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2017年4月 6日 (木)

リババレー作業隊①

Po

上のシンガポール地図は、1940年代の幾つかの地図資料をもとにして作成してみたものである。
1920年代から英軍が島全体を要塞化し、とくに南側はトーチカや砲台で覆い尽くされ、「東洋のジブラルタル」といわれたが、1942年2月、日本軍の北からの攻撃に絶えられず約10日間で降伏した。以来、日本軍の拠点のひとつとなり、昭南島といわれた。

さて、ラヤンラヤンで自活していた連隊主力は、やがて順次作業隊派遣を命じられ、シンガポール等へ分散配置された。作業隊は、数名~135名の単位に分けられ以下のような地区へ派遣されていった。
『ケッペル』作業隊 135名   『ジョホール」作業隊   70名
『テンガー』作業隊  38名  『リババレー』作業隊   30名
『エンドウ』作業隊    14名   『クアラルンプル』       24名 など

なお、降伏時に連隊主力に合流できず、配備されていた地区でそのまま武装解除となった者もあり、上記人員は船工10連隊全体の派遣実態を示すものではない。
シンガポールに限って言えば、上記以外の収容所は、英陸軍が管理したチャンギ、タンジョン・パーカー、ウッドランド、ローヤン、ホーランド、英海軍が管理したセレター軍港、センバヤン、ブラカンマティなどであった。

1946(昭和21)年3月、父が派遣されたのは『リババレー』作業隊であった(のちにニースンへ移動)。父が派遣されたとき、収容所の環境は開設当時よりも随分改善されていた。しかし開設当時は過酷な報復的な作業を命じられたり、劣悪な環境に置かれ、ずいぶん荒れていたらしいが、その後は所長の交代もあり改善されていったらしい。

次回からリババレー作業隊の回顧を見る。

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