出会い
1943(昭和18)年6月20日、摩耶山丸はシンガポール(昭南島)に着いた。
父たちには行き先を知らされないまま、呉淞から約2週間の船旅であった。やがてチャンギー地区に上陸した父は、突然そこで親族と面会することになった。
≪この人は父親の妹婿の栗本という名古屋に住む35歳の補充兵であった。ある日突然、私を名指しで面会に訪れたので驚いたのである。もちろん初対面である。
南方にしては太陽が雲に隠れた肌寒い日だったと記憶している。それでも私はサイダーを出し、1時間ばかり談笑した。聞くところによれば、彼は私と同じ豊橋の工兵連隊に召集され、これからシンガポール経由でビルマ方面に向かうとのことであった。
「親にも行き先を知らせていないのに、なぜ私がここにいることがわかったのですか」と問うと、「たまたま港にいる部隊の人と雑談をしていたら、あなたのことを知っていると言われた」とのことである。外地で親族と初対面とは「奇跡ですね」と互いに驚き喜んだのであった。
ところが「会うは別れのはじめ」というが、戦後実家に復員した私は、彼が派遣されたビルマで戦死したことを知ったのである。しかもそのとき、母方の親族のひとりもレイテ島で戦死していたこともわかったのである。
シンガポール滞在は2か月ほどであったが、連日彼のような兵士たちがここに立ち寄り、少しの休息を得たあと、あたかも風のように激戦地に去って行き二度と故郷には帰らなかった。すでに戦後半世紀を経た今でも、自分がこうして生きていることが、ときどき不思議なことに思えてくるのである。≫
親族の戦死は、父にとって辛いことであった。戦死者のいなかった父の家族は幸せであったが、戦死者をもつ親族の前では(もちろん隣近所でも)、戦後その喜びを語ることなどできなかった。 絵葉書:昭南島
やがて8月中旬、父の部隊はスマトラ島へ向かうことになった。
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