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2017年12月13日 (水)

工兵第26連隊 (5)

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「レイテ島戰況圖十一月下旬」
(部分:戦訓特報 第40号より)


「工兵第26連隊」は約400名の隊員のうち、レイテ島における生存者がたった1名といわれているため、今なおその動向の全体像は不明のままである。
11月初旬、オルモックに上陸した第26師団は、輸送手段(大発など)の不足や輸送船が沈められたことなどにより、糧食や武器類が貧弱なまま戦いを強いられることになった。
上陸後の工26は、12月決行予定のブラウエン飛行場攻略作戦のため、兵器(野砲)や兵士の通る道を啓開する作業に従事していたものとみられる。そのことを示す命令書は以下のように記している。

工兵第二十六聯隊長ハ速カニ「オルモック」ー「アルブエラ」ー
「ルビ」ー「ブラウエン」道ヲ野砲道ニ啓開スルニ努ムベシ
特ニ右道路状況ヲ適時報告スベシ
無線一分隊ヲ十二日朝「イビル」ニ於テ其ノ指揮下ニ入ラシム』
(以下略)【二六師決作命甲第二號 11月12(?)日】

また、工26連隊長品川中佐からの報告といわれる、以下のメモが参本にある。

『ルビ迄野砲臂力搬送道路完成』
【戦況手簿 昭和19年11月27日の欄 参謀本部第二課】

ブラウエンへ至る道のうち、ひとまずルビまでの搬送道路が工兵によって完成したとのことであろう。道路といっても、脊梁山脈の険しい山道の隘路だったらしい。第26師団兵士は、急竣な山を登りブラウエン方面に向かうが、糧食も工具も武器も不足するなかで落伍者ばかりが増え、増援部隊の到着も遅れて作戦実行に影響した。もはや敵攻撃の態勢など十分整えられる状況にはなかったと考えられ、斬込隊が散発的に突撃を繰り返した。

大岡の『レイテ戦記』にも頻繁に紹介されている偕行社の「戦訓・レイテ戦史」とは、大本営陸軍部がまとめた「戦訓特報」第40号(昭和20年2月26日)「レイテ島ニ於ケル作戦経過ノ概要並ニ教訓」のことである。ブラウエン飛行場への攻撃について、その「戦訓特報」を見ると、大岡も引用している12月3日のこととして、工26のことが記されている。

「二八七高地前面ノ敵ハ迫撃砲に二ー三ヲ存スル一○○名内外ナルモノノ如ク、物料投下ニ依リ補給シアリ。
工兵聯隊長ノ指揮スル一小隊ハ同高地附近ヲ確保シアリ。

続いて、独歩13連隊重松大隊の主力が飛行場への斬込隊を投入する予定などが記されているが、おそらくこれが、レイテ島における工26最後の公的に確認できる戦歴かもしれない。
この1週間後には飛行場攻撃を中止し、部隊は転進し始める。その移動の最中に敵の攻撃を受け、工26は全滅したと考えられる。
なお、戦後間もないころ出された独立歩兵第13連隊第3大隊及び工兵第26連隊所属兵士の死亡報告書には、その推定される戦死年月日及場所が以下のように記されている。

 

比島「レイテ」島「ブラウエン」飛行場西方十粁
昭和十九年十二月二十二日

「工兵二六観音」の隣に建てられている「戦歴碑」では、玉砕の月日が「12月16日から22日」とあることは前回すでに記した。もとより彼らの戦死の状況は確たる記録も証言もなく、推断によるものである。アジ歴にある「11.比島方面部隊」の部隊史には、「工兵第26連隊(泉第5319部隊)」の昭和19年12月のことについて以下のように記している。

「昭和19、12
 タリサヤン転進中ルビ東方地区に降下した米軍空挺隊とブラウエン、
 ダガミ方面よりの三方向攻撃を受け激戦を展開した。
 自19、12,16
 至 〃、12,22  ブラウエン西方十粁の戦闘に於て玉砕す。」

戦後慰霊のために現地を訪れた人々も、その過酷な自然条件のため、戦場であったところには立ち入ることを諦めざるを得ず、遠くに眺めながらただ手を合わせることしか為す術はなかったという。

 

 

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