「呉淞」の砲台
絵葉書:呉淞砲台跡
初年兵教育が終わった1943(昭和18)年2月、父は再び上海の黄浦江などで舟艇訓練などの通常業務に戻った。このころから大発・小発などの上陸用舟艇や新しい無線機器が配備され、その使用訓練と整備などが昼夜無く続いたという。そして3月になると、連隊は本格的な舟艇運用のために上海北部の「呉淞」地区へと移駐した。
≪呉淞地区は第二次上海事変で多くの犠牲者を出した敵前上陸の激戦地である。岐阜や名古屋の部隊にも多くの戦死者がいる。
ある日、戦友と呉淞砲台に行ったことがあった。すでに第一次上海事変後に砲台は破壊されていたらしいが、覗いた砲身の中に砲弾が止まったままになっているように見えた。そのとき小さい頃に父から聞いた話を思い出したのである。かつて蔣介石が日本から砲弾を買ったことがあったが、その中には不良品が混じっていたらしいとのことである。話の真偽はともかく、あの大きな砲身は冷たく不気味な肌触りであった。
私は「野戦工兵」から「渡河工兵」となり、こんどは「船舶工兵」となった。上海や呉淞では海上訓練も加わり、陸軍なのに海で活動することが本務となってしまった。意外なことであった。手旗信号は水兵だけのものと思っていたので、最初は戸惑ったものである。いや、それよりも私は金槌だったのである。乗船中はカポックを着用しているとはいえ、そんな私が「ヨーソロー」などと指示する大発の艇長だったとは、今でこそ言える笑い話である。≫
1943(昭和18)年初頭、すでに志願から2年の月日が経ち、「船舶工兵」下士官としての任務にも慣れてきたころである。予想に反し、陸の工兵から「海の工兵」となった父は、やがて大陸を離れ、南方戦線へ向かうことになる。
この頃の戦況は曲がり角に来ていた。昨年夏、ミッドウェー島攻略を試みたが海戦で打撃を受け、太平洋戦線は次第に守勢にまわり、2月には「ガダルカナル島」から撤退した。4月には山本五十六が米軍機の待ち伏せ攻撃を受け戦死している。
4月、呉淞にいた父に突然広島・宇品への派遣の命令が下った。
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