英軍潜水艦の攻撃-その2-
約60年前、私が保育園のころ画いた絵の大半は海の戦闘場面や軍艦と潜水艦ばかりであった。おそらく父は私が幼いころから繰り返し自分の戦争体験を話してくれていたに違いない、と今になって思うのである。普段の父はあまり話し好きではなかったし寡黙なほうだったが、自身の軍隊生活を語るときは人が違ったようになり饒舌であった。
そうした父の体験話のひとつは、父の乗る船に敵の潜水艦が魚雷攻撃や艦砲射撃をした出来事だった。けれども、この潜水艦に攻撃された話について私が真剣にその詳細を知りたいと思うようになったのは、残念ながら父の死後のことであった。
1944(昭和19)年6月末に父が体験した潜水艦からの攻撃。
この出来事について、父が書き遺したり話してくれたこと、そして私が調べたことや、その潜水艦を捜し当てて艦長の子息と連絡が取れたことなどを数回に分けて記してみたい。
1943(昭和18)年9月末の御前会議で、いわゆる「絶対国防圏」なるものが設定された。
しかし翌昭和19年になると、すでに日本側劣勢のまま、戦争の遂行そのものが次第に困難となりつつあった。ビルマ戦線ではインパール作戦が3月に始まっていたし、ニューギニアでは5月末ビアク島に敵の上陸を許し、やがてフィリピンへの敵の侵攻も現実のものとなったのである。
絶対国防圏西の最前線、当時の南西アジア方面に限ってその戦況をみると、1944(昭和19)年3月南方軍隷下、あらたに第7方面軍(通称「岡」)が新設されることになったが(3月27日)、同時にシンガポールの南方軍総司令部はマニラに移ることになった(5月)。
4月、第7方面軍は、英印軍の最終作戦目標はシンガポール奪還にあるとみたが、さしあたってアンダマン、ニコバル諸島、スマトラ北部を占領後、マレー半島に上陸してくるだろうとの判断をもっていた。これによって、アンダマン、ニコバル諸島の兵力増強と兵器等の増加配備が画策されたのである。昨年連隊がベラワンに移ったころから、各中隊からはアンダマン、ニコバル諸島方面に少数ではあるがすでに何名か派遣されたり、輸送業務には就いていたものの、いよいよ本格的な連隊主力の移駐が決まったのである。
第7方面軍は1944(昭和19)年5月26日、船舶工兵第10連隊主力をスマトラからアンダマン、ニコバル諸島方面に転用する命令を下した。
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