摩耶山丸のこと-その1-
摩耶山丸 一般配置図
(アジ歴より:詳細は末尾記載)
ここであらためて、父たちを乗せた「摩耶山丸」が、どのような航路で「シンガポール」に安着できたのか辿ってみたい。まだ一次資料が確認できないので、すべて書籍等の二次資料から推測する。
まず駒宮氏の書籍にはこうある。
昭和18年6月7日「宇品」―同年6月20日「昭南」安着
船団:吉林丸、摩耶山丸、関西丸の3隻 護衛艦艇名:不詳
『戦時輸送船団史』(駒宮真七郎 昭和62年 出版協同社)62頁
すでに紹介した父の記述も宇品出港は6月7日である。しかし戦友会誌には、宇品出港ではなく、連隊が乗船した呉淞の出港日(これも複数の異なる日付)の記述があるのみである。ただ、呉淞から駆逐艦1隻の護衛が途中まであったこと、台湾馬公に寄港し「関西丸」(第15師団乗船)と船団を組んだこと(サイゴン沖で分かれた)、サイゴン沖で海軍機1機が一時護衛したことなどの記述が見られた。そしてシンガポールに着いた6月20日の日付は、複数の資料とも同じであった。
次にウエブサイトで確認できる資料については以下のとおりであった。
「Imperial Japanese Navy Page 」(http://www.combinedfleet.com/Mayasan_t.htm)
これによると、摩耶山丸は5月18日には宇品を出て、6月9日の午後3時になって「吉林丸」とともに伊万里湾を出港し、船団名は「シ-902」であった。さらにその際、PB-38(哨戒艇)が護衛し、15ノットで移動しているとされている。
6月10日の午後7時には台湾沖で哨戒艇の護衛はなくなり、その夜に呉淞に到着する。そしてその日の内には船団に「関西丸」を加えて未確認の護衛艦とともに呉淞を出港し、6月20日にシンガポールに到着した。
この海外資料は日本の記録をもとにしていると思われるが、一次資料が何なのかは不明である。以上の諸資料をまとめると、次のようなことが推測できる。
5月18日宇品発―(いったん宇品に戻り)―6月7日宇品発―6月9日伊万里湾発(吉林丸及び護衛艦として第38号哨戒艇同行)―6月10日呉淞着―同日呉淞発―(途中台湾澎湖島馬公寄港:関西丸同行は呉淞からの可能性あり)―6月20日シンガポール安着。
なお複数の資料とも、関西丸は6月20日にシンガポールに着いており、一時途中から航路を別にしたかもしれないが、目的地は同じであったことになる。
関西丸、吉林丸などの資料も詳しく調べるべきだが、それは後日にし、次回は、摩耶山丸の最期について記す。
*上掲の摩耶山丸一般配置図:アジ歴の資料 C14020235500「特殊船摩耶山丸一般配置図其の1」のうち1-3の3枚を筆者が結合・編集したもの。なお「揚陸艦艇入門」(大内健二 NF文庫 2013年)にも摩耶山丸の一般配置図の詳細がある。
*PB-38:もと駆逐艦「蓬」
*戦友会の会誌:「船舶工兵第十聯隊200人の實證(全8巻)」
| 固定リンク
「Ⅴ シンガポール・ベラワン」カテゴリの記事
- パレンバンの掃海業務(2017.02.12)
- ベラワンとパレンバン(2017.02.11)
- 摩耶山丸のこと-その2-(2017.02.10)
- 摩耶山丸のこと-その1-(2017.02.09)
- 出会い(2017.02.06)
コメント