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2017年1月23日 (月)

四馬路と先輩下士官

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               絵葉書:ガーデンブリッジ
                 四馬路などの繁華街は画面右奥
        
「上海帰りのリル」という歌が戦後間もない昭和26年頃流行していたという。のちにテレビでこの曲が懐メロとして流れると、父は懐かしそうに口ずさんでいたことを思い出す。「・・・夢の四馬路の霧降る中で・・・」という歌詞がある。その「四馬路」のことを、父は幼い頃から私によく話してくれた。
すでに戦前の歌に「上海リル」があり、さらに「上海帰りのリル」のアンサーソングのようなものが何曲かつくられていたらしい。謎の「リル」のことを含めその歌謡史は興味を誘うが、本題は歌ではなく、「四馬路」のことである。

ある日、同郷の先輩下士官に誘われ、二人で上海市内に外出したことがあった。「四馬路」街にあるフランス料理店で、昼食のフルコースを生まれてはじめて注文した。戦時下のほんの一時の贅沢だった。彼は高潔でありながら人情味溢れ、互いに本音で話し合える数少ない先輩・戦友のひとりだった。その後、彼とは部隊が分かれ、消息がわからなかったのであるが、戦後戦友会で聞いたところによると、ビルマのラングーン沖で彼の乗る輸送船が空襲で撃沈され、戦死したとのことである。四馬路を冗談を言い合いながら歩いた思い出は忘れ難く、戦後再会できなかったことは残念なことであった。

先輩下士官や上海での休暇の日の食事がよほど印象に残っていたのだろう。父の実直な性格のせいか、遺稿にはあまりこうした体験や人間関係のことは書かれていないことを思うと、珍しい箇所である。そして、初めて「戦死者」のことを書いている。
彼のことは戦友会誌を見ても誰かは分からない。ただ、ラングーン沖で沈没した輸送船について調べてみたところ、可能性のある船が見つかった。ラングーン沖海域で空襲や触雷によって沈没した船は13隻あり、沈没時期と乗組員に船舶兵が乗っていた可能性のある船などを特定すると、以下の3隻の可能性が強い。いずれも沈没時期は、1943(昭和18)年8月~12月である。「第5高島丸」 「どうばあ丸」 「みらん丸」(なお資料は「沈没した船と海員の資料館」のサイト等を用いた。)

とくに南方で戦った陸軍兵士の方の手記や談話には、数多くの船の名前が出てくる。「船舶戦争」ともいわれるあの戦争を考えるとき、私は軍艦だけでなく戦争に駆り出された民間輸送船と船員の悲劇を決して忘れてはならないと思う。

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