陸軍船舶工兵第10連隊
絵葉書:上海バンド(黄浦灘)
現在も多くの建物が残っている
陸軍「船舶工兵第10連隊」に転じた父は、以後降伏時までこの連隊の下士官として勤務することになった(いわゆる「船舶工兵」の概要はいずれまた)。
≪12月から上海で活動することになった連隊は、現役兵に加え、内地からやってきた補充兵や召集兵など、総員千名ほどに膨れあがった。その兵舎は、「上海ココー(滬江)大学」の建物を使うことになったが、東側にはクリークが接していたように思う。上海は今まで見たこともない大都市であり、活気に満ちた国際都市であった。
相変わらず資材や陸上運搬手段が欠乏している状況でも、「船舶工兵」としての訓練や演習だけは厳しいものであった。私は初年兵教育の「助教」を初めて務めることになった。兵は30歳くらいまでの者で、なかには妻子ある者が多くいた。関西の都市部出身の補充兵の割合が高かったので、農村出身者と比べると体力や気力はやや劣る者が多く、そのため助手も私も初めは何かと苦労や悩みが絶えず、必要な技能や習慣を身につけさせることに時間と手間がかかったのである。≫
「滬江大学」は1906年に米国のバプテスト教会系の人たちによって創られた大学である。現在は「上海理工大学」になっており、当時の美しい校舎などをネットでも見ることができる。場所は、黄浦江がバンドから東へ流れ、北へ蛇行し始めるあたりにある。東側には父の記しているように確かにクリークが南北に走っている。
連隊が黄浦江などを拠点にして大発や小型舟艇などの操舵訓練を行っていたとき、父は初めて初年兵教育を担当することになった。
≪1943(昭和18)年正月、上海バンドの対岸で舟艇訓練をしていたとき、突然の部隊長命令で上海神社までの駆け足訓練が実施された。助教であった私は、もともと足腰の弱い自分がはたしてそこまで辿り着けるか不安だった。ガーデンブリッジに差しかかり、ブロードウェイマンションを見ながら橋を渡ったころからすでに息が苦しくなっていたが、立場上気が張っていたのかなんとか神社に辿り着くことができた。≫
実直だったせいか、父の遺稿にはほとんど軍務以外のことは書かれていない。けれどもある休暇の日のことを珍しく回顧していた。次回は「四馬路」と先輩下士官のことを記す。
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