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2017年2月11日 (土)

ベラワンとパレンバン

Photo_3  マレー、スマトラ要図(Google地図をもとに作成 拡大可)

シンガポールで一時的な滞在の後、連隊主力はスマトラ島ベラワンに向かう。

8月中旬になり、ようやく連隊の駐留地が決まった。スマトラ島北部の第1の要衝「メダン」のベラワン港である。輸送船「八雲丸」などでマラッカ海峡を北上した。
ベラワンは、ここからさらに北方に向かうとアンダマン海やインド洋に通じる重要拠点であり、沖合には英連邦軍の潜水艦が頻繁に出没する敵味方の最前線でもあった。我々は主に沿岸警備、海上輸送などを任務としたが、ふだんは舟艇訓練や通信訓練を間断なく続けることになった。しかし敵爆撃機の空襲が徐々に激しくなり、決して安全なところではなかった。
船舶工兵第10連隊は、この地域で唯一の船舶工兵部隊であった。そのため活動範囲は極めて広範囲に及び、アンダマン諸島、スマトラ島、マレー半島、さらにはジャワ島、ボルネオ方面にまで連隊要員が出向いていたのである。おまけに海軍とも連携する機会が多く、機雷掃海などの補助的任務を任されることもあった。
1943(昭和18)年10月、私は連隊の中隊の38名とともに、スマトラ島南部の「パレンバン」へ出張を命じられた。任務は「ムシ河」の機雷掃海である。
パレンバンは、米英との開戦時の蘭印作戦で、重要な石油資源確保のため落下傘部隊の奇襲が行われたところである。私が行った頃はすでに大型機雷は大部分除去されていたようだが、まだ多くの機雷が残っており、船舶航行に支障があったためである。

戦友会誌の記述によると、1943(昭和18)年10月8日にベラワンを発ち、ペナンまで船で行き、そこから列車でシンガポールへ。バンカ島ムントクまで客船に乗り、さらにパレンバンへ。その業務を終えて復帰したのは11月末であったという。

八雲丸:大阪商船所属。1944(昭和19)年3月19日、ニューギニア・ウエワク北方で空爆のため沈没。船員・便乗者62名、船砲隊48名戦死。(戦没した船と海員の資料館より)

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