8月15日
日本軍が「終戦の詔勅」を受け、その戦闘行動を停止するまでの過程は、地域によって異なる。南方軍では、一切の武力行使の停止は8月25日零時とされた(8月22日付け大陸命第1388号)。
父の連隊が武装解除のために移動を始めたのは9月1日であった。8月15日から月末までの様子を父は次のように記していた。
≪8月15日昼、連隊本部の会報ラッパが鳴った。私は命令受領者として参集し、「終戦の詔書」の内容を受領するとともに、連隊長から今後の留意事項も同時に受け取った。
中天の太陽がいつもより眩しく輝いていたようにみえた。このとき中隊長らは昼食のため集会所にいたので、私は中隊幹部に直ちに終戦の旨を伝達・報告した。かれらはすでに予期していたかのように、その報告を静かに聞いているだけであった。
この日の私は、終日事務作業や報告業務などに忙しく、戦争が終わり、日本が降伏したという感慨にひたる余裕などなかったのである。しかし業務が一段落してふと我に返ると、これまでの自分を支えてきた兵士としての使命感が何となく失われ、虚しい気持ちになったことは事実だが、日々の忙しさは何も変わらなかった。
連隊の作戦活動は中止され、各地域に分散配備されていた隊員の復帰が命じられた。私は中隊本部の関係文書の処分を指示したり、下士官・兵の俸給6か月分の支給を軍事郵便貯金通帳に記載するなどの事務作業に追われていた。他部隊から依頼された弾薬の処分、軍票の処理も行われていた。
とくに、自分の日誌など私的書類・写真をすべて処分したときは、これまでの軍隊生活が無になるようで、全く痛恨の極みであった。
「詔書(承詔の誤記か)必謹」が連隊長から強く指示されたが、一部の兵はあくまで徹底抗戦を叫び、あるいは敗戦の事実を受け入れられずに自暴自棄になる者も多数いた。しかしながら、日が経つにつれ、大多数はこの事実を受け入れていったのである。
こうした混乱のなかでも、私の下士官としての仕事は何も変わっておらず、軍から次々に入電する文書や連合国側からの伝達などの整理に追われていた。≫
だがいったい連合国軍はいつどこから上陸してくるのか、それが全く不明だった。
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