母の願い
徴兵された兄は、実は「通信兵」になりたかったらしいが、実現しなかった。父は兄の影響を強く受けていたので、「陸軍工科学校(後の兵器学校)」の受験を試みた。その真意はよくわからないが、徴兵される前に人よりはやく軍役を終えてしまいたいという考えは持っていた。徴兵されることで、将来の人生設計が大きく影響されるのを避けたかったのだろう。だが、付け焼き刃の準備では、高倍率の難関を克服することはできなかった。
≪試験に失敗した後、私は決断した。家族にも職場にも隠したまま軍へ志願することにした。すでに試験の前から眼病の治療と扁桃腺の手術を終え、『軍人勅諭』もすべて暗誦できるようになっていた。希望は「工兵」にした。今持っている技術を活かすことができれば、過酷だと聞いていた軍務も少しは楽になるだろうと思ったからだ。
だが、当時志願するには親の承諾書が必要だった。父や母が同意してくれる見込みは無いと思っていたから、他の多くの志願兵がしたように、私は印鑑を盗用し手続きを終えた。
昭和15年9月初旬、父が仕事で留守の時、市役所の兵事掛から書類が届けられ、母が受け取った。父が帰宅すると、私は二人から激しい叱責を受けることになった。とくに母は厳しい言葉を私に浴びせた。
「お前は極道者や。巡査と下士は極道者や。お前は親不孝者や。」
親類や近所の人にも何と言えばいいのか、こんな子どもに育てた覚えはない、と二人は夜遅くまで嘆いたが、私は全く反論できず、ひたすら嵐の収まるのを待つだけであった。≫
今さら志願を取り消すこともできず、結局両親とも諦めるよりほかはなかったのだが、巡査と下士(職業軍人)を志望することに、これほど親が反対した理由について、私は遺稿を読んだときよくわからなかった。
おそらく、親の死に目にも会えない不孝者になるからかもしれないが、私はむしろ別の背景を思った。
以前読んだ兵士に関する本に、関西地域は下士官候補者が極端に少なかったと記してあった。土地柄なのか、都市部の傾向なのかは不明だが、岐阜の西濃地区はもともと関西圏からの影響が大きかったという。いずれにせよ、すでに大陸では戦争が激化していたことを考えると、人の嫌がる軍隊にすすんで志願することを親が許すはずはなかったのである。その後戦地で母親の訃報を知った父は、彼女の意向に背いたことを晩年まで苦しんでいた。
*「陸軍工科学校(後の兵器学校)」
当時の受験参考書を調べてみた(昭和11年の受験案内)。昭和9年の採用人員150名に対して志願者は約8,400名。体格不合格者、不参加者を差し引いた学科試験受験者が2,300名余り。一般受験者の他に陸軍部内からの受験者もあった。戦時中は志願者が万単位となったという。試験場は本土各地・朝鮮・台湾・関東州・満州国・天津を含め約50か所。身体検査合格後に学科試験を実施し、その内容は高等小学校卒業程度(国語・作文・算術・地歴・理科)であった。
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