ニースン病院
1946(昭和21)年7月、父はリババレーを離れてシンガポール島中部の「ニースン」へ転じた。ここには日本の元陸軍病院があり、作業は病院の衛生材料などの整理であったが、実質は帰還する日までの待機場所であったようだ。
≪7月になって、私を含む何名かは日本人病院の作業隊に移った。今までのような厳しい強制労働もなくなり、軽作業だけの比較的自由な生活を送ることができた。
リババレー演芸場に倣って自前の小さな演芸場が建てられた。私も患者たちと共に劇に参加したりした。はやく家族のもとへ帰りたいと思う気持ちがつのるばかりであったが、帰還予定の日は全く知らされず、絶望的だと思い始めていた。ある日、病院の患者送還に立ち会った際、病院船の一人の看護婦と話をしていたら、岐阜の恵那出身であると知らされ、彼女から岐阜空襲の被害のことなどを聞くことができた。私は急いで家族宛の手紙を書いて彼女に託したのである。≫
下は、ニースンの演芸場完成時の写真。最後列右端が父。
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