工兵第26連隊 (6)
工兵二十六観音 愛知県田原市・蔵王山(南面)
第17次レイテ島慰霊巡拝団がレイテ島を訪れた際、ブラウエン追悼のことばとして読み上げられた追悼文の一部を最後に記しておく(「ああレイテの墓標」より)。
「かねてアルベラ附近にて米軍と激闘中であった、独立歩兵第十三聯隊第三大隊、並びに工兵第二十六聯隊は先遣部隊として米軍が不可能と信じていた脊梁山脈越えを敢行、南飛行場に突入、一時之を占領したものの後援続かず、加えて米軍イピル上陸に伴う作戰変更の為、再度の山越え転進により、その大半が散華されました事は、まことに痛恨の極みであります。
又、この進路啓開の道路工事に従事、力尽きその儘、文字通り密林中の人柱となられた工兵第二十六聯隊戦没者のご遺骨や認識票を、脊梁山脈奥深くに数多く発見するにつけ、当時の想像を絶する進攻作戰が思い遣られ、一しお胸が痛んでなりません。
尚、かねて関係者一同待望久しかった工兵第二十六聯隊戰没者慰霊碑が、思い出の豊橋近くの渥美郡田原町蔵王山頂に、去る昭和五十五年八月十日立派に建立されました。建立時期遅延したと雖も、第二十六師団随一の規模と環境に恵まれた慰霊碑であることを、ご報告申しあげます。」 (昭和58年4月27日)
「工兵第26連隊」は、父が初年兵時に北支の大同で1年ほど属していたにすぎない連隊であるが、他の部隊と同じくその連隊の最期は悲惨を極めた。他方、自らはマラッカ海峡で英軍潜水艦に攻撃され、危うく海の藻屑となっていたかもしれない体験はあったが、約6年余りの軍務から生還することができた。常々父は、自分が今も生きていることを「不思議なこと」と語るのみであった。
かつて籍を置いた連隊の一員として工兵二十六観音像完成記念式に出席した父の耳には、亡き戦友たちの呻き声や声なき声がきっと届いていたにちがいない。自らの戦後の苦悩も重ねつつ。
主に参考としたもの
○「戦史叢書」 捷号陸軍作戦(1)
防衛庁防衛研究所戦史室 朝雲新聞社
○『「戦訓報」集成』第2巻
戦訓特報第40号復刻版 芙蓉書房出版
○「戦況手簿」参謀本部第2課 昭和19年11月」アジ歴より
○「レイテ戦記」 大岡昇平 中公文庫 1974年
○「レイテ島カンギポットに散華せし父を偲ぶ」
重松正一 2000年 非売品
○「ああレイテの墓標 泉慰霊巡拜団の記録とある遺族の思い出」
後藤正男 昭和54年 非売品
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