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2017年4月20日 (木)

リババレー作業隊②

ポツダム宣言には、
「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」
とある。元兵士の早期帰還はGHQにとっても大きな課題であったが、それは必ずしも順調ではなかった。
東南アジアの日本軍の主体は「南方軍」であり、陸軍約61万人、海軍12万人の合わせて約73万人、民間人約5万人、総計78万人余りであった。しかも兵士は東西約5千㌔にわたり分散配備されており、東南アジア連合軍(SEAC)としても、どのようにして日本軍を統御できるか、大きな不安をもっていたといわれる。とりわけ主体となる英軍にとっては頭の痛い問題であったが、このことは後に触れることにする。

父たちは、ラヤンラヤンから順次シンガポールなどにある収容所へ移されていった。
1946(昭和21)年3月10日、ラヤンラヤンでの生活に別れを告げ、連隊としては第2回目の派遣要員30名の一人としてシンガポールの「リババレー作業隊」に行くことになった。
前年の12月1日付けで私は「曹長」となっていたが、その前日に帝国陸海軍は解体していたのである。
降伏後間もない頃の収容所は、どこも過酷な状況であったらしい。開戦時のマレーやシンガポールの戦いで捕虜となった者が監視役となり、報復的労働を強いたり、わざわざ炎天下に衆人環視の場を設けて、解放された元捕虜や一般市民への見せしめ的な作業をさせることも多かった。そのため作業隊員のなかには、逃亡を企てたり、監視兵の仕打ちに耐えかねて殴り倒したところ、「戦犯になってしまうぞ」と誰かからいわれ、自暴自棄になってテント村に帰って自決した者もいたそうだ。
しかし私の来た当時のリババレーは、環境がかなり改善されていたようだ。所長が交代したことが大きかったらしい。人員は八千人ぐらいで、広大な敷地に天幕(テント)が張られていた。
ほぼ1個小隊が作業班として編成され、英印軍の要求で各地区の作業を分担した。私の小隊は、はじめ港湾土木作業が多かったが、やがて病院等で衛生材料の整理を指示された。日本軍の倉庫に入り、朝から夕方まで作業が続いた。こうした日課が約半年余り続いたのである。朝昼の食事は乾パンが数枚程度で、夕食の配給レーションも空腹を満たすことはなかった。栄養不足を補おうとして、衛生材料のカルシウム剤やブドウ糖をこっそり拝借するなどしたが、それも一時的な気晴らし程度にすぎなかった。

苦しい作業だけが続く収容所生活ではあったが、楽しいことが無かったわけではない。彼らの中から演芸場を作ろうという計画が持ち上がった。

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