。

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2017年1月19日 (木)

「関東軍 工兵下士官候補者隊」(満洲・チチハル)

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   絵葉書:奉天駅(現在の瀋陽駅)
 チチハルに向かう途上、奉天に立ち寄る。

 

渡河工兵として、開封で激務をこなしていたころ、中隊人事掛の准尉から下士候補のすすめがあった。人よりはやく軍役を終わりたいと思っていたにもかかわらず、米英との戦争により除隊の見込みも失われ、母の死もあり、これからの人生は全く見通せないことになっていた。あれこれ考えた末、准尉の意向に従うことにした。
 1942(昭和17)年、5月1日、私は陸軍上等兵になると同時に、満洲国斉斉哈爾(チチハル)にある「関東軍工兵下士官候補者隊」に入隊することになった。

他の部隊の候補者数名とともに、父は遠く満洲のチチハルまで向かうことになった。下士候補に選抜されたことで、志願に反対した亡き母の意向に全く反する道を父は進んでいったのである。時勢の激変があったとはいえ、学歴のない父にとってはこの選択しかなかったと思われる。
チチハルへの途上、父は「奉天(現在の瀋陽)」に立ち寄っている。戦友から奉天に住む親族に品物を届けるよう頼まれていたからだ。1942(昭和17)年の前半といえば、東南アジアの日本軍が破竹の勢いで進軍していたころである。国民も兵士も連戦連勝のニュースに酔いしれていたのだが、父は奉天に立ち寄ったとき感じたある「違和感」について細かく書いていた。

依頼された品物を届けたあと、腹が減ったので仲間と奉天の日本人経営の寿司屋に入った。
 このとき5月に食べた寿司は、いつもと変わりないシャリ、つまりコメだけのものだった。実は半年後、チチハルから帰隊する11月にも同じ寿司屋に立ち寄ったのである。店の主人と世間話をしながら寿司を食べていたが、シャリの舌触りが妙だと思い主人に聞くと、大豆を混ぜているとの返事だった。「大豆の寿司とは珍しい」と皮肉を言うと、「営業用に使うコメは節約しろ」といわれて困っているらしい。他の食材も食糧統制が厳しくなりつつあるとのことだった。糧秣が無くては戦争などできない。実のところ戦況はかなり厳しくなりつつあるのではないか。このときすでにそんな不安のようなものを感じていた。

事実、父がチチハルで半年を過ごしている間、戦況は大きな曲がり角にきていた。

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2017年1月18日 (水)

渡河工兵

単に「兵士」といっても、その役割は多彩である。
とりわけ先の大戦における日本の「工兵」という兵科(兵種)の役割に限っても、私なりに調べてはみたけれど、その多様さにはただ驚くだけである。父が担った工兵としての役割を振り返ると、刻々と変わる戦況に振りまわされ、次々に新しい任務を担わされた様子がわかる。中支「開封」で関東軍の工兵大隊に転じた父は、当時の多忙な日々や軍の混乱ぶりを記している。

「野戦工兵」だった我々には、あらたに「渡河工兵」の役割が与えられた。その任務は河川やクリーク(運河)用の小型舟艇を操り、歩兵を敵の正面に上陸させることである。
 この小型舟艇を機動的に用い、陸上で移動させるためには是非とも貨物用のトラックが必要だったが、それも含めた必要な機材は補充半ばのままであった。しかもこの工兵隊は、各地から急に寄せ集められた俄仕立ての部隊であり、情けないことに、部隊に必要な将校さえまだ着任していないため、とりわけ実務を担う下士官にとっては、おそらく地獄のような日々だったに違いない。「渡河工兵」の任務に必要な兵士への基礎的教育なども二の次とされるなど、全く以てお粗末きわまりない有様だった。部隊改編による急激かつ慌ただしい状況の変化は、我々を苦しめ、解消できない疲労感が残る過酷な日々となった。

工兵は、必要な機材がなければ全く意味のない兵士である。機材を用い、工夫改良するという点では、ある種の合理主義や技術が求められるから、工兵は単なる精神力だけでは務まらない。まして新任務のための教育が後回しでは、お話にならない。
遺稿には、しばしば元兵士にありがちな勇ましい言葉や精神主義・大言壮語が見あたらないのは、かつて職工だった父の、ある種の冷めたものの見方のゆえだろうか。

すでに出征から1年半近くの月日が流れた。やがて父に軍隊生活における大きな転機がやってくることになる。

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2017年1月17日 (火)

関東軍

大同に来て1年過ぎた。作戦出動していた本隊も大同に帰隊し、連隊は普段の業務に戻った頃、突然衝撃的なニュースが飛び込んできた。

1941(昭和16)年12月8日、日本が米英に宣戦布告したのである。辺境のこの地にも鋭い緊張感が走ったのはいうまでもないが、しかしすでに戦地に身を置いている私には、与えられた業務を淡々とこなすだけの日々が続くだけであった。
 12月の今、開戦のことよりも我々にとっての関心事は、後輩の16年兵がいつ入隊してくるかだった。予想したとおり、戦況の激変によって16年兵の入隊は遅れ、翌1942(昭和17)年2月になってしまった。これで晴れて我々15年兵は2年兵になったが、初年兵の期間は長かった。であれば、13年兵はこのとき晴れて除隊となるはずだが、なんと保留(つまり即日再召集)されるという事態となったのである。さらにこれに追い打ちをかけるように、3月には部隊の再編成が行われ、我々の連隊の大半は、関東軍の管轄下に置かれ、「関東軍独立第5旅団独立工兵第53大隊」へと転ずることになった。
新しい駐留地は、中支「開封」であった。このとき13年兵はようやく除隊されたものの、彼らが部隊を去る日、14年兵の一部によって手酷い意趣返しがあり、貨車に積まれた13年兵の新品の荷物袋や鞄が無残に切り裂かれていたそうである。あくまで一部のことではあったが、戦況が厳しくなりつつあることや、除隊の見通しが立たなくなった苛立ちもあり、これまで13年兵から受けた仕打ちへの激憤を晴らしたものと思われる。

これを読むと、軍隊内で兵士が置かれている状況、たとえば古兵と新兵の関係、除隊にまつわる悲喜劇などが見えてくる。遺稿全体をとおして、ほとんど個人名は出てこないし、父の当時の心の動き、喜怒哀楽は比較的抑え気味に書かれているが、兵士の本音は少し読み取ることができる。それにしても、大陸の戦場にいた父は、日本が米英に宣戦布告したというニュースをこのときはまだ深刻に受け止めていないようだ。やがて自分が南方戦線に送り込まれる運命にあることなど、全く予想していなかったのだろう。そもそも陸軍にとって米英との戦争は、基本的に海軍が担うものと考えていたらしいから。

さて、関東軍の工兵大隊に転じた父たちには新たな任務が与えられることになった。

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2017年1月16日 (月)

母の手紙

戦地で母の死を知らされたことは、私がまだ幼い頃によく聞かされた話でもあったし、父は晩年になってもときどき悔恨の表情を見せることがあった。

10年前、父の遺品を整理していたとき、1冊のノートが出てきた。昭和30年頃のもので、当時の食費、餞別の金額などとともに赤ん坊だった頃の私の落書きもあった。なぜこの汚れた雑記帳だけが遺されていたのか最初は不思議だった。
見ると、その最後の頁には、判別が難しい文字で何事かが記してあった。頁の下の方には「○○(父の兄の名前)へ宛てた母の手紙」とあり、父自身が書いたと思われる「意訳」も次の頁に記してあった。原文を下に記す。なお、母は家業の手伝いもあり、十分学校に通うことができず、文字の読み書きも不得手であったという。

 『おまエに いたいコとがあるが 
  むねがセまりて いエないで カキました
  おやとして なにもをまえのよろコぶコとをしてないで 
  さぞおコるでしよ カにしてくれ 
  どんなコとがあでも しとりでやれるとをもうな
  カらだわ わカれていても ココろわ一つ
  おまエとは (不明2文字) わしとコカな しとりとをもうな 
  ははわ おまエのくるまつ 
  カけないてでカ カいたで ヤからんで さとてくれ
   またカきたいコとガあるガ カけなでをきます
  ともだチにすカれてくれ
  セけんのしとに はじをカいてくれな
  コれわ ははのたのみ     ひとにみせて くれるな 
                       (空欄)月二十日』

父の意訳をもとに、私なりに読んでみた。

『見送りの時、お前に言いたかったことがありましたが、思いが込み上げてきて何も言えなかったので、手紙で書きました。これまで親としてお前の喜ぶようなことを何もしてきませんでしたから、さぞ怒っているでしょうがどうか堪忍してください。たとえどんな事があっても 一人でやれると思わないでください。体は分かれていても心は一つです。お前は私の子なのだから一人きりだと思わないでください。母は、お前が無事戦地から帰って来るのを待っています。文字を書けない手で書いたので 分からないところはさとってください。まだ書きたいことがありますが、もう書かないでおきます。友達に好かれてください。世間の人に恥をかくようなことはしないでください。これは母の頼みです。  
人には見せないでください。    (空欄)月二十日』

父の兄が召集された直後に母から送られた手紙だと思う。戦後になって、何かの折に兄が手紙を父に見せ、それを父が筆記したものであろう。父にとっては、まるで自分に出された手紙のように思ったのかも知れない。
しかも父は戦後になり、母親が「極道者や」と言ったもうひとつの職業に就くことになった。それを考えると、父の悔恨の根深さは、もう私には推し量ることはできなくなる。

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2017年1月15日 (日)

訃報

第一期の初年兵教育は、1941(昭和16)年4月末には終わった。
その後も所定の教育は続くが、同年6月、父は陸軍一等兵となった。ひとまず兵士として認められたことになる。
その後、6月~8月にかけての記述は前後関係や場所がハッキリしないところもあるが、

6月ごろ、  「将校斥候」の一員となり、外蒙の国境偵察(場所は五原?)
6月~8月  大同からさらに西の「包頭」の黄河で「渡河訓練」

とある。そして9月になると。連隊は「河南鄭州攻略戦」に参加するために南下する。
しかし、「不思議なことに」と父は書いている。なぜか自分だけが大同に残留となった。戦友は皆出動したのに、自分はなぜ残らねばならないのか、ある意味では屈辱にも似た思いをしたらしい。代わりに与えられた任務は「大同鉄橋」の警備だった。

≪任務は大同鉄橋の警備である。下士官1名以下1分隊が、兵舎から橋までの約4㌔の道のりを毎日徒歩で往復した。敵のゲリラ活動から橋の安全を守るためだが、とても単調な毎日の繰り返しだった。一日数本の列車が鉄橋を通過するだけである。汽笛と共に車輪とレールが奏でるリズミカルな音がときどき近づいてくると、やがて流れ去る風のように列車も音も消えてしまう。何事もなかったように静かになった鉄路を眺めながら考えることといえば、心配をかけた父や母、小さな弟や妹を懐かしく思い出すことであった。≫

そんなある日、突然大きな不幸が父をおそうことになる。

≪9月下旬、私は1枚の葉書(手紙?)を受け取った。その日の歩哨勤務は何かと雑用も重なり、目の回るような慌ただしい中で受け取ったために、読みもせず、すぐ軍袴のポケットに入れ、夜になっても葉書のことは忘れてしまった。
 翌日、1日の歩哨勤務が終わって隊に帰ると、洗濯を始めたときにポケットに手を入れた。葉書のことをすっかり忘れていた自分に呆れつつも、無造作に二つ折りになったそれを開くと、父からの便りであった。≫

母は9月16日に亡くなっていた。病死であった。まだ40歳半ばの母が急死することなど予想もしていなかった父は、激しい動揺と悔恨の念に苦しむことになる。
あのとき母が、「お前は極道者や」と自分を叱責したことは、予言であったとさえ思い、志願したことを強く悔やんだ。自分の不孝を母に詫びることさえ、もうできなくなってしまった。

≪翌日、上官の配慮で、大同市内の本願寺派寺院に行き、供養してもらい法話も聞いたが、悲しみと後悔の念はかえって増すばかりであった。≫

ところで、戦後になってからのことであるが、出征する兄に宛てた母の手紙を父が兄から見せてもらったことがあった。次回はそのことを書いてみたい。

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2017年1月14日 (土)

初年兵教育

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   豊橋:入営時の集合写真(最後列左から2人目が18歳の父)
   初年兵35名、最前列には士官・下士官等が並んでいる。

 

遺稿に記されている大同で受けた初年兵教育の詳細は、呆気ないくらい簡潔なものであった。実は、私が幼少期の頃から父は戦争体験をよく語ってくれていた。この遺稿よりも語ってくれたことのほうが何倍も多かったし、今も記憶に残っている。とりわけ初年兵教育の様子は、私の記憶に今も強く刻み込まれているが、遺稿では下記のように極めて短いものであった。

各兵科共通の戦闘訓練が約3か月続いた。軍隊では最も過酷な一期の初年兵教育である。失敗や不備があれば容赦なく鉄拳制裁があり、内務では言葉遣いや日々の生活態度にいたるまで厳しい指導が行われた。ただ、入営前には『軍人勅諭』をすでに暗誦できていた私にとって、ひとつの難関は越えているという安心感はあった。それでも、もともと足腰が弱かったために、とりわけ行軍訓練は辛いことであった。
 もちろん「野戦工兵」として必要な築城訓練なども徐々に組み入れられ、やがて塹壕、鉄条網、道路、橋梁、爆薬などを設営(同時に解体も)する技術の習得が始まった。要は軍隊の中で土木・建築・解体工事をしていたのである。歩兵などとは違い、銃器の代わりに「円匙」と「十字鍬」が我ら工兵の持つべき第一の武器であった。

多くの元兵士は、「軍隊は外に敵、内に鬼」だったと記している。戦場における無謀な命令や内務での私的制裁などの実例は、ここであらためて記す必要もないであろう。
育った家庭環境もあったのだろうが、父は暴力について、それがいかなる場合のものであっても決して許されないことだ、と常々私に語っていた。とりわけ軍隊を経験したからだったのかも知れないが、大家族であるにも拘わらず、静謐な家庭で育ったことも大きかったのだと思う。なお、当時の軍隊内で「私的制裁」を無くそうとした動きもあったことは、のちにチチハルの下士官候補者隊に父が入隊するところで触れることにしたい。

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2017年1月13日 (金)

山西省「大同」

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       絵葉書:右下に「支那事変」の文字
           大同城北門、父が警備した大同鉄橋

1940(昭和15)年12月8日に名古屋港で父たちを乗せた大日丸は、瀬戸内海に入った。定かではないが、途中で広島・宇品を経由したかもしれないと父は言っていた。玄界灘を通過し、やがて渤海湾に入った。12月16日、天津の大沽(太沽)に上陸した。その後兵員輸送の貨物列車に乗せられ、北京を経由し、山西省大同に着いた。12月19日夜のことであった。

そこは内蒙古の極寒の地であった。町はすでに軍が制圧しているとはいえ、戦地であることに変わりはない。我々は大同駅から人家の少ない夜道を粛々と20分ほど歩いた。着いた部隊兵舎は敵が使っていたものらしい。この日から数ヶ月、軍隊で最も厳しく辛い初年兵教育が始まったのである。私は「工兵第26連隊第二中隊」へ配属された。
 大同は、北京から約400㌔西に位置する。日本人も千人以上は住んでいるといわれた。城外には万里の長城の一部が接し、学術的にも有名な雲崗石仏、無煙炭で名高い大同炭鉱をもつ山西省第二の要衝である。京包線が郊外の温河を渡る大同鉄橋は、1938年に敗走する敵が橋の中央部を破壊したため、工兵隊が応急修理し、現在は我が工兵連隊が警備と保全を担当していた。
 冬は零下20度にもなるが、雪は少ない。夏冬問わずゴビ砂漠から黄砂の嵐が来襲して人や家畜を苦しめる。ときには食事にも砂が混じり、うんざりすることもあった。

外征した日本兵は、その大半が「外国旅行」を初めて経験したともいえる。目的は観光ではないにしても、内地とは異なる気候や風土、文物や生活様式に驚くことは多かったに違いない。だが、のちに南方各地も転々としたにもかかわらず、父の遺稿は大同以外の土地について、詳しく記すことはなかった。そして現地の人々との交流は随分多かったにちがいないのに、それも全くといっていいほど記されてはいなかった。
父の記憶を辿るには、文字だけではなく、地図や写真、文献史料がもっと必要だと思った私は、父が残した戦友会誌だけではなく、絵葉書や地図、文献史料を探し始めた。


*当時の大同について
 父が大同に来る2年前の1938(昭和13)年、大同に滞在した探検家菅野力也の記録では、日本人2,647名、日本人小学校児童114名、日本旅館・料理店など48軒、中国人7万人であった。(Webサイト「謎の探検家菅野力也」の記事参照)

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2017年1月12日 (木)

別れ - 永訣 -

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                                                        絵葉書:名古屋港(昭和初期か)

父たちの部隊は、豊橋を出たあと名古屋の「熱田神宮」に立ち寄り、名古屋港へ行く。このとき、神宮の大鳥居横では母、そして名古屋港では父が見送りに来ていた。

昭和15年12月8日朝、豊橋を発った我々は「熱田神宮」に向かった。もちろん沿道は家族や一般の見送り人でいっぱいだった。参拝・休憩して行進を開始したときのことである。ちょうど南の大鳥居を出るとき、その柱の周りにいた多くの見送り人を横目でひょいと一瞥すると、たしかに母と叔母がおり、視線が一瞬合ったのである。手の届きそうな距離だったが、行進中でもあり、何も言葉を交わすことはできなかった。母の淋しそうな表情だけは今も目に焼き付いている。これが永訣であった。
 やがて私たちは名古屋港の埠頭に着いた。港に集結していたのは、愛知・岐阜・静岡の出身者で、私たちと同じ地域に派遣される予定の歩兵・工兵・砲兵・輜重の各兵士たちである。ここでも多数の家族や見送り人でいっぱいだった。
 乗船したのは輸送船大日丸」約五千㌧であった。総員が乗船完了したのは午後4時頃だったが、日は短い頃だったにもかかわらず、まだ明るさは残っていた。汽笛と共に船が埠頭から離れるとき、甲板にいた私から50㍍ぐらい離れたところに見送り人の一団があり、その中にひときわ大きな日章旗を振る父の姿を見ることができた。父は何かを叫んでいたが聞き取れなかった。それでも私は父が見えなくなるまで精一杯両手を振り続けた。

この日から、父は約6年間兵士としての生活を続けることになる。ちょうど1年後に米英との戦争が始まり、やがて降伏することなど予想もしていなかった。2年ほどすれば除隊して新しい人生を歩めるだろうという希望をもっての出征だった。

*「大日丸」について(「戦没した船と海員の資料館」のWebサイト等より)
1922(T11)年4月に三井の貨物船として竣工。最初の船名は「伊吹山丸」。主に北米航路や援用不定期船として運航。1935年に板谷商船に売却されてから「大日丸」になった。陸軍に徴用されて兵士・捕虜の輸送にあたり、1942(S17)年にはシンガポールから連合国軍捕虜を台湾や本土に移送した。1943(S18)年10月6日、高雄からマニラに向け出港。8日ルソン島北端ボヘアドール岬西北西150km付近において「米軍潜水艦 Gurnard (SS-254) 」の魚雷攻撃をうけ沈没。乗船部隊2,025名、船員64名の計2,089名が戦死。
 

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2017年1月11日 (水)

出征 - 豊橋へ -

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                2012年1月撮影

愛知県豊橋市の向山緑地公園に「豊橋工兵隊の碑」がある。当時の訓練用トーチカの上に戦後になって碑が置かれた。かつての軍都豊橋は、陸軍の留守部隊も置かれており、父の軍歴はここから始まった。向山は陸軍の演習場だったが、父は入隊後1週間しか滞在せず、その後名古屋港から大陸に出征した。もうすぐ19歳になるころのことである。所属部隊は当時中国山西省大同にあった「第26師団工兵第26連隊」だった。この連隊は、父が別部隊へ離れた後、かの「レイテ島」に派遣され、激戦で全滅した連隊であった。

1940(昭和15)年12月1日父は入営し、12月8日には名古屋港から大陸に向かった。

入隊したのは大陸派遣の留守部隊であり、我々約150名は第26師団「工兵第26連隊(のちにレイテ島で全滅)」の要員となっていた。我々は基礎訓練を受け始めたが、団体行動が一応とれる程度のヒヨコの新兵であった。派遣先は入隊当時には当然秘匿されていたが、X日に中国に派兵されることは誰からとなく自分らに伝わった。やがてX日が12月8日(大東亜戦争勃発の1年前)であり、派遣先は北支方面の「大同」であることが、すでに噂として皆に知れ渡っていた。北支から初年兵受領に来ていた数名の将校・下士官から非公式に親に文書で伝わっていたのである。

P1120182*上掲の碑の正面中程にあるプレート
工兵の兵科色は明治中頃から鳶色(赤みを帯びた茶色)であったことから、この鳥は鳶ではないかと勝手に想像している。
鳥の足は、工兵の最も大切な武器であった円匙(スコップ)と十字鍬を握っている。

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2017年1月10日 (火)

母の願い

徴兵された兄は、実は「通信兵」になりたかったらしいが、実現しなかった。父は兄の影響を強く受けていたので、「陸軍工科学校(後の兵器学校)」の受験を試みた。その真意はよくわからないが、徴兵される前に人よりはやく軍役を終えてしまいたいという考えは持っていた。徴兵されることで、将来の人生設計が大きく影響されるのを避けたかったのだろう。だが、付け焼き刃の準備では、高倍率の難関を克服することはできなかった。

≪試験に失敗した後、私は決断した。家族にも職場にも隠したまま軍へ志願することにした。すでに試験の前から眼病の治療と扁桃腺の手術を終え、『軍人勅諭』もすべて暗誦できるようになっていた。希望は「工兵」にした。今持っている技術を活かすことができれば、過酷だと聞いていた軍務も少しは楽になるだろうと思ったからだ。
 だが、当時志願するには親の承諾書が必要だった。父や母が同意してくれる見込みは無いと思っていたから、他の多くの志願兵がしたように、私は印鑑を盗用し手続きを終えた。
 昭和15年9月初旬、父が仕事で留守の時、市役所の兵事掛から書類が届けられ、母が受け取った。父が帰宅すると、私は二人から激しい叱責を受けることになった。とくに母は厳しい言葉を私に浴びせた。
 「お前は極道者や。巡査と下士は極道者や。お前は親不孝者や。」
親類や近所の人にも何と言えばいいのか、こんな子どもに育てた覚えはない、と二人は夜遅くまで嘆いたが、私は全く反論できず、ひたすら嵐の収まるのを待つだけであった。≫

今さら志願を取り消すこともできず、結局両親とも諦めるよりほかはなかったのだが、巡査と下士(職業軍人)を志望することに、これほど親が反対した理由について、私は遺稿を読んだときよくわからなかった。
おそらく、親の死に目にも会えない不孝者になるからかもしれないが、私はむしろ別の背景を思った。
以前読んだ兵士に関する本に、関西地域は下士官候補者が極端に少なかったと記してあった。土地柄なのか、都市部の傾向なのかは不明だが、岐阜の西濃地区はもともと関西圏からの影響が大きかったという。いずれにせよ、すでに大陸では戦争が激化していたことを考えると、人の嫌がる軍隊にすすんで志願することを親が許すはずはなかったのである。その後戦地で母親の訃報を知った父は、彼女の意向に背いたことを晩年まで苦しんでいた。

*「陸軍工科学校(後の兵器学校)」
 当時の受験参考書を調べてみた(昭和11年の受験案内)。昭和9年の採用人員150名に対して志願者は約8,400名。体格不合格者、不参加者を差し引いた学科試験受験者が2,300名余り。一般受験者の他に陸軍部内からの受験者もあった。戦時中は志願者が万単位となったという。試験場は本土各地・朝鮮・台湾・関東州・満州国・天津を含め約50か所。身体検査合格後に学科試験を実施し、その内容は高等小学校卒業程度(国語・作文・算術・地歴・理科)であった。

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2017年1月 9日 (月)

兄の出征

軍に志願して出征することになった経緯について、父は詳しく書いている。
2回に分けて、志願するまでを辿ってみたい。

父が高等小学校を卒業したのは、1936(昭和11)年であった。高小に進んだころから、体調の悪かった母に代わって小さな弟や妹の世話をしたり、家業の屋根工事を手伝うなどのため、学校は休みがちだった。そうした貧しい大家族を支えるためには、中学へ進学する夢も諦めなくてはならなかった。
卒業後、父親や知人のすすめで、当時岐阜市内で唯一ボイラーを製造していた小さな町工場に就職することになった。日給50銭(就業時間:朝7時から夜7時まで)は、すでに印刷会社に勤めていた兄の収入と共に家族にとっては大切な収入源であった。

その頃私たちの耳には、静かに、だがハッキリと軍靴の音が近づいていた。学校を終えた翌年の昭和12年には盧溝橋事件があり、岐阜の部隊も大陸の戦線に加わり、日毎に戦死・戦傷者の数が増えていった。
 家族に悲しい出来事があった。昭和13年11月、幼少期より脊椎カリエスの難病のために自宅で療養し、通学もできなかった六男が11歳で亡くなり、家族は皆悲しみに沈んだ。彼は幼少期から頭脳明晰であり、病気にもめげず明るい性格であったから、皆が彼を慈しみ、大家族であるにもかかわらず、自然に静謐さが保たれた家庭となっていた。だが、次第に近づく軍靴の音は、平和だった我々の家庭生活を次第にかき乱していった。

印刷会社に勤めていた兄(長男)は、1939(昭和14)年12月に徴兵された。
入隊したのは名古屋城内にある「第3師団歩兵第6連隊」であり、そして翌年4月には南支「広東」付近に派遣されていった。宣戦布告なき戦争状態は長期化し、昭和13年の「国家総動員法」や経済統制によって、父の工場も材料の鉄板調達さえ困難になっていた。

私はこのころの時代の雰囲気に馴染めなかったし、自分の行く末についても何となく不安や苛立ちをおぼえるようになった。
 いつも起居を共にしていた兄がいなくなったことは寂しかった。今の仕事にこれといった不満はないが、自分の将来に希望や夢を見出すことが次第に難しくなっていった。やがて自分も徴兵されて戦場に駆り出されることになるだろうと考えると・・・

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歩兵第6連隊第10中隊兵舎
 犬山市:明治村2015年撮影

戦後は名古屋大学文学部の三号館として使われていた。現在は愛知県犬山市の明治村に移築され、内部は改装されて当時の兵舎の姿を見ることができる。

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2017年1月 8日 (日)

軍歴 その2 「東南アジア」

1943(S18)年 21歳
6 (?)   シンガポール上陸後、チャンギー地区に駐留
   偶然、ビルマへ移動中の親族と面会
           連隊から船舶工兵第12連隊の基幹部隊として
           一個中隊が転出し、ラバウルへ
8.  3  スマトラ島北部の「ベラワン」へ移駐
10. 1  機雷掃海のため「パレンバン」へ出張
11.25   ベラワンに帰隊
12. 1   陸軍軍曹

1944(S19)年 22歳
6.28 アンダマン諸島への移駐作戦のためベラワンを出港
 29  英軍潜水艦(Spiteful)が船団の父の乗る機帆船に
   3発の魚雷攻撃

 30  同潜水艦が浮上して同じ機帆船に艦砲射撃
        (友軍機雷撃するも潜航退避)
8.31 連隊主力はアンダマンへの移駐を断念
      マレー半島の「ポートセッテンハム」に移駐
11.1  現地徴兵初年兵教育の助教(2度目)
12.16 レイテ島で工兵第26連隊全滅
   (456名戦死・生存1名?)


1945(S20)年 23歳 
2.16  二度目となる初年兵教育終了
7.9  B29による岐阜夜間空襲(実家焼失) 
8.15  「大東亜戦争終結の詔書」  連合国軍に降伏
        現地ゲリラが連隊の三宅偵察隊を襲撃(13名戦死)
9.15  「クアラルンプール」へ移動
        「タンジュンマリム」へ移動
        「クアラクブ」へ移動(武装解除)
        「ラヤンラヤン」へ移動し、連隊単独で自活生活
12.1  陸軍曹長

1946(S21)年 24歳
3.10  シンガポールの「リババレー作業隊(収容所)」へ派遣
        主に港湾土木作業、衛生材料整理などの作業に従事
   この間、作業隊内に演芸場設営
7.26  シンガポール中部の「ニースン日本人病院」第二衛材科
   へ派遣。ここでも演芸場設営

1947(S22)年 25歳
1.7 病院患者の内地移送のため英軍病院船 Oxfordshire
   患者付添者として乗船(主に炊事係)
1.20 広島・宇品港に上陸(史料では19日に病院船着とある)
         宇品引揚援護局で検疫及び復員手続き 
1.23  岐阜の実家で復員完結(25歳誕生日)

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2017年1月 7日 (土)

軍歴 その1「東アジア」

あらかじめ、父の大まかな軍歴を「その1」「その2」として記しておきます。

1922(大正11)年岐阜市生まれ。夭折した3人以外に兄弟は7人。三男。
高等小学校卒業後、工員となるも、18歳で陸軍に志願。
野戦工兵、渡河工兵を経て船舶工兵に。戦時最終階級は軍曹(降伏後曹長)。
中国、スマトラ、マレーを転戦。降伏後シンガポール等で約1年半の抑留生活。
なお軍歴の詳細は、父が書き遺したもの以外に、私の調査した結果も含みます。

 

1940(S15)年 18歳
12. 1  志願兵として豊橋の工兵第3連隊入隊  北支派遣要員となる
12. 8   熱田神宮参拝後、名古屋港から出征  「大日丸」に乗船
12.16   天津・大沽(太沽)に上陸
12.19   山西省「大同」 第26師団「工兵第26連隊」第二中隊編入

1941(S16)年 19歳
 4末   第1期初年兵教育修了
6.  1   陸軍一等兵 
6 (?)   将校斥候の一員として外蒙国境偵察(五原?五奉子?)
6~8   「包頭」で渡河訓練
9 (?)   連隊は「河南鄭州攻略戦」に出動するも自身は残留
         温河の大同鉄橋の警備等に従事  9月末、母の訃報を知る  
12. 8   米英両国への宣戦詔書

1942(S17)年 20歳
3. 1   「開封」「関東軍 独立工兵第53大隊」へ編入
5. 1   陸軍上等兵
6 (?)  「斉斉哈爾」「関東軍下士官候補者隊」へ派遣
10. 1  大隊は「浙贛(セッカン)作戦」に参加( ~11月)
11.25  陸軍兵長
11.30  下士官候補者教育修了
12. 1  斉斉哈爾より「蚌埠」の原隊に復帰
12.25  陸軍伍長
        「船舶工兵第10連隊」要員として上海へ移駐
          補充兵第一期教育の助教(~1943.2)

1943(S18)年 21歳
3 (?)  上海の「呉淞」へ移駐
4.16   舟艇特別訓練のため広島・宇品「陸軍船舶練習部」へ出向
4 (?)   特別休暇で岐阜の実家に帰省
6. 9  突然訓練中止となり、特殊船「摩耶山丸」で宇品を出港
          伊万里湾から「吉林丸」と2隻で出港 
          第38号哨戒艇(もと駆逐艦「蓬」)も呉淞まで同行、
          のち離脱 
6.10   呉淞に寄港  連隊要員と舟艇を乗せ、「関西丸」も合流して出港 
          途中、台湾・澎湖島「馬公」に寄港   
6.20   シンガポール港着 停泊後上陸

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2017年1月 6日 (金)

はじめに

このブログは、父の遺稿「従軍略記」を編集したものです。

タイトルはブログ用に改名し、「海の陸兵」としました。
父から聞き取った体験談、私が調べたことなども付け加えてあります。元になった「従軍略記」そのものは、すでに2年前、小冊子にして縁者・知人には配付しました。このブログ記事では、原文の一部はそのまま掲載してありますが、むしろ私の調べたことを題材にして、父の軍歴をより詳細に辿ることに重きを置いたものにしました。そのため、記事は軍歴の順番にならない箇所もあるかもしれません。

父の軍歴には、世に有名な作戦や戦闘への参加はありません。でも、英軍潜水艦から攻撃されたことやシンガポール等での厳しい抑留生活は経験しています。戦争から生還できたからこそ書き遺すことのできた事実とその記憶は、大切にしたいと思っています。
遺稿の編集は、もともと父の供養にと思ったことがきっかけでした。1週間もあれば出来上がるだろうと予想しての作業でした。ところが詳しく読み、編集するにつれて、先の戦争について調べたり、父の生きた時代を振り返ることに多くの時間を費やすようになりました。
この遺稿を記した父の願いも、実はそうした時間を私に与えることにあったのではないかと思うようになりました。編集中に、生前の父が知りえなかった事実も明らかになり、内外の人たちと連絡を取り合うこともできました。

先の戦争では、大正生まれで高小卒の若者が兵士の大半を占めていました。父もまたそうした若者のひとりでした。彼らの大半はすでに世を去り、その子の世代も次世代に後ろ姿を見送られようとしています。これを読んでくださった方々が、父の記憶のほんの一片だけでも受け継いでくださったのなら、父の願いは叶えられたと思っています。

*上述の編集の経緯は、いずれ詳しく記すことにします。
*全体は幾つかの章(ブログではカテゴリー)に分けてあります。
*人名は、数名の方を除き、すべて匿名扱いとしました。
*掲載の「絵葉書」は、ブログ主の蒐集したものです。

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