降伏時の悲劇①
父の回想記は、降伏後から復員までの様子をかなり詳しく記している。
父の抑留期間は、約1年半であるが、東南アジアから帰還された他の方々のなかには2年以上抑留された方もいる。
極寒の地シベリアの抑留については、夥しい記録が残っているし今も語り継がれているが、東南アジアの抑留問題はほとんど表に出てこない。置かれた環境や連合国側の思惑などの情況に、もちろん大きな違いはあるだろう。だが元兵士らが異郷の地に長期間留め置かれた事実に変わりはない。
今回からは、抑留生活のことも含め、降伏から復員までの父の記録を辿る。
降伏の日の前後、父が所属する中隊に大きな出来事が起きた。父はこのことを終生忘れられない悲劇だったと述べている。父の回顧、戦友会誌をもとに記す。
1945(昭和20)年8月初旬、船舶工兵第10連隊に或る命令が下った。
今後予想される英連邦軍の反攻を食い止めるため、マレー半島内陸部の拠点作りが急がれていた。しかし内陸部にはまだ現地情勢が十分把握できていない地域が多くあったのである。マレー半島中部のペラ河上流もそうした地域のひとつだった。
下った命令はペラ河上流の偵察命令である。おそらく現地ゲリラの活動が活発化していた地区だったのであろう。危険地域であるから事前に十分警戒して任務にあたるよう指示があった。偵察要員は父の第2中隊が主に担うことになった。
人員不足のなか、なんとかやりくりしてM少尉はじめ14名が選ばれた。幹候教育中の何名かも含まれていた。大発、小発各1隻、銃器、弾薬等も多めに積み込みポートセッテンハムを出発した。8月10日のことであった。父の同郷の親しいA伍長も含まれていた。
偵察予定のペラ河上流までは約150㎞、マラッカ海峡を北上して河口から遡上しなければならない。海峡では敵潜の攻撃を避けるため、夜間航行もしたらしい。
11日、ペラ河の河口に到達したとき、水路が複雑なため大発が擱座した。このとき一人の幹候伍長が水没し行方不明となってしまった。河口近くの警備隊に捜索を依頼し、翌12日偵察隊は河を遡上開始し、8月13日にはテロカンソンの味方警備隊に立ち寄り、1泊した。
だが、偵察隊が出発した翌日11日から12日にかけて、連隊内部で「深刻な情勢変化」について会議が行われていたのである。
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