摩耶山丸のこと-その2-
摩耶山丸についてもう少し記しておきたい。ただし、摩耶山丸の船歴や構造の詳細についてはここでは省略する。
もともと摩耶山丸は特殊船と呼ばれた「舟艇母船」であり、上陸作戦時において大発などの各種舟艇を効率的に輸送・運用するための揚陸母船として造られている。他に神州丸、あきつ丸、吉備津丸などがある。しかし一部を除き上陸作戦で用いられることはなく、単なる輸送船としての役割に終始した。父が乗ったときも、船内、船上に多くの舟艇を積んでいたようだが、実戦運用ではなく単なる舟艇・兵員輸送のためにシンガポールに向かったのである。
摩耶山丸は、1944(昭和19)年11月17日、伊万里からマニラに向け航行中、済州島西方120㎞、米潜水艦の雷撃により沈没した。死者数:第23師団 4,387名中 3,187名、船砲隊 194名、船員 56名、計 3,437名 (戦没した船と海員の資料館のウエブサイト資料)
調べてみると、その犠牲者数は戦時中の戦没船舶のなかでも極めて多いものであった。幾つかの書籍には、戦没船員の氏名、その年齢層などを見ることができる。『商船三井船隊史1884-2009』によれば、55名の船員の年齢層は14~46歳。そのうち10代は34名にのぼる。また、最近(2013年)になって、上記船員の他に数十人の死者があらたに判明し、その多くは調理員であったという(戦没した船と海員の資料館の調査)。
おそらく父が乗船したときに船員であった方々、なおかつ10代の若者も多く亡くなられたのであろうと思うと胸が痛くなる。
さて次回は南方最初の駐留地であるスマトラのベラワン、そしてパレンバンでの機雷掃海について記す。
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