別れ - 永訣 -
絵葉書:名古屋港(昭和初期か)
父たちの部隊は、豊橋を出たあと名古屋の「熱田神宮」に立ち寄り、名古屋港へ行く。このとき、神宮の大鳥居横では母、そして名古屋港では父が見送りに来ていた。
≪昭和15年12月8日朝、豊橋を発った我々は「熱田神宮」に向かった。もちろん沿道は家族や一般の見送り人でいっぱいだった。参拝・休憩して行進を開始したときのことである。ちょうど南の大鳥居を出るとき、その柱の周りにいた多くの見送り人を横目でひょいと一瞥すると、たしかに母と叔母がおり、視線が一瞬合ったのである。手の届きそうな距離だったが、行進中でもあり、何も言葉を交わすことはできなかった。母の淋しそうな表情だけは今も目に焼き付いている。これが永訣であった。
やがて私たちは名古屋港の埠頭に着いた。港に集結していたのは、愛知・岐阜・静岡の出身者で、私たちと同じ地域に派遣される予定の歩兵・工兵・砲兵・輜重の各兵士たちである。ここでも多数の家族や見送り人でいっぱいだった。
乗船したのは輸送船「大日丸」約五千㌧であった。総員が乗船完了したのは午後4時頃だったが、日は短い頃だったにもかかわらず、まだ明るさは残っていた。汽笛と共に船が埠頭から離れるとき、甲板にいた私から50㍍ぐらい離れたところに見送り人の一団があり、その中にひときわ大きな日章旗を振る父の姿を見ることができた。父は何かを叫んでいたが聞き取れなかった。それでも私は父が見えなくなるまで精一杯両手を振り続けた。≫
この日から、父は約6年間兵士としての生活を続けることになる。ちょうど1年後に米英との戦争が始まり、やがて降伏することなど予想もしていなかった。2年ほどすれば除隊して新しい人生を歩めるだろうという希望をもっての出征だった。
*「大日丸」について(「戦没した船と海員の資料館」のWebサイト等より)
1922(T11)年4月に三井の貨物船として竣工。最初の船名は「伊吹山丸」。主に北米航路や援用不定期船として運航。1935年に板谷商船に売却されてから「大日丸」になった。陸軍に徴用されて兵士・捕虜の輸送にあたり、1942(S17)年にはシンガポールから連合国軍捕虜を台湾や本土に移送した。1943(S18)年10月6日、高雄からマニラに向け出港。8日ルソン島北端ボヘアドール岬西北西150km付近において「米軍潜水艦 Gurnard (SS-254) 」の魚雷攻撃をうけ沈没。乗船部隊2,025名、船員64名の計2,089名が戦死。
| 固定リンク
「Ⅱ 志願」カテゴリの記事
- 別れ - 永訣 -(2017.01.12)
- 母の願い(2017.01.10)
- 兄の出征(2017.01.09)
- 出征 - 豊橋へ -(2017.01.11)
コメント