兄の出征
軍に志願して出征することになった経緯について、父は詳しく書いている。
2回に分けて、志願するまでを辿ってみたい。
父が高等小学校を卒業したのは、1936(昭和11)年であった。高小に進んだころから、体調の悪かった母に代わって小さな弟や妹の世話をしたり、家業の屋根工事を手伝うなどのため、学校は休みがちだった。そうした貧しい大家族を支えるためには、中学へ進学する夢も諦めなくてはならなかった。
卒業後、父親や知人のすすめで、当時岐阜市内で唯一ボイラーを製造していた小さな町工場に就職することになった。日給50銭(就業時間:朝7時から夜7時まで)は、すでに印刷会社に勤めていた兄の収入と共に家族にとっては大切な収入源であった。
≪その頃私たちの耳には、静かに、だがハッキリと軍靴の音が近づいていた。学校を終えた翌年の昭和12年には盧溝橋事件があり、岐阜の部隊も大陸の戦線に加わり、日毎に戦死・戦傷者の数が増えていった。
家族に悲しい出来事があった。昭和13年11月、幼少期より脊椎カリエスの難病のために自宅で療養し、通学もできなかった六男が11歳で亡くなり、家族は皆悲しみに沈んだ。彼は幼少期から頭脳明晰であり、病気にもめげず明るい性格であったから、皆が彼を慈しみ、大家族であるにもかかわらず、自然に静謐さが保たれた家庭となっていた。だが、次第に近づく軍靴の音は、平和だった我々の家庭生活を次第にかき乱していった。≫
印刷会社に勤めていた兄(長男)は、1939(昭和14)年12月に徴兵された。
入隊したのは名古屋城内にある「第3師団歩兵第6連隊」であり、そして翌年4月には南支「広東」付近に派遣されていった。宣戦布告なき戦争状態は長期化し、昭和13年の「国家総動員法」や経済統制によって、父の工場も材料の鉄板調達さえ困難になっていた。
≪私はこのころの時代の雰囲気に馴染めなかったし、自分の行く末についても何となく不安や苛立ちをおぼえるようになった。
いつも起居を共にしていた兄がいなくなったことは寂しかった。今の仕事にこれといった不満はないが、自分の将来に希望や夢を見出すことが次第に難しくなっていった。やがて自分も徴兵されて戦場に駆り出されることになるだろうと考えると・・・≫
歩兵第6連隊第10中隊兵舎
犬山市:明治村2015年撮影
戦後は名古屋大学文学部の三号館として使われていた。現在は愛知県犬山市の明治村に移築され、内部は改装されて当時の兵舎の姿を見ることができる。
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