« 降伏時の悲劇① | トップページ | 8月15日 »

2017年3月21日 (火)

降伏時の悲劇②

Photo                  偵察隊の経路

「深刻な情勢変化」とは何であったか。いうまでもなく日本が降伏するかもしれないという情報が連隊に飛び込んできたのである。そこで8月13日には、連隊要員が現在行っている偵察を含む作戦行動、出張・派遣の命令をいったん中止する旨連隊本部から各部隊に連絡されたのである。ペラ河偵察の偵察隊にも、13日テロカンソンでその連絡はなされたのであるが、偵察隊は任務はすぐ終わると考え、翌14日そのまま河を遡上し、偵察を続けたものと考えられる。

14日午後5時、浅瀬が多く遡上に苦労していたところ、カンポンガジャ付近で大発が浅瀬で座礁し航行不能になった。小発で何度も曳いたが脱出できず、翌15日朝に再度試みることになった。
15日朝から作業をしていたところ、午前11時、河岸から突如一斉射撃を受け、隊員全員は水に入り舟艇を盾にして銃弾を避けたが、武器は舟の中にあり、ほとんど反撃できなかった。そのため舟艇に火をつけて逃げようとしたが、敵ゲリラの銃撃は止まず、ついにM少尉はじめ隊員の大半は被弾、水没してしまった。わずかに傷を負った2名のみが下流のテロカンソンに流れ着いた。8月15日の出来事であった。

中隊本部にいた父は、翌16日午後2時頃に長距離電話の緊急連絡を受けている。下流で救助された二人のうちどちらかがテロカンソンからポートセッテンハムに電話したものと思われる。連隊内は、すでに前日15日に降伏を知ってから一部兵士に動揺もあり、偵察隊への襲撃を知って「仇討に行かせてください」と銃を取る者も多数あったそうだ。しかし、すでに降伏している状況では、結局誰も行動することができなかったのである。

偵察隊14名のうち、1名が事故で水死、11名が戦死、2名が生き残った。後日、生き残った一人が警備隊とともに現場確認をし、2名の遺体を発見したとのことだが、他の隊員については不明のままとなった。日本の敗戦を知ったゲリラが、武器類を奪うために行ったものと推測されている。戦時中、この連隊で一度にこれだけの犠牲者が出たのは初めてのことであり、しかも降伏の日の悲劇として、隊員には辛く悔しい記憶となったとのことである。

|

« 降伏時の悲劇① | トップページ | 8月15日 »

Ⅶ 降伏」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 降伏時の悲劇① | トップページ | 8月15日 »