駆逐艦「吹雪」のK君
*以下の記述は★→「パレンバンの掃海業務」も参照してください。
≪訓練は2か月の予定であった。内地の土を踏めることは、突然ではあったが嬉しいことであった。往路は鉄道を使った。上海から朝鮮半島を経ての長旅である。
京城郊外を列車が走っていたとき、車窓からは美しい桜の花が見えたことを思い出す。もうすぐ内地に着くのだと思うと胸が高まるのを抑えられなかった。
広島へ来るのは初めてである。日清戦争以来の軍都であり、我々船舶工兵を統括する司令部もある。我々が利用した宇品の船舶練習部の兵舎は、実は復員時にも全く同じ部屋を使ったのであるが、不思議なことであった。
訓練に先立ち特別休暇が数日与えられた。懐かしい岐阜の実家に帰ると、家族の皆は突然のことで随分驚きつつも大いに喜んでくれた。実に2年半ぶりの再会だった。しかし母はすでに旅立ち、あらためて墓前で自分の不孝を悔やみ、そして父や家族に迷惑をかけたことを詫びたのである。
このとき悲しい報告もあった。隣家のK君が南方ソロモン海で去年戦死したとのことである。彼は幼い頃から兄弟同様の友人であり、同学年でもあったから大きな衝撃であった。
彼は駆逐艦「吹雪」の乗組員であり、1942(昭和17)年10月のソロモン諸島における海戦(サボ島沖の夜戦)で「吹雪」は沈没し、戦後調べたところ、乗組員はほぼ全員に近い戦死であったという。そして不思議なことに、「吹雪」の最期については、私が南方に行ってからもある水兵から再び詳しく聞くことになるのである。
さて、休暇も終わって宇品へ戻るとき、「訓練は2か月だから、終わる頃にはもう一度休暇で帰ってくる」と父に告げたのであるが、残念なことにその予定は実現できなかった。≫
戦死した駆逐艦「吹雪」の乗組員K君のことは、父が度々話してくれたので記憶に残っている。後に記すが、南方へ行ってからも、父は吹雪沈没の話を、沈没した戦艦「霧島」の助かった水兵から聞くことになる。竹馬の友の死は悔しく悲しい出来事であり、生涯忘れることはなかったのである。
以前私が呉の長迫公園(旧海軍墓地)を訪れたとき、「第十一駆逐隊慰霊碑」横の戦没者名簿の「吹雪」には、たしかに「K君」の名も刻まれており、なぜか家族の名を見つけたような気がして、思わず手を合わせたことがあった。
2か月の予定で宇品に派遣された父は、わずか数週間で突然原隊復帰の命令を受けることになる。そのため2度目の帰郷は叶えられなかった。
*駆逐艦「吹雪」の最期については後日また記してみたい。なお上の写真は、小学生以来こうしたものを作っていないが、昨年ある店でたまたま目にし、つい買ってしまったプラモ。ところが、中にある解説書の最後には、「1942年10月12日にサギ島沖夜戦で・・・敵艦の電探射撃により沈没した。」とあった。「サギ島」は誤植であろう。ちなみに英文のほうは正しく the Battle of Cape Esperance とあった。
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