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2017年11月 5日 (日)

坂下の空襲

Photo岐阜空襲について記した以前の記事 で、中津川の坂下に落とされた焼夷弾のことに触れた。その事実は、『坂下小史』と『坂下町史』で確認できるが、たぶん『坂下町史』の記述の元になったと思われる小冊子を最近読むことができた。『坂下の空襲 さかしたの昔話』(森保著 1989年)である。全体は約50頁で、空襲の部分は前半18頁に記されている。
冊子には、焼夷弾が落とされた当夜の様子が詳細に描かれている。筆者の森 保氏は、当時国民学校5年生であったとのこと。以前紹介した『坂下町史』の内容と一部重なるが、冊子の内容を大まかに要約しておく(以前の記事はその一部を訂正する必要があるけれども、今のところそのままにしておく)。

○空襲のあった日時
1945(昭和20)年7月9日午前零時40分頃
*岐阜空襲との関連を考えると、7月10日午前零時40分であろう。
○空襲場所
今の坂下町南部を中心とする地域に焼夷弾が落とされた。
「中外公会堂の上の山あたりから、握の神明さまの上あたりまでの間」で、民家一軒に落とされたもの以外は山や田畑であり、山に落ちたものも、緑茂る生木ばかりだったためにそのまわり十㍍以内が燃えた程度だった。ただし不発弾がいくつかあり、筆者もそれを触って遊んだ。
○人的被害
15、6発の爆弾(焼夷弾)の一部が「下外」の一軒の農家を直撃。
その吉村さん宅の2階に下宿していた山田夫妻が死亡。山田さんは、名古屋→中津川→坂下に疎開していた三菱の軍需工場(今の坂下中学校の場所)の上役だったとのこと。

山田さんの妻は家の2階で死亡し、本人は火傷を負ったまま2階から下に飛び降り、救助されたものの治療ができず、翌朝一番の貨物列車で三菱の人たちが付添い、中津川の林病院に運ばれ、9時頃に亡くなったという。1階の吉村さんは夫が出征中で、妻と一人娘が家を守っていたが、空襲時は二人とも逃げて無事だった。
最初に吉村宅の火災を発見した近所の人によると、たまたま爆撃機の編隊を見ており、そのなかの一機が青いランプをつけており、赤のランプに変わったときにサーサーという音と共に空爆があったらしい。森氏の家では、空爆時に母が自分を抱きしめていたこと、火事があったとき、父と姉がすぐ現場に行ったことを覚えているという。

以前の記事で述べたことの繰り返しになるが、坂下のこの空襲は岐阜空襲との関連性が強いと考えられる。もちろんその確たる根拠はない。それでもBall氏の回想記を何度も読み直してしまうのである。

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