ラヤンラヤン
1945(昭和20)年10月9日からラヤンラヤンでの生活が始まった。
≪ラヤンラヤンは、武装解除された連隊の自活の場所であった。駅で降ろされた我々は、駅近くのゴム農園のある場所で当分の間自活せよという指示を受けた。
私がラヤンラヤンで生活したのは約半年間であり、その後シンガポールの作業隊に行かされることになる。
ここでは、英連邦軍の監視・管理はそれほど厳しくなかったが、少なくとも500人近くいた我々には住居もなく、生活のためのあらゆる施設を一から造らねばならなかった。自立自活の生活は、しかし後の作業隊のときに比べれば自由度が大きく、まだ隊員の団結心も強かったのである。
まず小隊毎に掘立小屋を作るよう指示があった。小屋の資材はジャングルから木材を調達して作り、風呂場、調理場なども設営した。英軍からの食糧配給は僅かであったから、カタツムリ、蛇、トカゲなどが食材となった。配給物は近隣の農家と交換し、野菜・芋などを手に入れたり、農作業を手伝って家畜を分けてもらうこともあった。近くの川では漁労班が活躍した。炊事を担当した私は、塩などの調味料が不足したため味付けに苦労したことを覚えている。≫
ラヤンラヤンに父は半年拘束された。英軍からの支給品は少なく、不足食糧は自分たちで調達した。しかしまだ後の強制労働作業は無く、連隊としての組織も残っていたため、互助と協力による生活は維持できていた。
≪やがてレンパン島やシンガポールから噂が入ってきた。我々の連隊から順次送り込まれている収容所では、食事も満足に与えられず、日々報復的作業労働が課せられ、病死や自決する者も出ているらしい、と。
隊員の間に大きな不安と動揺が広がった。≫
[ラヤンラヤンを偲ぶ]
戦友会誌の挿絵より
レーションの空き缶でウクレレやバイオリンを作って演奏し無聊を慰め、天幕で登山帽なども作った、と記されている。
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