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2017年3月 6日 (月)

ポートセッテンハム

さて、父たちはスマトラ島の北端には達したが、アンダマン諸島やニコバル諸島への移駐は行われなかった。最も大きな理由は、移駐先の環境が整っていなかったこと、海上輸送体制の不備などであったらしい。ただしその年(1944年)の11月には、連隊の一部の人員はアンダマン諸島などに派遣されており、降伏時まで駐留していた。

その後連隊はいったんベラワンに戻り、やがて1944(昭和19)年8月末になって、ポートセッテンハムに移駐することになった。最後の駐留地であった。
ここはマレー半島の中部の要衝であり貿易や沿岸漁業で栄えた港町である。東50㌔には「クアラルンプール」がある。
ここに連隊本部と私の所属する第2中隊(ロ隊)の大半が駐留した。他の第1中隊(イ隊)や第3中隊(ハ隊)は、マレー各地、ボルネオ、ジャワ、スマトラ、アンダマン、シンガポールなどに分散配備され、主に物資輸送や海軍に協力する任務などについていた。

ポートセッテンハム(ポートスウェッテンハム とも)は、現在「クラン」といわれている地区である。名前の由来は、19世紀末から20世紀初めに英国植民地行政官であった Frank Swettenham に由来する。なお、この地は戦争末期に英連邦軍が反撃作戦を計画したとき、上陸地のひとつに想定していたとのことである。

父は、ここで中隊本部附きの下士官として、主に兵器、給与に関わる事務処理をしていたようだ。1944(昭和19)年の11月からは、2度目の初年兵教育の助教をつとめている。このころの初年兵は、ほとんど現地徴集であり、陸海軍に徴用された船員や、何らかの理由で徴兵延期となった現地船会社・商社などに勤めている者も含まれていたそうである。

戦後(1980年ごろ)現地を訪ねた戦友によると、当時の部隊兵舎が残っており、港湾労働者の宿舎として使われていたとのことである。下はそのとき写した写真である(戦友会誌より)。

JijKoko

左:第2中隊兵舎 
右:第2中隊本部(さらに左奥には連隊本部があった)

1945(昭和20)年に入ると、現地の情勢はますます混迷を見せはじめる。英連邦軍の反撃作戦への備えをしなければならないのに、補給はほとんど途絶え、武器・弾薬・食糧は不足するばかりであった。
次回はこの地においても、いよいよ「全軍総特攻」の準備に入る様子をみる。

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コメント

「やま」さん、コメントありがとうございます。
もしお祖父様が陸軍所属で輸送業務をしておられたとすると、父と同じ船舶工兵第10連隊の所属であったかもしれませんし、ふたりに何らかの交流があった可能性もあります。このブログへのコメントは基本的にすべて非公開にしてありますので、メールアドレスを記していただければ、折り返し詳しい情報提供なども可能かと思います。今後ともよろしくお願いします。

投稿: ブログ主 | 2021年6月19日 (土) 21:32

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